第三話 【人間】、【家族】、こころ
食事を終えると、今度はクリムとの勉強会だ。
【人間】の生活に関する知識が乏しい俺は毎夜のように、彼女から様々なことを教わっていた。場所は、二階にある彼女の部屋。そこそこ広い一室には、奥にベッド、手前には丸型の小さなテーブルが配置されていた。そして、部屋の隅には可愛らしいぬいぐるみ。さらには色鮮やかな調度品が並んでいた。
俺たちは、テーブルの前で肩をくっつけるような形で話をしている。
今日の授業は貨幣制度についてだ。
「えっと、これが1イェン銅貨でしょ、それで順番に10イェン銀貨、100イェン大銀貨、最後に500イェン金貨! そこから次は、1000イェン、5000イェン……ここには、今はないけど10000イェンまでの紙幣があるの。このアル村では自給自足が基本だけど、王都なんかに行ったら、これを食べ物とかと交換するんだよ?」
ズラリ、テーブルの上に硬貨と紙幣とやらが並べられる。
俺はそれを目に焼き付けようと、ジッと、穴が開くほどに観察をした。――が、そうしていると、である。ふと、一つの疑問にぶち当たった。それは、木の実などを取って生活をしていた【スライム】時代の俺にとっては然るべき疑問である。
「へぇー……ん? でも何で、こんな食えないモノなんかと、食べ物を交換したりするんだ? なぁ、クリム。どうしてなんだ? どうして王都の【人間】はその、自給自足? をしないんだ?」
「えっ!? ――えっと……あはは、なんでだろうねぇ。アタシにも分かんない」
しかし、それを投げかけるとクリムもそんな目を点にした。
ふむ――先生役がこれでは、事件は迷宮入りか。
「んー……謎だ」
「そうだねー、えへへ……」
俺たちは二人そろって首を傾げた。
こういった話は、ロマニさんに訊ねたら答えてくれそうな気もする。だけど、それはクリムが嫌がるであろう。何せ、この毎夜の勉強会は彼女が買って出てくれたものだったからだ。それに別の教師に答えを求めては、どこか不義理にも感じてしまう俺なのであった。
「それじゃあ、今日はここまでにしよっか! お疲れ様、スライくんっ!」
「いやいや。こちらこそ、いつもありがとう」
そんな訳で、だ。
今日の授業はこれにて終了。俺たちは互いに礼をした。
礼に始まって礼に終わる。どちらが決めたわけではなかったが、俺とクリムにとってはそれがいつの間にかの決まり事となっていた。
感謝の言葉を述べるのにも、だんだんと違和感がなくなっているのは、このためだろうか。
まぁ、それはともかくとして、だ。
今日もあとは寝るだけだ。そのため、俺はおもむろに立ち上がり――
「それにしても――」
と、こちらが部屋を立ち去ろうとしたその時だった。
クリムの方から、そう切り出してきたのは。
「――スライくん。だいぶ、笑うようになったよね!」
「え……っ?」
そして、その内容は俺にとって予想外のモノであった。
笑うようになった――とは、どういう意味だろうか。俺にはその意味が分からなかった。何故なら、俺はとくに変わることなく、ただ【人間】について学ぼうとしてきただけのつもり、だったからだ。しかも、俺はどこかそこに『敵情視察』の意味合いをも感じていた。
だが、その様子を見てこの少女は、俺が笑うようになった――と言った。
それはどこか、逆行している。そのようにも思えた。
「そ、そうかな……最初から、笑ってたと思うけど」
加えて、だ。
俺は最初から笑いかけるようにしていたはず。
不審がられないように、必死に人間らしく取り繕ってきたつもりだった。それだというのに、この少女は俺がやっと笑うようになったと、そう言っている。
そう考えていると、自然、頬を掻きつつ苦笑いをしてしまった。
すると――
「――そう! その笑い方だよっ!」
「えっ……?」
突然に、クリムは声を張り上げる。そして、こちらの顔を指差した。
俺は驚き、その表情のまま硬直してしまう。対してクリムは腕を組んで大きくうなずいてみせた。
「何か違うって、思ったんだよね。どこか、遠慮してるっていうか、距離を置いてる――みたいな? 記憶がないから、不安なのかなって思ってたけど、何か違うなーって」
――ドキリとした。
見抜かれていた――ということよりも、そう言いながらぐっと距離を縮めてきたクリムに。彼女は俺のもとへと駆け寄ると、苦笑いをしている俺の顔をにーっと左右に引っ張った。優しい痛み。
俺が少し身じろぎをすると、彼女はパッとその手を離した。
そして、「にひひっ」と、悪戯っぽく微笑む。
「でも、もういっか。ちゃんと笑えるもんね! スライくんは!」
「そ、そうかな……」
「うんっ!」
俺がそう返すと、今度は花のような笑みを浮かべるクリム。
その表情に感じた胸の高鳴りは、いったい何なのか、俺には分からなかった。だけど少なくとも不快なものではなくて、心地のよいモノ。ロマニさんに感謝の気持ちを述べた時にも似た、そんな感覚。
胸の奥から、温かい感覚が湧き上がってきていた。
「ねねっ! スライくん、今日はちょっとお話しよっ!」
「え、あっ――ちょっと、クリム!」
「あっ――」
――気を、抜いていた。
俺はクリムに手を引かれるがまま、しかし思い切りバランスを崩してしまう。どうにか踏ん張ろうと数歩、大股でこらえるものの――駄目だ。そうとなると、この体勢のまま倒れるとクリムが怪我をするかもしれない。
だとしたら――
「ごめんっ……!」
「きゃっ――!?」
――俺は謝罪しつつ、クリムをベッドに押し倒した。
少女に、覆いかぶさるような形になる。鼻と鼻がぶつかりそうな距離。彼女の円らな瞳が、目の前に。唇は重なりはしなかった――が、緊張からか荒くなったその呼吸を肌で感じた。
時が止まったようにも、思える。
だが、それでも一秒、二秒、三秒――と、着実に時は流れていく。
何だろうか。先ほどとは異なる感情が、胸の奥から溢れ出してくるような、そんな感覚があった。しかし俺の頭の中には、その感情を正確に言い表すモノはない。いや、なかった。
互いに無言のまま、少しだけ、顔を遠ざける。
すると今までには分からなかった、少女の表情がハッキリと見えてきた。
瞳は微かに潤み、肌はほのかに上気している。パジャマの上からでも分かる。呼吸と共に上下する胸には、なるほど【人間】の女の子らしさを感じた。そして、やや乱れた栗色の髪には、言いようのない艶やかさがある。
思わず、吸い込まれそうな感覚。
だがしかし。俺は、それを寸でのところでこらえた。
これ以上はいけない。戻れなくなる。そう、感じたから――
「――ご、ごめんっ!」
俺はそう謝罪を口にして、クリムに背を向けた。
すると、数秒ほどの間を置いてから、後ろで少女が身を起こす音がする。
「ア、アタシこそ……その、ごめんね? 急に引っ張ったりしたから……」
「い、いや……」
そうして、しばらくすると、そんな謝罪の言葉が聞こえてきた。
それに対して俺は返す言葉もなく、ただ遠慮がちに答えるしかない。重い沈黙が、俺たちの間に降りてくる――そのように思われた。その時だった。
「で、でも! ぜんぜん平気だからね! だってアタシたち――」
その、言葉を聞いたのは。
「――【家族】だもんね!」
聞き覚えのない、言葉だった。
「【家族】――?」
俺はクリムの発した音の響きをただ繰り返す。
その響きは、ただの言葉ではなく、何か特別な意味を持っているように思えた。
だからこそ耳に残ったのだろう。俺は振り返って少女の顔を見つめた。すると彼女は赤らめた頬のまま、うんうんと、何度もうなずいてみせる。
「うん、【家族】! アタシとお父さんみたいに。スライくんもアタシにとっては【家族】だよ。だから、特別! だから、さっきのも――」
そこで、何故か気恥ずかしくなったのか視線を逸らすクリム。
それでも何かを早口で言い続けている彼女であったが、俺はそれよりも、自身の【前世】について思いを馳せていた。言うまでもなく【スライム】であった時である。
【
もちろん自身を生み出した親はいた。それでもそれは【分裂】の延長のようなものであり、特別だという意識もなかった。種の繁栄のため、存続のために生きる。それが当たり前のことと思っていた。
それに、俺の親にあたる【スライム】は、俺が生まれてすぐに【人間】に殺されたという。もしかしたら、生きていたのなら、違う感慨を得ていたのかもしれない。
だけども、それはもう確かめようもないことで――
「――なぁ、クリム。クリムの母親って、どんな【人間】だったんだ?」
「え……お母さん……?」
俺はそう考えて、少女にそう尋ねた。
その問いは、俺にとっては当たり前のようなモノにも思えた。だって、分からないのであれば、実際に身近な【人間】に聞いてみるしかないだろう? と、そう思ったのだが――
「――スライくん。ごめん」
「えっ――!?」
空気が、変わる。
「ごめん……出てって」
突如として、クリムは静かに声を上げた。
そして、俺を部屋の外へと追い出す。その細い腕のどこからそんな力が出ているのか、そう思うほどの力で、俺はやむを得ず押し出される形となってしまった。
廊下に出され、扉を閉められる。するとすぐに鍵をかけられてしまった。
「クリム――っ!?」
俺は意味が分からずに、少女の名を叫ぶ。
だが、それに返ってきたのは――
「――ぐすっ、ごめん……スライくん……」
「クリム……? 泣いてる、のか?」
そんな、涙まじりの声であった。
俺は思わずそう漏らしたが、当然なことに返事はない。ただただすすり泣く音が、壁越しに聞こえてくるだけだった。それを聞いて、しまったと、思う。
――あぁ。地雷だったのか、と。
しかし、感じたのはそれだけだった。
こうなると、【人間】としての経験の少ない俺には、どうしようもない。
そのため、ただ一つの音もたてずに自分に与えられた部屋へと向かうだけだった。そこは、彼女の部屋のような調度品はなく、ベッドだけ。
どうしてだろう。
一週間ここで平然と生活してきたのに、今、この時だけは酷く殺風景に見えた。
それでも、仕方ない。俺はゆっくりと歩を進めて、ベッドに仰向けに寝転んだ。
「【家族】、か……」
そして、俺はぼそりとそう呟く。
音は誰もいない室内に残響し、しかし次第に消えていく。
誰も答える者はいない。けれども、俺の思ったことはこれだけだった。
「【人間】も、大変だな……」
一人の部屋。
そこで、俺はこう思わざるを得なかった。
【人間】を理解することは、まだまだ難しそうだな、と――
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