​瞑積(十五月)

華氏/一両花(上)

  は高く、良く晴れていた。わずかに緑がかった空の色は、どこまでも澄んでいて雲一つ見当たらない。

 小春日和の日差しの下、少年は街路樹の根元にえ付けられた長椅子でぼんやりしていた。

 近くにあやかしの気配はなく、道具屋書店のたぐいは全て回ってきた。次の町までは歩いて二日と聞いたから、彼の足で行けば一日で済むだろう。

 しかし時間は既に昼過ぎ。今から出発すると夜の街道を行くことになる。彼はそれを嫌っているわけでもなかったが、山中ならともかく、人目のある街道を行くのだ。あえて異質な行動を取る必要もない。それに、屋根のあるところで休めるに越したことはない。急ぎの用がなければ朝出て夕方到着するのが一番なのだ。

 明朝出発することに決めてしまえば、もうこの町でする事はない。普段なら用を済ませてしまえばさっさと宿に帰るのだが、今日は何となく部屋に籠もる気分にはなれなかった。

 折角せっかくこんなに晴れているのだ。たまには外でぼんやりするのも悪くない。

 まさに何となくとしか言いようのない理由で、どこにでもある町のどこにでもある風景を、彼はぼんやりと眺めていた。


 ざわついた人の波が目の前を流れていく。

 どこの街に行っても、目抜き通りの景色というのは変わり映えしない。並んでいる店の並びも建物の装飾も。見れば違うことは歴然としているくせに、雰囲気は似通っている。歩く人の群れも同様だ。男がいて、女がいて、老人がいて、子供が走り回って、たまに誰かにぶつかって、怒声が飛んだり謝罪の声が聞こえたり。どことなく浮ついた空気と、いそいそした活気があふれている。

 きっとそれの半分は、冬にしては晴れすぎた空の所為せいだ。冬の晴れ間は人を陽気にする。

 相棒の老狼らおろうも約束事には漏れないようだ。昼食を摂った直後にもかかわらず、点心あまいもの分が足りないとか意味不明なことを口走って、浮ついたようすでどこかへ行ってしまった。

 老狼というのは、少年と行動を共にしている、妖狼ようろうの名だ。普段は見上げるほどの巨体を炎模様の着物で包み、狼とも人ともつかない二足歩行の姿を取っている。別にできない訳でもないのに人の姿になりたがらない、何だか妙な妖である。

 狼は放っておくと、甘い物ばかり食べている。そして甘いものに固執する割には、いざお目当てを前にすると何か考え事にふけっていたりするのだ。今日もきっと、どこかの茶店でそんなことをしているはずだ。

 それだけなら、少年がとやかく言う筋合いなどどこにもない。

 ──そう、支払いが狼の財布から出ているならば、だ。

 実際には苦言の十や二十言ったとしても罰は当たらない程度の割合で、狼のおやつ代は少年の懐から出ていた。

 とはいえ少年とて、狼の助力を頼みにしていないわけではないことくらい自覚している。決して安い駄賃ではないにしろ、甘いものくらい気前よく提供しようとは思っているのだ。

 しかし、どうして元は動物であるはずの彼があんなに甘い物に執着するのか? 少年には、そこがどうにも理解しかねるのだった。

 それに、路銀だって無限ではない。困らない程度には持ってはいるが、限りはあるのだ。もう一つ二つ、金策方法を増やそうか──そんなことを考えていると、急に声を掛けられた。

「──お兄さん」

「……?」

 顔を上げると、鮮やかなすみれ色の視線と目が合った。少年が反応したのを認め、男とも女ともつかない顔立ちがふわりと微笑む。

 年の頃は十か十一か。桜色の頬をした、可愛らしい容貌の子供だ。椅子に腰掛けた少年より頭一つ分ほど上に視線があるから、四尺ちょっとの身長だろう。桃色をしたたもとの長い上袍うわぎに、深緑の袖なし上衣を合わせている。

「お花、買ってくれませんか」

「……花?」

 重ねる声も、男女の判別を付けがたい。

 言われて目をやれば、労働という言葉とは無縁そうな腕に、小さな籠が提げられているのが見えた。綿わたを敷かれた籠には柔らかい色あいをした花がいくつか、見たことのない透明な紙に包まってされている。

 茎が細く花弁の多い、いかにも栽培に手間のかかりそうな花だ。

「──花なんて売らなきゃいけないほど、困っているようには見えないけど」

 布をたっぷり使って丁寧に縫製された着物も、つややかにくしけずられた若葉色の髪も、花を売るような人間の装いではない。世間知らずの金持ちの子供が、勝手に庭の花を持ちだして遊んでいるのだろう。

 そう考えて、つっけんどんに答える。いくら時間があると言っても、彼は子供の遊びに付き合ってやるようなお人好しではなかった。

「それに生憎あいにく、僕は漂白ひょうはくの身でね。飾るところもない物を買おうだなんて、酔狂な趣味の持ち合わせはないんだ」

 拒否の意思を示す少年に、花売りの子供はにっこりと微笑んだ。

「いいえ、飾るところならとびきりのものがあるでしょう? その、美しい銀のくしが」

 子供らしからぬ口上に鼻白んで、少年は続く言葉を飲み込んだ。

 そんな彼を柔らかい目で見つめたまま、子供は籠を探って花を取り上げる。

「それに──これは飾るものではないんです。ね、だから、試しに一本ひとつ

 花売りは丁寧な動作で包んでいた紙を解き、柔らかそうな花弁にそっと唇を当てた。そしてそのまま、優雅な動作で花を差し出してくる。

 その行動に理由もなく圧倒されて、少年は視線を落とした。

 小振りで花片のまとまった、形のいい花だ。幾重にも重なった薄い花弁は、根本は濃い荷花はすの紅、先に行くほど淡い。香りは僅かに甘さを含んでいるが、どちらかといえば清涼さが優る。

 美しいといえば美しいのだろうが、あいにく彼には花を愛でる趣味がない。

 さらに言えば、装飾品を髪にすような趣向もなかった。そもそも花の何が良いのか。確かに葉ばかりのところに花が咲いていれば彩りは良いだろうが、わざわざ飾るほどの意味は見出せない。

「──強引だな」

 不愉快そうに視線の温度を下げる少年に、子供は臆することなく微笑みかけてくる。 

 少年の視線は、弱い妖なら心臓を止めかねない呪力の束だ。威圧の呪力にも動じず、好意的な笑みを絶やさない相手に、少年は困惑したように眉を寄せた。

 少年はどちらかと言えば、自分に悪意を向ける相手に慣れている。悪意のない笑みを向けられてしまうと、何をして良いのか分からなくなってしまうのだ。

 居心地悪そうに座り直して、彼は前髪を掻き毟った。

「……何で僕なんだ? この筆を見れば画師えしだって判るじゃないか。そんな物が必要かどうかなんて──」

 考えなくても分かるはず、という続きを、子供はゆるく首を振る動作で遮った。

「いいえ、きっと必要です。花は幸せをんでくれるもの。心の安らぐいとまのないあなたには、きっと、必要なはずですから。──ね」

 これっぽっちも悪意のない──それこそ花のような笑顔は、どうやっても振り切れそうにないらしい。

「仕方ないな。……幾ら?」

 しばし見つめ合った末、とうとう少年は根負けした。肩をすくめてもう一度髪の毛をかき回した少年だったが、

「嬉しい。では──」

 幼い花売りの口から出た金額には、さすがに目を丸くして絶句した。

「……君、お金の価値は分かって言ってるんだろうね」

「はい。承知の上で、一両です」

 視線に査問のしゅを込めて問いただす少年だったが、花売りは表情を変えない。ただわずかに首を傾げて、にこにこと少年の視線を受け止めている。

 一両といえば、王都華那かなんでも、親子四人で一年は楽に生活できる額だ。幾ら珍しいと言っても花は花。たかだか数日でしおれる物にそんな大枚をはたく人間は、王侯士族にもないだろう、そんな額だ。

 しばらく言葉を出せずに黙り込んだ末、彼は両手を挙げて降参の意を示した。予想外の金額に内心では額を押さえていたが、買うと言ってしまったものは仕方ない。

 というより、この子供の相手をするくらいなら、高い授業料を払った方が楽だと思ってしまったのだ。典型的な押し売りの手法に引っかかった気がしないでもないが、面倒ごとから早く解放されたいという気分の方が強かった。

「──────仕方ないな」

 限りあるとはいえ一両や二両程度で痛むような財布ではないので、少年は大人しく懐を探った。

 絡み合う龍と鳳凰ほうおうが意匠された金貨を取り出すと、子供のたおやかな掌に握らせる。

「ありがとうございます」

 大切そうにそれを受け取った子供は、胸の前で掌を組む古風な礼をしてみせた。

 そっと少年の銀の髪に花を挿し、何を思ったか額にそっと唇を押し当てる。

「では──良い夢を」

 その言葉を聞き終わらないうちに、少年は頭の芯がくらりと揺らぐのを感じた。幕を落とすように視界が暗くなる。

「ちょっと、君──」

 慌てて手を伸ばしたが、その手は何にも触れることなく宙を掻いた。

 微かに残ったのは花の香りと唇の淡い感触。


 立ち去った足音もしなかったのに、どうして──


 訳が分からないまま、意識は闇に溶けていった。

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