26
ハッと顔を起こすと、血の跡を眉間にこびりつかせたクマと目があった。
……ああ、私がここに落ちて、アイツは追いかけるのをあきらめたわけじゃなかったのか。
ぐるっと遠回りして、この窪地に入れる道を探していたんだ……。
ここは袋小路、そして私は虫の息。
距離はまだ離れているけど、クマはもう追いかける必要もないと悟ったようだ。
それとも自分をこんな目にあわせた相手に、より恐怖を味あわせようとしているのか……のし、のし、のしとゆっくりこちらに歩いてきている。
完全に詰んでいる。
やったことないけど、チェスでいうならチェックメイトってやつだ。
私にはもう助かる術はないかもしれない。
でもだからといって、このままおいしく食べられてなんてやるもんか。
だって、どんな時でもあきらめないって決めたんだ。
「泣いた青虫」をほとんど守れなかった私だけど、最後の「七転八起」だけは忘れたことがなかった。
何回転んでも立ち上がったから、リコリヌを助けられたんだ。
今は立ち上がることもできないけど、手が動くのであれば抵抗することはできる。
走れなきゃ歩け、歩けなきゃ這え、這えなきゃ叫べ、叫べなきゃ祈れ、だ。
瞬きができなくなるまで……足掻いて足掻いて……足掻きまくってやるっ……!
私は自分が寝たきりとは思えないほど猛然と、側に落ちている弓を取り、矢筒から矢を引き抜いて、寝たままつがえた。
しかし力が入らず満足に引き絞れない。
それでも無理して力を込めて引っ張ると、身体じゅうがズキズキと傷んだ。
「く……っ!」
奥歯を噛みしめ、こらえつつ射る。
放たれた矢は山なりにゆるく飛んで、クマの顔に当たりはしたものの、オモチャの矢みたいに刺さることなく地面に落ちた。
今度こそと射った次の矢は、大きく外れてしまう。
ゴワゴワした毛を撫でるように、身体に沿って滑り落ちていった。
小山のような獣の影が、ついに私の身体を覆いつくした。
「こ、このっ……やっ……!」
叫ぼうとしたけど、肺がズキンと傷んで大声が出せない。
しかし私に残された、数少ない抵抗のひとつだ。
張り裂けるような痛みを、音に変えて振り絞る。
「このっ! や……やれるもんならやってみろおっ! 私は簡単にはやられないぞっ!?」
私は敵から目をそらさないようにして矢筒から矢を二本抜いて、威嚇するカマキリのように構えた。
「コイツでメッタ刺しにしてやる! それにこの歯でめいっぱい噛みついてやるんだからっ! お前が食べる直前まで、グサグサ、ガブガブしてやる! それに食べたあとも胃の中で暴れまくってお腹を痛くしてやる! 最後に骨だけになっても齧りついてやるっ! うがぁーーーっ!」
半狂乱になって叫びまくった。谷底じゅうに声が響くほどの大声で絶叫しまくった。
しかし……私の全身全霊の威嚇は、そよ風のように流されてしまう。
クマは歩みを止めることなく、構えた矢もおかまいなしに私の目の前まで近づいてきて、口をぐあっと、トラバサミみたいに大きく開けた。
ミニナイフくらいある牙と、ノコギリみたいな歯を、ヨダレまみれにしてボタボタこぼしながら、私の頭を飲み込もうとする。
「ぐっ……や、やめっ!」
顔を反らしながら、手にした矢を突き立てる。
しかし固い毛皮は革の鎧のようで、全然突き刺さらない。
だ、ダメかっ!? でも、まだっ! まだまだっ!
「や、やだっ! やだっやだっやだっやだぁ! 私なんか食べても全然おいしくないよぉーーーーーっ!」
身体の痛みも忘れて、狂ったみたいにもがき暴れる。
走れなきゃ歩け、歩けなきゃ這え、這えなきゃ叫べっ……!
「誰か、助けて! 助けてぇえええええええええーっ! パパっ! ママぁ! スペット爺さぁん!」
そして、祈るんだ……!
これが最後の足掻きだと、ありったけの力を込める。
「り……リコリヌぅーーーーーーーーーーーーーっ!」
私の魂の断末魔……しかしそれは、雷が落ちたような轟音によってかき消された。
それは落雷ではなく……空から降ってきた獣の雄叫びだった。
私の頭を丸呑みしようとしていたクマの大口。
顎を閉じたら、首から上をぜんぶ持っていきそうなほど覆いつくしていた大口……それが突然離れていく。
急に開けた視界の向こうでは、強大な力で押し戻されるように、クマの巨体が後ずさりしていた。
影が宙を舞い、私をかばうような位置にスタッと着地する。
それは、全身が黒い毛で覆われた獣だった。
私に背を向け、毛を逆立ててクマを威嚇するその姿は、真っ黒な炎が激しく燃え上がっているように見える。
少ししてから私はようやく、それがリコリヌだと気づく。
毎日ずっと一緒にいる私ですら、聞いたことのない恐ろしい唸り声をあげ、見たこともない激しい怒りを露わにしている。
私ですら初めて感じた、身を焦がすような激情を、剥き出しにしている……!
クマは顔を噛みつかれたのか、顔面がグシャグシャに歪んで血まみれになっていた。
ただでさえ怖い顔が、さらに恐ろしく崩れている。
奇襲を受けたせいで最初は怯んでいたものの、両手を高くあげて負けじと威嚇を返してきた。
刃のような本能をギラつかせる両者の睨み合いは、空気をも張り詰めさせ支配しているようだった。
同じ空間にいる私は、もはや自分の意志では瞬きすらできない。
先に動いたのはリコリヌのほうだった。
自分の数倍もある大きさの相手にも一歩も退かず、むしろ一歩でも動いたらただではすまさないオーラのようなものを放ちながら、相手の懐に一歩、また一歩と踏み込んでいく。
迎え撃つクマはさらに背伸びをして、巨体にものをいわせた威圧でリコリヌの心を飲み込もうとする。私の心を何度も吹き飛ばした、唸りの暴風。
それは、山のてっぺんからの雪崩のような勢いで降り注ぎ、地を揺らした。
リコリヌは猛吹雪をまともに受けてしまったかのように歩みを止める。
一瞬だけ身を縮こまらせたけど、すぐに毛を逆立てさせて、自分を奮い立たせるようにワンッワンッと激しく吠えたてた。
……リコリヌが怯えてる。でも、負けるもんかと強がってる。
私はずっと一緒にいたからわかる……やっぱり、リコリヌも恐いんだ。
でも、私を守るために勇気を振り絞って、クマに立ち向かってる……!
もうっ、弟がこんなに一生懸命がんばってるのに、私は何をビビってるんだ。
もっとしっかりしなきゃ……私がしっかりしなきゃいけないんだっ……!
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