第六話 涙の理由 後編



 ――それは、雪の降る日だった。

   彼は、雪の降る街を走っていた。

   呼吸を荒くして、汗を散らせて。

   ただ一心に、守ると決めた二人のもとへと――




「はぁっ……はっ……!」


 心の臓が跳ね上がる。眩暈が視界を妨げる。

 その限界を感じながらも、彼は足の回転を止めることなく。むしろ速め、速め、さらに速めて、ただ目的の場所へと向かって、愛おしい二人の待つ場所へと向かって駆けていた。


 火照った身体に、ちらつく雪が軽く触れる。

 それは彼の高まった体温によって、すぐに形を変えていく。雪から水へ、水から気体へと。燃えるような彼の疾走によって、世界すべての速度が上がっているようにも思われた。


「くっそ、間に合えっ……!」


 彼は吐き捨てるように、そう呟く。

 目的の場所が近づくにつれて、焦燥感は逆に増していく。

 いつもは人気の多い大通りに、人っ子一人いない状況もまた、彼の恐怖心を煽っていた。そして、この空の曇天模様のような不安が、彼の心を覆っていく。


 ――一秒、また一秒と。

 ――一分、また一分と。


 時は過ぎていく。流れていく。

 ただそれでも彼に出来るのは、走ることだけであった。


 愛する妻と娘の待つ、我が家へと。


「……っは! はぁっ……っ!」


 しかして、彼はたどり着いた。

 そこは貧しくも、裕福でもない普通の家。レンガ造りの、見慣れた我が家。


「――――――――っ!?」


 だがしかし、彼はすぐに異変に気が付いた。

 それは、そう。あまりに静かすぎたから――あまりに、人気がなさ過ぎた。

 そんなはずはない、と。彼はすぐさまに家の中へと飛び込んだ。そして階段を駆け上がり、ある部屋のドアを開けた。そして――


「あ…………っ! あぁ……っ!!」


 ――そこにあった現実は、あまりに残酷だった。

 パチパチと、火花を散らす暖炉。その前にはテーブルがあり、次いでソファー。


 そのソファーに、彼の妻はよく座っていた。だんだんと大きくなっていくお腹を撫でながら、もうじき産まれてくるであろう子供のため。彼女は、白い雪のような毛糸で何かを編んでいた。――何かは秘密と、そう言って笑って。


 そのソファーの上に、彼女は眠っていた。

 真っ赤なマフラーを手に持って。もう、目覚めることのない眠りに、落ちていた。そして、その手にはもう一つ。大切に、守るように、抱きしめられているモノがあった。


 それは、二人の授かった――愛すべき命。

 愛娘の、傷一つない姿だった。


「ありが、とう……っ!」


 彼は動かぬ妻を、冷たくなった妻を抱きしめて涙を流して言う。

 そして――


「――……ごめんっ!」


 そう、謝罪の言葉を、いや――懺悔の言葉を口にした。

 その直後、彼は娘を抱えて再び駆け出す。


 もう、ここにはいられない。

 もう、この街にはいられない。


 残っていれば、次は娘さえも失ってしまう。

 妻が残してくれた宝物でさえも、失ってしまう。だから、彼には逃げる以外の選択肢は残されていなかった。そう――


「――ごめんな、クリム」


 ロマニには、それ以外に出来ることはなかったのである。

 静かに眠る娘に、謝罪の言葉を口にしながら――


◆◇◆


「――……盗賊、ギルド?」

「あぁ、ギルドってのはそれぞれの職種をまとめる組合みたいなもんだ。その中でも俺は、盗賊をやってたんだよ」

「……………………」


 俺が聞き返すと、ロマニさんはそう言った。そして、腕を組んで一つ、息をつく。こちらが黙っていると、彼はさらに説明を加えた。


「ただ、俺のいたギルドは厄介なところでな。金を積まれりゃ、違法な薬の密売や、果てには殺しだってする。正直に言っちまえば、ただの犯罪組織だった」

「そう、なんですか……?」


 俺はそれを言われても、正直あまりピンとこなかった。

 何故なら、それは生きるための行いだ。少なくとも俺の【スライム】時代の場合、自分たちよりも弱い小動物などを捕食することがあった。だとしたら、ロマニさんの行いだって違いはないように思える。


 だが、しかし――今の場合、重要なのはそれを彼が悔いていることだ。

 そして、そのことで何かがあった、ということ。


 そう思った俺は、黙ってロマニさんの話を聞くことにした。


「俺も最初は、それを何とも思っちゃいなかった。殺しだってやったし、怪しい薬だって売った。生きるために――つったら言い訳になるがな。当時はそれが当然だと、本気で思ってた」


 彼はそこで、一度言葉を切った。そして――


「――だが、そんな俺が心変わりする出来事があった。なんだと思う?」


 俺に向かって、口元に笑みを浮かべつつそう訊いてくる。

 だが、すぐに答えは浮かんでこない。


「えっと、すみません……――」

「――……クリムだよ」

「え……?」


 無意識に頭を掻いていた俺は、ハッとしてロマニさんを見た。

 するとそこにあったのは、心の底から嬉しそうな表情。

 彼は愛娘のことを想い、笑っていた。


「アイツを授かったって、妻から聞いた時に――自分がやってきたことが、どれだけ恥ずかしいことだったか、思い知らされたんだよ。俺は、これから産まれてくる子供に自信を持って自分が父親だと、胸を張って言えるのかって、な」


 ふーっと一度、深呼吸をするロマニさん。

 その目は、スッと細められる。


「だから、俺はそのギルドを抜けることにしたんだ。けどよ、それが一筋縄じゃあいかなかった。そりゃ、そうだよな。組織の情報に通じてる人間を、タダで見逃してくれるわけがねぇ。それで、奴らが一番に手を出したのが――妻だった」


 声が、震えていた。


「奴らは俺が家にいない隙を狙って、襲撃しやがった。そこには、まだ産まれたばっかりのクリムもいたんだ。妻――クリスは、赤ん坊のクリムを庇うようにして――」

「――ロマニさん!」


 もう、分かった。

 いくら勘の悪い俺でも、その後に二人がどうなったのかが、分かった。

 だから、見ていられなかった。声を震わせ、手足を震わせ、その厳つい顔に涙を浮かべているロマニさんのことが。

 俺は、彼のゴツゴツとした大きな手を取った。

 もう分かりました――そう、伝えるために。


「あ、あぁ……すまねぇな。坊主」


 そこに至ってようやく、自分がいかにヒートアップしていたのかに気が付いたのだろう。彼は苦笑いを浮かべて、俺の頭をワシャワシャと、力任せに掻き乱した。

 そして、最後にこう結論付ける。


「だから、なんだろうな。アイツ――クリムは、母親の話になると泣き出しちまう。もしかしたら本人は憶えてないにしろ、どこかでトラウマになってるのかもしれねぇ」


 「だから、少し気遣ってやってくれ」――と、彼は言った。


 俺はそれに対して、無言でうなずくしかない。それでしか、彼に答えるすべを俺は持っていなかった。しかしそれで十分だったのか、彼は明るい笑顔を浮かべる。


「何でだろうな、お前には話した方がいいと思えたんだ。理由は分からんけど――な!」

「はははっ……」


 ロマニさんは、こちらの背中をバシバシと叩いた。

 それに俺は苦笑しつつ、しかし内心で彼の疑問の答えを理解していた気がする。

 それはきっと、俺がまだ【人間】としては中身が空っぽだから。おそらくロマニさんは、人形に向かって語りかけているような、そんな感覚だったのだろう。俺には、そう思えた。


 だけども、【人間】としてはまだ空虚な自分が役に立てるなら。

 それは何て良いことだろうか、と。


 つい、自分が【魔王】であることを忘れかけた、その時――


「お父さーんっ! スライくんも、そっちにいるのーっ?」


 クリムの、元気のいい声が響き渡った。

 俺とロマニさんは顔を見合わせる。するとどういう訳か、どちらともなく笑ってしまった。ただ、さっきの暗い話とは真逆な彼女の声が可笑しく感じられてしまうのだ。

 さて、そうして笑っていると、お嬢様はこちらにやってこられる訳で――


「――んもう! 二人とも、何を笑ってるの? 呼んだんだから、聞こえてたなら返事してよねっ!」


 彼女――クリムはエプロン姿にお玉を持って、頬を膨らしていた。

 プンスカと。珍しくご立腹な様子だ。


「悪いなぁ、クリム。スライの坊主との話が面白くってよ。それで――」

「――お父さん? テーブルの上、片付けといてって言ったよね?」

「あ、悪い。今すぐ片付けるわ」


 娘に一喝されて素直に、かつすごすごと、部屋を出ていく父親。

 その後ろ姿を見送りながら、「まったく、もう」と、クリムは腕を組んだ。そんな二人の姿を見て、俺はまたおかしくなって笑ってしまう。すると、そんな俺を少女が見た。


 一瞬だけ、ドキリとする。

 だけど今はもう、口にする言葉は決まっているように思えた。


「なぁ? クリム――」


 だから、俺はごくごく自然に。

 【家族】がするような、そんな問いかけを。


「――今日の晩御飯のメニューは、なんだ?」


 クリムに、投げかけた。すると――


「――うんっ! 今日はね……」


 彼女もまた、それをしっかりと受け止めてくれた。

 安堵して俺は彼女の隣に並ぶ。そして、二人で一階のリビングへと向かった。


 不思議なこともあったものだと、俺は思う。

 数日前までは、まるで分からなかったことだったけど、今なら少しだけ分かるような気がした。それはきっと、二人の秘密に触れて、それを共有したから。

 だから――





 ――ほんの一時だけ、だけど。

 まだ【人間】については分からない俺だけど。

 【家族】についてだけは、理解できたような、そんな気がした――


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