第18話 初めての事に、俺は狼狽える

 ソモルは、動けなくなった。


 ラオンの白い綺麗な頬を、零れ落ちた涙が伝っていく。

 その涙の筋を、ソモルは黙ったまま視線でなぞる。

 何を云えばいいのか、どう声をかければいいのか、判らなかった。


 午後の淡い光の射し込むカフェ、ソモルの真正面の席でラオンはポロポロと涙を零していた。

 声も洩らさず、ただ静かに。


 ラオンの手にした銀のフォークには、食べ掛けのケーキが刺さったまま。口に運ばれるのを忘れられたケーキの欠片が、止まったような時間の片隅に置いてきぼりにされていた。


 ソモルの思考は、真っ白だった。

 泣いている女の子を目の前に、どうしたらいいのか戸惑うばかり。


 ソモルには、ラオンが泣いてる原因すら判らない。

 突然零れ落ちた女の子の涙のわけなど、無骨なソモルに知るよしもない。



 なんだ、俺……。なんか、いけない事、したか……?



 ソモルは弟分のターサに馬鹿にされるくらい、女心にうとい。ソモルは狼狽うろたえながら、真っ白になった頭の中で必死に考える。けれどおろおろするばかりで、何の答えにも辿り着けない。



 俺、ラオンになんか変な事云ったっけ……? 何が、ダメだったんだ……?

 ……う~っ! ……判んねえ……。



 ポタ、ポタ……


 ラオンの両眼から溢れた涙は、テーブルの上に零れ落ちて丸い形をふたつ作った。



「……あ」



 ようやく一声、それだけ洩らしてみたものの、かけるべき言葉が見つからない。


 ラオン、なんで泣いてるんだ?


 ストレートにそんな事を訊いてしまっていいのか。それはさすがにタブーなのか。

 ソモルはあらためて、自分が女の子の扱い方を全く知らない事に気づいた。

 女の子に目の前でこんな風に泣かれるのすら、初めての経験だった。


 男ってのは、女の涙になすすべもない。


 運び屋のおっさんたちが云っていた言葉を、今こうして思い知る。

 しかも泣いてるのが好きな女の子ときたのなら、その威力は倍増だ。

 いい加減な対応など、絶対できない。




「へへっ」


 そうこうソモルが頭を悩ませているうちに、眼にいっぱい涙を溜めたままラオンが悪戯イタズラっぽく笑った。

 その拍子に、また涙がポロポロと幾筋も零れ落ちる。

 まるで無理して見せたようなその仕草に、ソモルの胸は鈍く殴られたようにズキンと痛んだ。


「ごめんね。やっぱり、泣いちゃった」


 ラオンは小さく呟いて、フォークのケーキをパクっと口に入れた。

 そして、またポロリと一雫の涙。




「……俺、なんかした……?」


 思いきって、ソモルが尋ねてみる。



「ううん、違うの。ソモルのせいじゃないの」



 そう云ってニッコリ笑いながら、それでもラオンの眼からはまた一雫、涙が零れ落ちる。

 ソモルはそれ以上、言葉が見つからなかった。


 好きなの涙を前に、ソモルは無能なくらい何もできなかった。



 俺のせいじゃない……。本当に……?

 ……それなら、もしそれなら、ラオンの涙の原因って……?



 ラオンが、にこっとしながらケーキを一口。そして、また頬を流れ落ちる涙の粒。



 もしラオンが、俺と同じ気持ちだったら……。

 俺と離れたくないって、思っててくれたとしたら……。


 だから、泣いてくれてるんだとしたら……。

 だとしたら、俺……。



 ソモルの胸が、ぎゅっと締め付けられる。

 ラオンの事が、いとおし過ぎて苦しくなった。



「ラオン……、俺は……」


 勢いで、好きだという気持ちが口をついて出かけた。




「甘い物食べるとね、涙が止まらなくなっちゃうんだ、僕」


 ソモルの言葉とほぼ同時に、ラオンがてへっと舌を出して呟いた。




「……えっ?」



 なんだって……? 甘い物……?



「父上も母上も、ジュピター人って皆そうなんだ~。甘い物食べると、涙が止まらなくなるの」


 ラオンがふふっと笑ってケーキをもう一口。

 それに合わせたように、涙がポロポロ。



 なんだって~っ! 涙の原因って、それっ⁉

 あれこれ悩みまくって、一人で取り乱してた俺って……、ただのバカ?


 女の子の涙の理由に、そんなのって、あり……?



「あ、ああ、そうなんだ……」

「うん」



 なんだか呆気にとられて気が抜けてしまったソモルの正面で、ラオンがご機嫌にケーキを一口一口平らげていく。

 花のように可愛い笑顔で、けれど大粒の涙を零しながら。


 どうやら、ケーキの味は気に入ってくれたみたいだけど……。


 拍子抜けしながら、ソモルも自分のチョコレートケーキを一口頬張る。

 さっきよりも、なんだか更にほろ苦く感じた。



 俺と離れるのが淋しくて、泣いてくれてたわけじゃなかったんだな。 


 一瞬期待してしまった分、そこはちょっとがっかり。……いや、かなりがっかり。



 気持ちが一気に上がって、そしてその高さから一気に落ちた。



 ……まあ、いいか。

 ラオンが辛くて泣いてるより、全然いい。

 うん……。



 ソモルはそんな風に、自分を納得させてみる。



 …………。



 ソモルは、何かおかしな空気を感じた。

 さっきまでとは、違う空気。


 店員が、ちらりとこちらを見ながら通り過ぎていく。



 ……ん、何見てんだ?



 あちらこちらから、ちらりちらりと二人の席に向けられる視線。



 えっ、何? なんだ?



 しかも心なしか、ソモルに対する眼差しが冷たい。



「ケーキ、美味しいね、ソモル」


 ラオンが、ケーキをパク。

 涙がポロリ、ポタポタ。


 その度に、ソモルに向けられた突き刺さるような冷たい視線が増していく。



 もしかして俺……、女の子を泣かす、いけない男とか……見られてる……?



 ラオンはただ居るだけで、目を引く程に可愛いらしい。道ですれ違ったならきっと、大半の者が振り返る。

 そのラオンが、ポタポタと大粒の涙を流している。

 しかもその向かいの席には、目付きが鋭くてお世辞にも誠実そうには見えない、一人の少年。

 確かに、かなり誤解を受けそうな絵面。


 ケーキを食べれば食べる程、ラオンの涙は止まらない。もうすでに、頬には幾筋もの涙の跡。

 笑ってはいるが、泣き腫らしたように眼は充血している。



 なんかもう、俺がめちゃくちゃ泣かしたみたいに、なってる……。


 ソモルは急激に、居心地の悪さを覚えた。



『何、なんなのあの男!』

『うわ~っ、あんな可愛い女の子泣かして、サイッテー!』

『あの娘、あんなに泣き腫らして、可哀想~』

『あの野郎、ろくな奴じゃねえな!』



 ……聞こえる……。

 冷たい視線のあちこちに、心の声が聞こえる……。



 そして目の前には、眼を真っ赤にして笑顔で泣き続ける、可愛いラオン。


 居たたまれなくなり、ソモルは下を向いたまま、黙ってケーキを食べる。

 一層苦味を増して感じるチョコレートケーキは、そんなソモルを嘲笑うように、口の中で溶けては消えていく。


 夢だったカフェデートが、いつの間にか苦行の場になっていた。

 せめてもの救いは、ラオンが喜んでくれた事。


 ……さっさと食って、出よう。


 なんだかソモルまで、泣きたい気分を味わった。

 そんな風に、ソモルの心がちょっと凹み気味になっていた、その時。



「見つけましたぞ! 姫様っ!」



 しわがれた、ラオン直属のジイやの声が響いた。



          to be continue




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