第7話 脈拍と、誘惑と……

 少し客で混み始めた酒場『ファザリオン』を出て、ソモルとラオンは夜の街を並んで歩いた。マスターお手製の夕飯を平らげたラオンは、ご満悦気味にステップを踏むように足を進めている。

 ジュピターの人間は、他の星の人間が口に入れれば火を吹きかねない程の辛いものを好む。そのラオンのご機嫌具合から、マスターの味付けが満点だった事が伺える。さすがは、多種多様な人種の行き交うこのマーズで店を構えて数十年のマスター。姫君の舌をも満足させる料理の腕前。


 陽のあるうちは賑わう商店ばかりの街も、夜になれば別の表情を見せる。軒並み連ねる店々はシャッターが下ろされ、人の声すら聞こえない。道の端に点々と灯された街灯だけが、二人の影を長く照らし出していた。

 歩くソモルとラオンの影が、街灯からの光の具合で交差し、そして重なった。その微妙な感じが今の二人の心の距離のようでもあり、なんだかソモルの気持ちを落ち着かなくさせた。

 こそばゆく、もどかしい。


 すれ違う人もない。誰も居ない夜の街を、二人だけで歩く。

 ソモルは、ふんわりとした幸せに触れた。


「やっぱり街の中だと、星があんまり見えないね」


 ラオンは夜空を見上げながら、スキップするようにソモルの少し先を進んだ。後ろに結んだワインレッドの長い髪が、ラオンの動きに合わせて揺れていた。

 半袖から伸びた腕の形の滑らかさに、ソモルの眼は必然的に釘付けられる。少女らしい、華奢な柔らかさを描く、後ろ姿。それが本能であるように、ソモルの意識は完全に吸い寄せられていた。

 まるで、甘い蜜……。


 ソモルの心臓の鼓動が、トックン、トックンと速くなる。甘露の先に、引き込まれていく。


「ソモルの家、こっち真っ直ぐだよね?」


 不意に振り返ったラオンの眼と、ソモルの眼が宙でぶつかった。僅かに覚えたやましさの為、ソモルは慌てて眼を逸らす。


「あっ、ああ、街抜けるまで、真っ直ぐな」


 とりつくろうように、ラオンの問いに答える。一気に上がった熱のせいで、額や頭から汗が吹き出した。せっかくシャワーを浴びたのに、今夜はすでに汗まみれだ。まあその原因が最高の幸せの賜物であるのならば、むしろそれも構わない。


「ソモルの家からなら、あんなにたくさん星が見えるのにね」


 ラオンは云いながら、もう一度視線を空に向けた。

 ソモルの棲む小屋は、街から少し離れた小高い丘の上にある。弟分のターサが世話になっている養父が、昔なにかの作業に使用していた小屋を貸してくれたのだ。この街に来てから、ソモルはずっと一人でその小屋に暮らしている。丘の上には街灯がひとつだけ。街のように明るくないから、星が良く見える。


 二年前、ソモルとラオンはその丘の上から星を見上げて、そしてたくさんの事を話した。


 ラオン、あん時の事、覚えててくれたんだな……


 そう思うと、ソモルの胸の真ん中がほんのりと暖かくなった。あの日の夜にラオンと見上げた星空、交わした言葉は、ソモルにとって本当に大切な大切な記憶。

 できればラオンにとっても、そうであってほしい。そう思う。


 俺、欲張りだ……。会えただけでも、すげえ嬉しい筈なのにな。


 ソモルはもう一度、ラオンの後ろ姿を見詰めた。

 ソモルの記憶の中よりも、成長した綺麗な形。視線でそれを、必死に追いかけた。

 くっきりと、その形を焼きつけるように。

 記憶の中の、あの頃のラオンの形に重ね合わせて、そして上塗りする。


 今のラオンを。

 ソモルのすぐ傍に居る、現実のラオンを……。


 夢みたいだってのは、きっとこういう事を云うんだろうな。


 感情がたかぶっていた。信じられないくらいに、鼓動が激しく。

 こんな感覚、初めてだった。おかしなくらい、自分が自分じゃない感じ……。

 ソモルは、戸惑った。

 手のひらに、汗が滲む。


 なんだ、これ……


 ドックン、ドックン


 どうすりゃいいんだ、判んねえ……


 強く、強く……ラオンに触れたいと思った。

 今すぐにでも、後ろから掴まえたい。掴まえて……。


 ソモルは、大きく息を呑んだ。同時に、唾も。

 衝動を、飲み下すように。


 判っている。そんな事をすれば、感情のブレーキが利かなくなる。

 制御が利かなくなって、いらない事まで打ち明けてしまう。


 云っちまったら、どうなるんだ……


 ぐっと息を呑んで、再び感情を飲み下す。喉元から、押さえつける。


 壊れてしまうのが、酷く恐かった。今の、ラオンとのこの関係が。


 だから、これ以上動けねえ……。


 ソモルは呼吸と共に、心のブレーキを踏んだ。


「家に着いたら、また一緒に星見ようね」


 くるりと振り返ったラオンが、無邪気に笑いながら云った。

 

 ラオンに触れたい。その柔らかな体温を、この腕、手のひらで確かめたい。

 そんなソモルの衝動など、ラオンはひと欠片も気づいてはいない。


 たまんねえな、全く……。


 ソモルの欲望は、大人しく舌を巻くしかなかった。


 手なんて、出せるわけねえじゃん。

 そうだろ? だってラオンにとって俺は、『大切な友達』だから……。



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