31

 ウサギは死を悟り、そして私に死を悟らせた。

 さっきまで元気に跳ね、駆け回っていた命が、今まさに消えようとしている。


 一緒にいたウサギたちは友達だろうか、恋人だろうか、それとも家族だろうか。

 仲良く幸せいっぱいで遊んでいたところを、私が台無しにした。


 この子は明日も、明後日も生きていくつもりだったはず。

 でも、私はその意志を無視し、未来を完全に奪ってしまったんだ。


 横たわるウサギは、自らの流した血のぬかるみに嵌ったまま、小刻みに震えだした。

 私の姿を瞳に映したまま、まるで全身が心臓になったみたいに、びくん、びくん、と何度も何度も痙攣した。


 それは「まだ生きたい、死にたくない」と最後の力を振り絞り、訴えているようだった。

 生涯最後の懇願をしていたウサギの声なき叫びはだんだんと弱まっていき、やがて陸に打ち上げられた魚みたいに、ゆるやかに動きを止める。


 私はずっと心臓を掴まれたような苦しさを感じていたけど、ここにきてさらに強く締めつけられて、たまらず自分で自分の身体を抱きしめた。

 そして混乱する。なにを苦しんでいるんだと。なにを責めているんだと。


 私は肉が大好物じゃないか。今までさんざん多くの生き物の肉を食べてきたじゃないか。

 パパやスペット爺さんが獲ってきたウサギの肉を、おいしいおいしいと頬張ってたじゃないか。


 そうやって食べるのも、こうやって射ち殺すのも、おなじように命を奪っているのに、なぜこんなにも心が押し潰されるような気持ちになってるんだろう。

 私の頭の中では、かつて食べてきたウサギのことでいっぱいになっていた。


 忘れもしないのは、丸焼きを初めて食べた時のことだ。



 暖炉から上げられたばかりの焼き立てのそれは、香ばしいニオイを振りまいていて、皮がパチパチと音をたてていた。


 表面じゅうに塗られたソースのおかげでキラキラ照っていて肉々しかったけど、走っていた時のシルエットを再現しているかのように原型をとどめている。

 違いといえば毛が生えてないくらいだった。


 私はその太ももをむしり取り、一気にむしゃぶりついて骨から肉を噛みちぎる。

 隣に座っていたリコリヌに「あなたも食べる?」と差し出したけど、ニオイを嗅いだだけだった。


「こんなにおいしいのに食べないなんて、あなたも変わってるわねぇ」


 鼻にソースが付いてしまったリコリヌを放ったらかしにして、私は口のまわりを油でベタベタにしながら夢中になって肉を頬張り続ける。

 その様子を見つめていたパパが、口を開いた。


「うまいかルクシー。そうやっておいしく食べてくれると、パパもコイツを殺した甲斐があるってもんだ」


「うん、これ、すっごくおいしい! 殺してくれてありがとう、パパ!」


 パパはフッと笑って、もう片方の太ももをむしった。


「パパだけじゃなく、コイツにも感謝してやってくれ。コイツはルクシーのために死んだんだ」


「うん! ウサギさん、死んでくれてありがとう!」


「そうだルクシー、その感謝の気持ちを忘れるんじゃないぞ」


 パパは頷きつつ続ける。


「人間ってのは、いや、生き物ってのは何かの命を奪わないと生きていけない。それはどうしようもない事なんだ。ならせめて感謝しながらおいしく、しっかり残さず食らいつくして、取り込んだ命の分まで強く生きなきゃいけない。それが命を奪った者の責任ってやつで、それが奪った命へのせめてもの手向けってやつなんだ」


 しかし私は、パパの言ったことが全然わからなくて、自然と首を傾げていた。

 隣に座っていたリコリヌも揃って首を傾げる。


「フッ、まだルクシーには難しかったかな、ようは、全部おいしく食べろってことだ!」

 そう言い放ったパパは、私に負けないくらいの満面の笑顔で、ぷりぷりの肉にかぶりついた。



 その時も、そしてついさっきまでも、私はパパが話した言葉の意味をよく理解できずにいた。

 でもたった今、こうして命が消えゆく様を見せつけられて、ようやく理解できた。


 私はパパやママだけの力で生きているんじゃなかったんだ。ましてや自分だけの力でなんて、断じてなかった。

 今までは、食べ物という形になっていたから気づかなかっただけで、こうして命を奪い続けていたから、生きてこられたんだ……。


 私を襲ったクマだってそうだ。遊びで殺そうとしていたわけじゃない。自分が生き延びるために、命を狙ってくる敵に反撃しただけだ。

 もしかしたら、食べるつもりだったのかもしれないけど。


 生き物は、他の生き物の命を奪わないと、生きていけない……。


「命を奪う」という言葉の重さを実感しながら、心の中でつぶやいてみると、胸の奥がピリッと痺れるような感覚があった。

 それは決して気持ちのいいものではなかったけど、なんだか目が覚めたような気がした。


 そうだ、そうなんだ、私は命を奪わなきゃいけないんだ……生きるために。

 パパとママが帰ってくるまで、どんなことをしても生き続けなきゃいけないんだ。


 だからそのために、自分の手で命を奪って、食らって、取り込んで……強くならなきゃいけないんだ……!


 私は頷く。

 決意を腹に据えると、ずっしりしたものを感じて身体が重くなったような気がした。


 しかし自分を奮い立たせ、見えない手で自分の背中を押すようにしゃがみこんで、足元のウサギを両手ですくい上げる。

 矢を引き抜くと、ビクンと身体を痙攣させ、そして完全に動かなくなった。


 それは陶器でできた人形みたいに冷たくて、でもそれよりもずっと柔らかかった。


「……よし、行こう、リコリヌ」


 私はウサギを胸に抱いたまま、スペットの森をあとにした。

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