シアワセナフタリ

芥流水

シアワセナフタリ

 鍵穴に鍵を差し込み、右にひねる。解錠される音を聞き、扉を開ける。アキオは何時もより緩慢な動作でこれを行なった。

 のろりと玄関に入り靴を脱いでいると、音を聞きつけてか妻のミカが静かに出てきた。彼女は何時も静寂を好んだ。音を立てない歩き方もその為だ。

 その彼女の昨日の怒鳴り声を思い出すだけでアキオは頭が痛くなる。原因はアキオの浮気であった。倦怠期の夫婦にはよく、ではないかもしれないが起こりうることだ。一時は離婚騒ぎにもなったのだが、アキオの必死の謝罪もあってか朝にはミカは落ち着いている様子であった。

「何かして欲しいことでもないかしら」

 帰宅の挨拶をしあった後、気まずそうに言葉を選んでいるアキオにミカはそう問うた。咄嗟のことにアキオは驚いたが、口は勝手に動いていた。

「アア、今日はもう遅いから簡単に食べられるものでも作ってくれ」

 ミカはええ、と頷き台所へと下がっていった。

 アキオミカの顔を見て安心していた。彼女は普段と同じく微笑を浮かべたままてあり、会話にも怒っている様子は無かった。そう思うと同時に疲れがどっと出てきた。今日一日中彼女へかける言葉を考えていたからである。お陰で仕事が振るわず残業をする羽目になったが、その時間すら彼は妻のことを考えていた。

 アキオは疲れからかゆっくりと台所の手前のリビングへ歩いていった。椅子に座った彼はネクタイを緩め、シャツの釦を外し楽な格好にする。

 ここからは台所の様子が見える。ミカは鼻歌を歌いながら料理をしていた。鼻歌はミカの癖で、彼女は機嫌の良い時にこれをしていた。どうやら本当に機嫌が直った様だとアキオは気が楽になるのを感じていた。

 いつの間にか料理は終わったらしく、ミカは手に盆を持ってリビングへやって来た。そこには茶碗が乗っていた。その中身はお茶漬けであった。これは食べ易くて良い、そうアキオは妻の気遣いに喜んだ。

 白いご飯とそれより少し低いくらいに注がれたお茶。その中央には梅干しが鎮座しており、白と茶色の世界を鮮やかにしていた。アキオは喉を鳴らせるが早いか箸と茶碗を手に取った。梅干しを齧り、ほろほろになったご飯を掻き込む。美味しそうにお茶漬けを食べるアキオを、ミカは向かいに座り嬉しそうに笑って見ていた。










 突如アキオが喉を抑えて倒れ込んだ。両手から箸と茶碗が落ちる。箸が乾いた音を立て跳ね、茶碗が割れ、中身が床にぶちまけられる。喉を詰まらせたのではない。ミカが毒を盛ったのであった。どうして、と目で訴えるアキオにミカは微笑んだまま答えた。

「貴方を愛しているから」

 その言葉には狂気の響きが混じっていた。ミカは動けない体となったアキオを抱きしめた。幸せな空気が二人を包んでいた。

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