27

「……うがぁーーーっ!」


 私はリコリヌを助けたい一心のあまり、衝動的に吠えていた。


 そうなるともう止まらない。

 上半身だけになったゾンビみたいに両手で這いずって、リコリヌの後についていく。


 身体を引きずる振動で全身に鋭い痛みが走って、よってたかってヤスリがけされてるみたいだった。

 でも、皮膚が剥げ、肉が削げ、骨まで削られる悲鳴ですら、がなり声に変える。


「うわんっ! ぐわんっ! うわっ! ぐわあっ!」


 私の援護を受け、リコリヌもさらに激しく吠えた。


「ワン! ワン! ワン! ワンッ!」


 私とリコリヌのふたりがかりで吠え立てられたクマは、戸惑いの色を見せはじめる。


 なりふり構わなくなった私たちに、完全に面食らってしまったようだ。

 二匹の狂犬を相手にしているかのように、振り上げた爪をさまよわせている。


 どちらかに攻撃したら、そのわずかなスキをついて残ったほうから反撃を受けるんじゃないか、みたいな戸惑いを感じているようだ。

 焦った様子でせわしなく、私とリコリヌを交互に牽制している。


 かまわずじりじり近づいていくと、クマは距離を保つように後ずさりはじめた。

 そしてとうとう気迫負けしたのか、それともウンザリしてしまったのか、ついには私たちから背を向ける。


 そのまま……猟師から逃げるウサギのように、すごすごと逃げ出した。


「うぎゃっ! ぐぎゃあ! おぎゃあっ! ふぎゃああーっ!」


 私は抑えがきかなくなっていて、クマが走り去っている間もわからないことを喚き散らしまくっていた。

 クマの姿が見えなくなってようやく、我に帰る。


「やっ、やった……! 助かっ……うぐっ!? ぐふっ! げほっ! げほっ! ごほっ!」


 一気に身体の緊張が解け、ハアッと息を吐いた瞬間にむせてしまう。


 無理をしたツケがまわってきたのか、メデューサに石にされたみたいに身体が硬直して動かない。

 それに、石のまま水の中に沈められちゃったみたいに苦しい。いくら息を貪っても足りないくらいだ。


 リコリヌも気が抜けたのか、その場にへにょっと腰砕けになっていた。


「はぁ、はぁ、はぁ、はあっ……だ、大丈夫? リコリヌ」


 息も絶え絶えに、命の恩人に声をかける。

 それまで背中を向けていたリコリヌは、ぴくんと反応してこちらに振り向いた。


 愛嬌のある垂れ耳とタレ目、可愛らしいけどどこか間の抜けた感じの表情。

 ついさっきまで獰猛な狼みたいに吠えていたとは思えないような、いつもの心配顔だった。


 リコリヌは私の酷い姿を見て、ギョッと耳を跳ねあげていた。

 遭難した人を見つけた救助犬みたいにこちらに走り寄ってきて、すぐさま得意の顔舐めをはじめる。


「ふはっ、リコリヌ、ちょ、やめっ、くすぐったい」


 いつになく念入りに舐めてくる。顔をそむけようとしたけど、救助犬はしつこく私の顔を舐め続けた。

 手で防ごうとしても、顔を突っ込んできて長い舌を差し入れてくる。


 それはふざけているというよりも、ペンキ屋さんさながらに塗りつける仕事をしてるみたいだった。

 仕上がりに納得するまで止めてくれそうになかったので、しょうがなく観念して、されるがままになる。


 リコリヌは私の顔を、唾液でテッカテカにするまで舐めまくったあと、今度は私の全身をフンフンと嗅ぎ回って何かを探しはじめた。

 探し物が私の背後にでもあったのか、鼻先でグイグイ身体を押してきて、私はうつ伏せに転がされてしまう。


「うぎゃっ!? な、何すんのよリコリヌっ! 動くと痛いんだってば!」


 お目当ては背中の傷だったのか、まるで皿のミルクでも飲むかのように夢中になってピチャピチャ舐めはじめた。

 私の苦情は完全無視だ。


 もうどうにでもして、とあきらめ気味に頬杖をつくと、手のひらに何かを感じた。

 そして、私はようやく気づいた。顔の傷が治っていることに。


 岩の裂け目のようだった傷口も、そこから染み出す湧き水のようだった血も、すっかり無くなっている。

 蜂の巣に突っ込んだみたいに、ぷっくり膨れ上がっていたダンゴっ鼻も、何事も無かったかのように元に戻っていた。


「……ああ、そっか……そうだったんだ……知らなかった……あなたの舌って、傷を治す力があったんだね……」


 私は子供のころからヤンチャで、無茶な遊びをしてはしょっちゅう身体に生傷をこさえていた。

 その度にリコリヌが飛んできて、ケガしたところを舐めてくれたんだ。


 私の傷はやけにすぐに治るし、跡も残らなかったので、私自信がそういう特異体質なんだろうと思っていた。


 でも本当はそうじゃなくって、リコリヌが舐めてくれてたからなのか……。

 こんな大怪我をするまで気づかないなんて、ああ、私ってばなんてバカなんだろう……。


 背中舐めが終わると、焼け火箸を当てられ続けていたような痛みは、嘘みたいに消え去っていた。

 リコリヌはやり切った様子で、口のまわりについた私の血を舐めとっている。

 私は手を伸ばして、その頭を撫でた。


「ああ、ありがとうリコリヌ……助かったよ。でも……いくらあなたでも折れた骨までは治せないんだよね? 家まで帰ることができたら本を読んで、骨折を治す方法がわかるんだけど……とてもじゃないけど身体が動かないや……」


 クマの脅威は去り、ケガもすっかり治ったけど……身体の内にある痛みはヤバいまま残っている。

 痛くて身体が動かないのであれば、帰ることができないも相変わらずだ。


 名医リコリヌは、撫でている私の腕に沿って頭をこすりつけるようにして寝そべり、ぴったりと寄り添った。

 まるで虎の剥製で作った敷物みたいに、べたーっとうつ伏せになって、こちらに向かってしきりに目配せしている。


「なあに? もしかして、背中に乗れって言ってんの?」


 リコリヌはウワンと鳴いた。


「そりゃこの前、私があなたを背負って歩いたけど……そのお返しのつもり? でも、あなたに私を背負えるの?」


 リコリヌはまたウワンと鳴いた。


「はぁ、ほかに手がないからしょうがないけど、試すにしても一回だけだよ。こっちは身体を動かすだけでメッチャクチャ痛いんだから……あいたたたたた」


 ひどい腰痛持ちのおばあちゃんみたいな声をあげながら、私はなんとか両手だけで這いつくばって、タンカのようになっているリコリヌの背中に乗っかった。

 弓と矢筒を忘れるところだったので、慌てて手を伸ばして抱え込む。


 私がしっかりと身体の毛を掴むと、リコリヌはスッと起き上がる。

 重さを感じさせない足取りで、そのまま進み始めた。


 私がリコリヌを背負ったときは、歩くだけで地面に埋まりそうなくらい大変だったのに……リコリヌは私を背負っても、淀みなくスイスイ歩いている。


 うーん、最初は疑っちゃったけど、ちゃんと運べてるなぁ。

 てっきり私の重さに耐えきれなくて、グニャッてなっちゃうかと思った。


 落とされちゃうかと思って毛をしっかり掴んでたんだけど、必要なかったみたい。

 これなら問題なく家まで帰れそうだ。


 それにしても、今日ほどリコリヌが頼もしいと思ったことはないね。

 きっとニオイだけで私がどこにいるか探してくれたんだろう。


 しかも駆けつけ一撃のあと、クマを追い払って、死にかけの私の傷を舐めて治して、そのうえ送り迎えまでしてくれる。

 我が弟って、実はすごいヤツなんじゃ……とゆりかごみたいな背中で揺られながら、私は今更ながらに感じていた。


 それからリコリヌは特に迷う様子もなく、淡々と森の中を進んでいった。


 日は落ちてあたりは暗くなっていたけど、まるで昼間の森のように平然と歩き続ける。

 そして一度も迷うことなく、何者からも襲われることもなく、我が家までたどり着いた。


 リコリヌは私を乗せたまま慎重に階段を降り、地下室のベッドに飛び乗って、また床敷きのように腹這いになる。

 私はその背中から、粘液のようにだらんと垂れ落ちてベッドに移った。


 ああっ、これほどまでに家がいちばんだと思ったのは初めてだ。

 安らぎを感じるあまり、冬の夜にお風呂に浸かった時みたいに「はあぁ」と溜息をついちゃった。


 か……帰ってこれたぁ……。もうダメかと思って、死ぬ覚悟までしかけたけど……なんとか生き延びれた……。

 でも、お腹ペコペコだし、すっごい眠い……。でもでも、先に本を読んで、骨折の治し方を調べなきゃ……。


 と思ってたんだけど、気が抜けきってしまったのか……私は昇天するようにそのまま眠ってしまった。

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