第10話 欲望のブレーキは……

「だからね、今……すっごく嬉しいんだよ」


 他の音を忘れた仄黒い夜の空間に、ラオンの囁きが零れた。


 ……ラオン、暗くしてからのその一言、反則だろ……


 ラオンの一言の衝撃に、一瞬空白になったソモルの思考は、すぐにその言葉に含まれた意味を模索し始める。深読みするまでもない、言葉通りの友達としての意味なのか。それとも……。


 ドクドクドクドクドクドク


 仰向けに横になったソモルの心臓が、寝床から跳ね上がる勢いで鼓動を打ち始める。抑制のたがが、外れてしまいそうだった。


 俺、自分を抑えつけようって、努力してんだぜ。それなのに、お前にそんな事云われたら、俺…………。


 その会いたかった、嬉しかったって、どっちの意味だ?


 気持ちが収拾しきれない。期待し始めている。このままじゃきっと、夜の魔力に呑まれてしまう。


 ……やべぇ、……俺……


 ラオンへの恋心が、暴走し始めていた。このままじゃ、云ってしまう。この気持ちを、ラオンに……。

 喉がカラカラに渇いていた。心臓の鼓動が激し過ぎて、唾を呑み込むタイミングすら失う。洩らしかけた言葉が、渇ききった舌の上で暴れていた。

 堪えきれず、ソモルは舌に張りついた言葉を衝動のように吐き出した。


「……ラオン、俺……」


 掠れたソモルの声に、心地好いリズムのラオンの寝息が重なっていた。ソモルの言葉すら待たず、ラオンはすでに寝ていた。

 そういうオチか。

 そう上手い事いくわけがない。判っていた筈じゃないのか。

 ソモルは小さく落胆の息を吐くと、盛り上がってそのまま行き場を見失った期待を慰めにかかった。


 ―ず~っとね、ソモルに会いたかったの、もう一度……


 ―だからね、今……、すっごく嬉しいんだよ


 ソモルの鼓膜に疼くような余韻を残したまま、ラオンの声が絡みついて離れない。おとなしく眼を瞑って落ち着こうとすればする程、気分がどんどん高揚していく。カフェインに毒された夜のように、頭の芯だけが冴えていく。

 熟睡するラオンの横で、ソモルは眠りから完全においてけぼりを食らっていた。ラオンの奏でる優しいリズムの寝息だけが、ソモルの悶々とした夜の空間に聞こえている。眠気の飛んだ意識の中で、ソモルは繰り返されるラオンの寝息をただ追いかけていた。そうしているうちに、不意にソモルの中に別の欲求がもたげてくる。


 ラオンの寝顔が見てみたい。

 ラオンの寝息の中に、11歳の頃のラオンの寝顔を思い出す。あの頃よりも可愛らしく大人びた、ラオンの寝顔が見たい!


 それは、思春期男子としての、健康な欲望。

 好きなの寝顔を、こっそり盗み見る。なにか隠微いんびで、背徳な感じ。そっと眼に焼きつけるだけ。それくらいなら、許される筈。


 ソモルは、気配と音を殺して上体を起こした。無意識に鼻息が荒くなっているのに気づき、一端息を止める。手のひらにも、べっとりと汗を握っていた。

 別に、やましい事をしようとしているわけじゃない。寝顔を、ちらりと見るだけじゃないか。好きなの寝顔を見てみたいと思うのは、男として絶対に普通の欲望だ。云いわけでも、正当化でもないぞ。

 そんな云いわけをひとしきりして、ソモルは自分を納得させる。そうやって気持ちを落ち着かせてから、ベッドの上で眠るラオンをそっと覗き見る。


 薄闇に仄かに浮かぶ白い素肌。枕に少し乱れて広がる長い髪。

 閉じた瞼を、綺麗な長い睫毛が飾っている。ぷっくりとした唇から、静かな寝息が零れ落ちる。

 ソモルはぴたりと吸い付けられるように、ラオンの寝顔に釘付けになっていた。甘い密の罠に嵌まった虫のように、眼を逸らす事ができない。

 眼を閉じたその様子が、別のシーンを妄想させる。


 いわゆる、キスの瞬間。


 頭を掠める妄想に、ソモルの背中から腋から汗が吹き出す。


 ドクドクドクドク


 そんな妄想を回らすうちに、ソモルの中にまだ満足いかんとばかりに別の欲望がもたげ出す。

 ほんの少し、少しだけ、触れてみたい。その柔らかそうな頬に、指先だけでも。


 突き上げるような高ぶりが、ソモルを内側から捉え、支配していく。堪えきれない欲望が、ソモルの意識を染めていく。


 今触れたら、欲望のブレーキって、どこまで利くんだ……?


 どうかしてしまったみたいに、ラオンの寝顔から眼が離せない。自分が、自分ではないように。ソモルの意識と体が、欲望に乗っ取られていく。そんな感覚。


 ラオンに強く触れたいと思った。けど、触れてしまったら、もう止まらない。


 これはきっと、いけない欲望だ。

 眠っている女の子に手を出すなんて、最低だし卑怯だ。そう思う。だからそうならないように、一緒に寝ると云い出したラオンを説得して、こうして別々の床に就いたんじゃないか。それなのに手を出してしまったら、それこそ本末転倒。


 判っている。判っているくせに……。


 触れてラオンの感触を知ってしまえば、きっと自分はもう止まらない。止まらなくなって、そして……。

 その先に続くのは、ほぼ必然的な衝動。


 俺、……きっと、お前にキスしちまう……


 ソモルの眼は、ラオンの唇に釘付けられて、動けない。

 衝動を止められる自信なんてない。卑怯な事だと、頭では判っている。

 けど……。


 ソモルの指先が、ふわり宙を舞う。

 罪の意識に震え、躊躇ためらうように、それでもゆっくりとラオンの頬に伸びていく。


ゆらり、ゆらり


 

 後寸分で触れるという瞬間、ラオンが僅かに動いた。やましさを噛み締めていたソモルは、弾かれたように指先を引く。


 まるでソモルの欲望を見透かしたように、ラオンは口に含んだように聞き取れない寝言を呟きながら、寝返りを打ってソモルに背を向けた。ラオンはもぞもぞと二、三度毛布を体に寄せて引っ張ると、再び寝息を立て始めた。


 あれだけ高まっていた欲望が急に萎え、ソモルは何故だかフラれたような心地になった。熱を帯びた意識が、バケツの水を食らったように冷めていく。


 俺って、結局ただの馬鹿か……?


 さっさと寝よう。

 

 やっぱ俺、完全にラオンの指先で転がされてんのかもな……


 おとなしく床に就いたソモルの元に、当然ながらなかなか眠りは訪れてくれなかった。未遂に終わったとはいえ、眠るラオンに手を出してしまおうとしたソモルへの、相応の天罰なのだろう。



          to be continue


 

 






 

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