第4話 ……嘘だろ!?

 シャワーから弾き出される心地好い温度の湯に、ソモルの全身にまとわりついていた細かい砂粒や汗が一気に排水溝に洗い流されていく。余計なものから解放されて、気の持ちようなのだろうが心なしか体が軽くなる。

 これぞ、仕事終わりの至福。しかも明日は休みときたものだから、俄然テンションが上がってしまう。

 

 シャワーの湯を一旦止めて、シャンプーを泡立てる。汚れが酷いので、中々泡が出てこない。シャンプーを更にワンプッシュ足して、根気を入れてひたすら頭を擦る。

 ようやく、申し訳程度の泡が出た。


 ソモルの棲む小屋に、シャワーや風呂などという高級なものはない。

 なのでその日の汚れは、全て仕事場のシャワーで落として帰る。


 濡らしたタオルを石鹸で目一杯に泡立て、全身を汲まなく擦る。たまに運び屋のおっさん連中が大衆浴場へ連れていってくれ湯槽に浸かる事もあるが、大概はこうしてシャワーのみで済ます。


「ソモルゥ~、お疲れ!」


 ソモルが湯で泡を流していると、軽く仕切られた隣のシャワー室からオリンクの声がした。


「おう、お疲れ」


 頭から湯を受け、ソモルは眼を閉じたまま応えた。隣からも、シャワーの湯が弾く音が聞こえてくる。

 シャワーを止め、ソモルは掛けてあった乾いたタオルで粗っぽく頭をわしわしと擦った。


「なあソモル、おいら明後日さあ、休み貰うから」

 シャンプーで、どんだけだよっ! と突っ込みたくなるような盛大な泡を立てながら、オリンクが云った。


「休みぃ? 珍しいな、何か用でもあんのか?」


 オリンクは、ソモルが知る人間の中で最強の健康優良野郎だ。今までずっと欠勤知らず。オリンクが体調不良など、この世の終わりくらい有り得ない。


「ん~、ちょっとな。家に帰らなきゃいけない用事があってさ」


 何処までが泡で、何処からがオリンクの頭なのか判断しがたい有り様になりながら、オリンクが云う。まるで、巨大なホイップクリーム。


「ふ~ん」


 ソモルはタオルで全身の水気を拭き取りながら、ぼんやりと応える。


 そうだ。こいつには、帰る家があるんだよな。


 ソモルは、オリンク自身について、あまり詳しく訊ねた事がない。いくら親しい間柄といえ、そういう事を詮索するのをソモルはあまり好きではないのだ。オリンクも物事を深く考えない性格の為か、ソモルの身の上をしつこく訊いてくるような事もない。

 それは非常に助かる点で、そのおかげでオリンクと一緒に居るときはソモルも気楽で身構えずに済む。


「じゃあな、お先」


 ソモルは手早くタオルを腰に巻き付けると、泡まみれのオリンクを残してシャワー室を出た。まとわりついた湯気と、石鹸の香りをお供にしながら。


 洗い晒しの服に着替えたソモルは、本日最後の荷物を台車に乗せた。

 配達先は、酒場『ファザリオン』。帰り道であるこの酒場に荷物を届け、そのままここで夕飯にありつくのがソモルの日課なのだ。オープン前の掃除やら何やらを手伝えば、無料ただでマスターの手料理が食べられる。台車は置きっぱなしにして、仕事に向かう朝にそのまま回収してくれば良い。


「お疲れで~す」

「おうソモル、休み明けになっ!」


 親方や運び屋のおっさんたちと挨拶を交わし、ソモルは黄昏の街に台車を押して繰り出した。


 夕暮れの街は賑やかだ。商店ばかりが連なる道のあちらこちらには、帰りがけの買い物客の姿がわらわらと散らばる。その店先からは、ラストスパートの値引き宣言が威勢良く響く。

 そんな人たちの間を、ソモルは使い馴染んだ台車で軽快に滑り抜けていく。


 ファザリオンは、裏路地の奥にあるひっそりとした小さな酒場だ。そんな隠れるような場所にありながら、そこそこ常連も多い。

 その理由は、ひとえに店の居心地の良さと、マスターの料理の旨さだろう。

 マスターは驚く程に無口で、余計な事は一切喋らない。放っておいて欲しい人間には、まさにうってつけの店。しかも、料理の旨さは絶品ときている。文字通り、知る人ぞ知るの穴場の店なのだ。マスターはこの店を、たった一人で黙々と切り盛りしている。


 そう、そして。

 二年前、ソモルとラオンはこの酒場で出会った。


「マスター! 配達持って来たよ~!」


 少し建て付けの悪い店の扉を開き、声をかける。この店の扉を開くのには、ちょっとだけコツがいる。初めて訪れた客は、たいがい変な開け方をして扉のはまりを悪くしてしまう。

 マスターはいつものように、カウンターで昨夜残した洗い物を片づけていた。最近少々皺の増えたマスターの目元が、ちらりと動く。ソモルは台車から荷物を降ろすと、いつもの位置に置いた。


「掃除、俺やるからさ、飯よろしく!」


 皿をスポンジで擦りながら、マスターは軽く頷いた。

 取り合えずソモルは、壁際に放置された二袋のゴミを掴むと、裏口から外へと出す。

 少し夜の冷たさを孕んだ風が、すっかり乾いたソモルの髪を後ろから吹き上げた。

 マーズの夕暮れの空は青い。見上げた空は、濃厚な青に染まっていた。夜と夕暮れの、複雑なグラデーション。

 もうすぐ、星が見え始める。


 不意にソモルは、ラオンと見上げた星空を思い出した。

 二年前の記憶。

 まだ15歳のソモルにとって、それは酷く遠い時間。子供にとっての一年一年は、大人の一年よりもずっと貴い。

 子供から、目まぐるしく成長していく時間だから。


 出会ったあの頃は、ラオンもソモルも、無邪気に子供だった。

 けれど、今は違う。

 二人共、子供とくくられる歳ではない。ほんの微妙に、大人が混じり始めている。この空の、複雑な色合いのように。

 思春期。

 体と同じように、心も成長している。

 その明かしに、ソモルは恋を知った。ラオンへの、初々しい恋心。


 恋は甘いだけではなく、酷く苦しい事も。

 そして、一方通行で立ち止まったままの恋は、救いすらない。


 ちきしょう……、会いてえ……。


 会って、ラオンに触れてみたい。行き場のない欲求が、ソモルの内側に溢れかえっていく。

 ほんの少し、指先だけでもいい。触れて、ラオンがそこに居る事を噛み締めたい。

 確かに、ラオンが自分の傍に居る事を。


 欲求は止めどなく、ソモルの思考を奪い、全身を支配していく。

 疼くように、体の中心が切ない。


 くそっ……、どうすりゃいいんだ……? 止まんねえ……。


 欲望の渦に呑まれ悶々としているソモルの後ろで、裏口の扉が開く音がした。

 それに気づき振り返ったソモルの視線の先に、ほうきと塵取りを無言で差し出すマスターの顔があった。ゴミを出しに出たまま一向に戻らないソモルに業を煮やし、様子を伺いに来たのだろう。

 ソモルが箒と塵取りを受けとると、マスターは促すように小さく頷き、店の中へと戻って行った。


        ♡


 ソモルが一通り掃除やら準備を終えると、すでにカウンター席にはマスターお手製の夕食が用意されていた。メニューは、ソモルの大好物のオムライス。

 嬉しいご褒美に、浮かれ気分で席に着く。

 マスターのオムライスは、大振りの肉や具がこれでもかと云わんばかりにごろごろと入っている。食べ盛りなうえ、肉体労働男子のソモルには堪らない。

 マスターは黙ったまま、オムライスの皿の隣に並々に注いだミルクを置いた。夕食のお供にミルクが、ソモルの定番なのだ。


「いっただきま~す!」


 ふわっと柔らかな卵の中に、スプーンを差し込む。絶妙な具合に半熟な卵が、ぷるっと震えながら銀色のスプーンの上に収まる。それを、ソモルは勢い良く頬張る。

 ケチャップが程好い酸味のご飯粒と卵が、口の中に素敵なハーモニーを奏でるように溶けていく。

 やっぱり、マスターのオムライスは絶品だ。


 夢中でオムライスを頬張りながら、ソモルは何とはなしに思い出していた。

 そういえば、ラオンと初めて出会ったあの日も、夕食のメニューはオムライスだった。


 マスターの絶品オムライスは、あっという間にソモルの腹の中に収まっていた。

 食後のミルクで、一息吐く。

 少々胃袋に余裕がある気もするが、八分目くらいが丁度良いらしいし、味は大満足なので納得する事にした。

 店もいつの間にか開店したらしく、客もちらほら入り始めていた。


「よーし! 今夜は負けねえからなっ!」


 ソモルの後ろの席では、中年男たちが酒を呑みながらカードゲームを始めていた。この中年男三人組は、ほぼ毎日カードゲームに熱を上げている。大体この一番意気込んでいる髭の男が、いいように敗けを許して最後はカモのように吊し上げられる。 

 いい加減、懲りるべきだろうとソモルは思う。学習能力に乏しいのだろうか。それとも実は、虐められるのが好きなのかもしれない。

 大人の世界は、深いのだ。


 今居る客は、ほぼ全員常連のようだ。

 店の隅の方でいつも一人でちびちびと酒を呑む、図体のでかい中年男。明らかに詮索してはならない関係であろう、若く小綺麗な女とサングラスの中年男。団子のような体型の化粧の濃い熟女と、ホスト風の若い男。こちらももちろん、詮索禁物の関係だろう。

 皆、度々見かける顔ばかり。


 ソモルはグラスをくわえるようにしてミルクを呑みながら、店内観察を続けた。

 

 ラオンと出会ったのも、こんなくらいの時間帯だった。

 あの日も、ソモルが食後のミルクを呑みながら好奇心による店内観察をしていた時に、ラオンを見つけた。ラオンのような子供がこんな酒場に一人で居るのは、明らかに不自然だった。

 まだラオンは、あの時11歳。小柄なせいで、歳よりも少し幼く見えた。


 喧騒の酒場で、ソモルはひっそりと眼を瞑った。その時の光景を、ほんのり瞼に浮かべてみる。淡い残像が、緩やかな色彩を結んでいく。

 ラオンは真っ赤な長い髪をひとつに束ねて、体に不釣り合いな大きめのつなぎのズボンを穿いて、やはり大きめのマントを巻き付けていた。カウンター席に足をぶらつかせながら座っていて、あろうことかワインなど呑んでいた。


 そんなラオンに、ソモルは声をかけた。

 いきなり声をかけられたラオンは、きょとんとして振り向いた。綺麗な翡翠の色をした大きな眼で、真っ直ぐにソモルを見た。


 初めてラオンを正面から間近で見たソモルは、可愛いなあと、素直に思った。

 まだ特別な感情など、これっぽっちもなかったけれど。


 ソモルはそっと、瞼を上げた。

 あの時のように、このカウンターの席の隣に、ラオンが居たらいいのに……。


 そんな事を思いながら、馬鹿みたいにほんの少しの期待を抱きながら、僅かに視線を動かしてみる。


 …………。

 何だあ、俺、重症だな。恋患いの末期症状。滔々とうとう、幻覚まで……。




 一瞬、ソモルの思考がショートした。頭の回線が、全て遮断されたように。




 なっなっなっなっ…………嘘だろぉぉぉぉぉぉぉぉっ‼


 回線が再び機能を取り戻し、正常な思考が回復するまで、数秒を要した。


 ソモルの腰掛けたカウンター席の隣。そこには、そんなソモルの反応を少し首を傾げたまま見詰める、ラオンの顔があった。


 

           to be continue












 


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