君を探して三千里(下)

 半島の多い大陸の、その一つ「そう」。

 そこには低いが険しい山脈が北からの風を遮るように横たわっている。

 王都を守るようなその地形には、爪牙そうが山脈と名が付けられていた。

 その連なる山の一つに、怜乱の指した場所はあった。


 古巣に着いた事で気が緩んだのか、山に入った辺りから護児の様子が明らかに悪くなった。今までは夜にうなされる程度だったが、だんだんと昼間もぼうっとした様子が増えてきて視線も定まらないことが多い。

「飛龍様、俺、何となく疲れました……。老狼さん、すいません」

 狼の姿となっている老狼の背に揺られながら、護児が呟く。

「小犬が何を言ってんだ。具合が悪いんなら寝てろ」

 何事もない風に軽口を叩いてやるが、狼の声は重かった。

「どこが何となくだ。今まで痩せ我慢してただろう」

 護児を後ろから抱きすくめるようにして支えてやりながら、怜乱が怒ったように言う。

「痩せ我慢なんてしてませんよ……ただ、ここに来たら何となく気が抜けちゃって。懐かしいなあ、あの沢でよく水遊びしたんですよ」

 護児は真っ青な顔をしたまま答えるが、その声は明らかに嗄れて息は荒い。

「人型を取るのがつらいなら、原形もとに戻ればいいじゃないか」

 狼が何気なく口にした一言だったが、護児は黙り込んで悲しげに咽を鳴らした。

 怜乱がびしりと狼の脇腹を蹴ってくる。どうやら怒りの琴線に触れたようだ。


             *  *  *


 三日ほど探し回って、怜乱は崩れた石組みの前で狼に足を止めるように言った。

 犬の青年は狼の背の上から、地面に降りた少年の姿をぼんやりと見下ろす。

 護児の状態は明らかに限界だった。

 途切れかけた意識を気力だけで保たせているのは明白で、体は焼けた石のように火照っているのに、手足の先はすでに冷たい。狼の首にぐったりと体を凭せ掛けているものの、だらりと下げられた腕には力など微塵も入っていなかった。

 その腕を引き寄せて少年が背から青年を下ろすのを待って、無言で姿を変えた狼が彼の身体を抱き取った。

 怜乱の先導で廃屋の裏手に回ると、そこには見上げるほどに大きないちいの木があった。

「大きくなったなぁ」

 怜乱はそれを懐かしげに撫でる。

 炎では人が死ぬとその上に樹を植えるということは狼も知っていたから、それが墓標なのだということはすぐに知れた。

 故人が好きだったり、その功績にちなんだりと理由は様々だが、故人を偲ぶよすがとして何か関係のある樹が選ばれることが多い。

 櫟は弓矢に使われることの多い樹だ。狩人であったという護児の主人の墓標として、これ以上のものもないだろう。

 ほんの少しだけ目を細めたあと、少年が振り返る。

「護児。これが利彪だよ」

 掛けられた声に何とか目を開いた青年は、何とも言えない悲しげな表情を浮かべる。黒目がちの、熱に潤んだ目が僅かに揺れた。

「…………知ってたんですけど、ね……なんか、どうしても、近付けなくて」

 言って、何とか狼の腕の中から抜け出すと、よろよろと大樹の前に膝をついた。

「あぁ……やっと、戻って来れました。迷子になってしまって本当にすいません」

 か細い声を絞り出すようにして、護児は懐かしい主人に向かって深く深く頭を垂れる。樹からそよりと吹いた風が護児の頬を撫でる。

「ご主人様……ただいま、戻りました」

 彼が持っていた弓と同じ匂いがする。敬愛と懐かしさのこもった声で樹に囁きかけた青年は、そのままくったりと地面に倒れ込んだ。


 本当は、彼が死んでいることはうすうす感づいていた──いや、もっと別のことも、本当は知っていた。自分をこの姿にしてくれた仙人も、どこか悲しそうに頭を撫でて言ってくれたのだ。

 そんなに主人の元に帰りたいのなら、探せるように躯をあげよう。でも、そう長くは保たないよ、と。


 力尽きたように頽れた護児の体を、老狼が慌てて抱き起こす。


 首が力なく揺れる。

 護児はすでに絶命していた。


 ──口元に、淡い微笑みを浮かべて。


             *  *  *


 ──昔、半島「そう」の或る山に、一人の狩人が住んでいました。

 狩人は知人からもらってきた一匹の猟犬に、護児という名前をつけて育てていました。

 垂れ耳の、焦げ茶色の毛皮に少しだけ灰色のぶちのある、利発そうな目をした子犬はやがて成長し、優秀な猟犬となりました。

 主人とともに毎日狩りに出かけていき、どんな獲物でも見事に追い詰め、主人に危険が迫れば必死になって助ける、そんな犬でした。彼は主人を敬愛していたのです。

 主人もまた、目に入れても痛くないというふうに犬を可愛がり、そして信頼していました。

 狩人と猟犬は、何物にも代えがたい相棒同士でした。

 ところが、そうして五年ほどが過ぎたある年、酷い飢饉がそうを襲いました。春の終わりから雨が降り続き、秋にさしかかろうとしても降り止む気配のない長雨が全てを奪って行ったのです。植物は枯れ、豊かだった土壌は雨に流し尽くされ、実りを待つばかりだった果樹は水を吸ってぶよぶよに膨れ腐り落ち、田畑は水に浸かってその役目を果たすことすらできませんでした。

 爪はどちらかと言えば寒冷な土地でした。当然、餓死者の他に凍死者も出ます。夏のさなかに凍死する者が出るのですから、異常としか言いようのない年でした。

 山野の動物たちも、飢えと寒さで徐々に数を減らしていきました。

 狩人と猟犬が何日も雨の野山を歩き回っても、兔一匹仕留められない日が続きました。しばらくは保存用の食料がありましたが、それもしばらくするうちに底をついてしまいました。

 後はもう死を待つばかりとなったある日、猟犬は狩人の許を離れてふらりとどこかへ行ってしまいました。

 自分はもうだめかもしれないが、犬だけなら食いつなぐこともできるだろう。

 せめて猟犬だけでもと思って、狩人は追うことはしませんでした。本当は探しに行きたい気持ちもあったのですが、そんなことをできるだけの体力はとうの昔に失せていたのです。

 十日後、酷く汚れた格好で犬は帰ってきました。しょんぼりとした様子で、主に向かって申し訳なさそうに尻尾を振ると、彼は台所へ主を引っ張っていきました。

 壁に掛けてあった包丁が犬の上に鈍い音を立てて落ちていくのを、彼は止めることができませんでした。目の光が消えるまで、はたはたと動いていた尻尾を呆然と見つめて、狩人は膝をつきました。

 餓えた自分のために身を投げ出した彼を前にして泣く狩人の後ろには、犬が連れてきた山犬の仔がちょこんと座って尻尾を振っていました。


 ──皮肉なことに、その一週還後、春の終わりから降り続いていた雨は嘘のように止みました。

 お前のおかげなのかな、狩人は寂しそうに呟いて、腰に巻いたぶちのある毛皮を撫で、再び狩りに出かけました。


             *


『護児、今度は何処へ狩りに行こうか』


 懐かしい主人の声で目を開いた。主人の腰あたりから見上げるその視界と、懐かしい匂い。

 それだけで胸がいっぱいになった。自然と尻尾が振れる。

(ああ、ご主人様! ようやく会えましたね……!)

 そんなことを言いたかったのに、人間の言葉はどうやらすっかり忘れてしまったようだった。きゅんきゅんと鼻を鳴らして、ちぎれるくらい尻尾を振り回して、彼の顔をよく見ようと後ろ足で精一杯背伸びをした。

 来来ライライと招くような前足の仕草に、彼が笑みを浮かべる。

 大きな手がわしゃわしゃと耳の後ろをかき回して、灰色の目が顔を覗き込んできた。

『おや? 護児、お前泣いているな』

 ご主人様が笑っている。それだけで、気絶しそうなくらい幸せだった。優しい声も、匂いも、そのほかのすべてが昔の彼そのものだった。

 命に代えても守りたかった主が、再び自分の前にいる。

 主が口を開く。何度も聞いた、狩りに行く前のそのせりふ。


『さあ、行こうか』


             *  *  *


 護児の体は風に溶けて消えた。

「! あいつ……ゆうれいだったのか!」

 狼が驚いたように目を見張る。

「いい子だったでしょ」

 珍しく俯いたままの怜乱が、ぽつりと呟いて再び樹皮を撫でた。

「何の木を植えてやればいいのかな」

 高地の風は、すでに秋も終わりの匂いをしていた。


          ──────【樹下鬼譚─きのしたのきのはなし─】・終

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