最終話・1話

肩を押されてその勢いのまま、背中を壁にぶつけた。一瞬息が止まって急にそれをした事で噎せるが、壁と自分の間から小さくにゃあ、と鳴く声が聞こえて、謙心はほっと息を吐いた。


だが安心しているのにもつかの間、すぐ真横の壁に蹴りを入れられて、謙心はすぐ目の前にいる男を睨む様に見上げた。



「え、なにその反抗的な目。殺されたいの?」



見上げる先には数人の男達。一番前の、今まさに口を開いた男は何も持っていないものの、後ろに居る輩達はパイプやら、バットやら手にしている。いやバットって、野球じゃないんだからさ、何で持ってるの、なんて冗談ついた言葉は出せる訳も無い。



このような状況になったのは簡単だ。


謙心がいつもの様に猫に餌をあげ終えて、家に帰ろうとした時にそれを見た。


一歩入れば暗闇が広がる路地裏から、数人の笑い声と小さく鳴く声が聞こえた。笑い声だけならいいのだ、また何かしら俺たち今から悪い事するんだぜ、的な人達が集まっているのだろうとスルーするのだが、鳴き声が耳に入った瞬間、謙心は歩く先を真っ先に路地裏へと変えた。


入り込めば、ぼんやりと薄暗い中に数人の男が円を作っており、その中心から先ほどの鳴き声が聞こえた。人の隙間から見えたのは、一匹の猫。白い猫で、本当は奇麗な白い毛を持っているだろうに、その男達のせいでその毛並みも汚れていいた。


それを見た瞬間、謙心は躊躇無くその男達へと向かっていき、一番近くにいた男に飛び蹴りを嚼ました。足元から、蛙を潰した様な声が聞こえたが、そんな事構わない。周りの男達が唖然としている内に中心にいた猫を抱き上げて、その場から離れようとしたのだが、そんな事許される事も無かった。


唖然としていた中の内の一人から、足が伸びてきたのを見て、謙心は咄嗟に猫をお腹へと深く抱きしめる。容赦無く横腹に足が当たり吹っ飛ばされた謙心は地面へと転がるが、直ぐさまに胸ぐらを掴まれ、そして冒頭に戻る訳だ。


抱き締めていた猫を咄嗟に後ろを隠して、この男達がそちらへと目をつけたらまずいなとは思っていたが、どうやら猫の事は忘れて今目の前にいる自分に興味が向けられたようだ。それでいい。その隙に猫が逃げてくれないか、と思っていたのだが、背中から動く気配が感じない。もしかして怪我をしているのでないか、と過ったが今のままでは確認さえも出来ない。



「ねー、聞いてんの? 俺等平和に楽しんでただけなんだけどー。お兄さん何? 正義のヒーローやりたいの?」



口は笑っているが、目は笑っていない。きっと子供やそこら辺の人が見たら、震え上がるのではないかと思わせるような表情だ。だが、謙心にとってはそんな事関係なかった。この男達がしていた事は許される事では無いし、何より、これより何倍も何十倍も震え上がるような表情を、知っている。


はっ、と鼻で笑い、上の兄二人を脳内に浮かべながら、目の前の怖くも何も感じない顔を睨みつけた。



「別にヒーローも何も……小学生がやるような虐めが目についたモンですから、それを止めようとしただけですけど?」


「あ?」


「ていうか、猫一匹に対してこんな人数、今時の小学生でもそんな事、」


「うるせぇんだよ!」



後ろにいた男が手にしていたバットを謙心の顔のすぐ横に振り下ろした。壁とバットがぶつかる音が響いて、一瞬耳鳴りの様な高い音が耳の中に残る。ぱらぱらと壁の屑が肩に落ちるのを感じて、謙心は猫を更に守る様に足を引いた。



「いいんだぜ? お前を代わりにしてやっても」


「……」


「後からぴぃぴぃ泣いて謝っても許さねぇからな」


「はっ……小学生には負けないよね」



笑えてくる。


謙心は口元をあげて、がしりとすぐ横にあるバットを掴んだ。たった一匹の猫に集る様に群れて、それを止めようとしたたった一人の人間に対して、よくつらつらとつまらない言葉を口から吐けるものだ。


バットを掴まれて、男が引き抜こうとしたと同時に謙心は思い切りバットを押し込む。引き抜く力と押し込む力が合わさったまま、バットの取手部分が思い切り男の肋骨部分へと食い込んだ。男が吐きそうな声を出して蹲った為、手から離されたバットを自分の手にし、目の前にいた男に振り落とす。咄嗟に避けようとしたのだろう、頭には当たらなかったが、肩に思い切りバットが当たり、男は先ほどの男と同じ様にその場にしゃがみ込んだ。



「俺の大事な友達に手を出されて、黙って見てる事出来ないからさぁ……」



そう言って、へらりと暗い笑みを浮かべた。


蹲っている男を除いた、残りの数人、正しく言えば二人の男は、肩にバットを担ぐ謙心を見て一歩引き下がった。睨んでくる目はとても冷たい物だ、まるで目の前の物を壊してしまいそうな、そんな目付き。ただ一人の相手に対して四人が負けた、なんてそんな事実信じたくもない。男は持っていた鉄パイプを強く握って謙心を負けじと睨みつけ、一方謙心はその目付きに、またもへらりと暗い笑みを浮かべ、バットを横に振った、その時だった。


小さく、複数の鳴き声が聞こえた。


何回も何回も聞いているその鳴き声にぴたりと動きを止めて横を見れば、いつの間にか先ほど助けた猫が、謙心の後ろから路地裏の奥から顔を出している三匹の子猫の傍へと移動していた。あの猫の子供なのだと、すぐに分かった。三匹共、親猫の遺伝子をそのまま受け継いでいる様な白く奇麗な毛並みをしていたからだ。


その数個の小さな目と合ったすぐ直後、横の影が動き出した。先ほど、謙心が肩にバットを当てて蹲っていた男が立ち上がり、目の前にいた男から鉄パイプを奪って猫達に向かって駆け出した。謙心は一瞬で事態を理解し、バットをその場に投げ捨て同じ様に駆け出す。



「ははっ……死ね……!」



男が、鉄パイプを上に掲げたのと、謙心が猫達を守る様に滑り込みながら抱き締めたのは、ほぼ同時だった。


目の前でスローモーションの様にゆっくりと振り落とされるパイプを、謙心は薄目で睨みつけ、それでも猫達には当てさせないと、腕の中にいる猫を強く抱き締めた。


目が血走っている男から思い切り当てられたら、骨にヒビくらいは入るのだろうか、なんて、その状況では考えつかない様な言葉を思い浮かべた時。


上から、が降りてきた。



「は……?」



はそのまま男の肩に乗っかり、蹴り上げた。男は飛ばされて握っていた鉄パイプがからんと音を立てて投げ飛ばされ、それを見た他の男達は急にひぃ、と小さく声を上げて一歩引き下がった。



「大丈夫か、謙心」



地面に軽やかに降り立ち振り返って笑う何かは、二番目の兄である一心だった。


いや、今何処から来たの、なんて言う言葉はこの兄には通用しない。上から降りてきても、全く驚かない理由がある。


目の前にいる一心と、長男である真人は、物心ついた時から超能力が使える。物を浮かしたり止めたりする念力、力を見られた時に使う記憶操作。最近では一心が千里眼を発症しており、もう見慣れてしまったものだ。


降りてきたのだって、念力で自分の体を浮かしていたのだろう。本当に兄二人は、いい所を持っていく癖があるようだ。その姿が実は嫌いではない事を、謙心は絶対に言ってはやらないのだけれども。



「……見ての通り大丈夫」


「猫ちゃんを守っていたんだな。友達を守る姿はかっこいいな」


「いや、別に。当たり前の事だし」


「そうだな……でも俺は、」


「おい! クソ兄!」



先程一心に蹴り飛ばされた男が立ち上がって一心に向かってきているのを、こちらを振り向いている為に、気付いていない兄に叫んで知らせる。


懐から何かを取り出した男は、そのままそれを一心に振り落とすが、一心は間一髪で右側へと避けた。その手に持たれているのはキラリと光るナイフ。それを片手で握り締めて、血で滲んだ口元を上げていた。



「てめぇ……何処から来やがった!」


「弟と揉めてるのを見掛けて、そこのビルの非常階段から」



一心が指差す方向には隣にあるビルに設置された非常階段の踊り場。三階分くらいの高さにあるそこは、今立っている場所の真上にあり、飛び降りたら丁度ここに降りてこられる様な場所だ。



「……お前もヒーロー気取りかよ……」


「ヒーロー気取り?」



首を傾げた一心は、はっと小さく笑って謙心と猫を守るように前に立ち、片手をぽきぽきと鳴らす。



「ヒーローなんかじゃない。弟を守るのは当たり前だろう?」



何処か純粋に、且つ当たり前様に答える一心の表情に、後ろの輩達はまた一歩引き下がる。違う、こいつは俺達とは何かが違う。そう本能が言ってくるようで、本当は立ち向かいたいのに足が動いてくれない。


ただナイフを握る男は頭に血が昇っているようで、怯むことはなかった。


それは、頭で考える事をするのを辞めた様にも見える。



「うるせえ! 邪魔すんじゃねえよ!」



その証拠に男は、何も考えずに一心に向かっていった。手にしているナイフを乱暴に振って、とりあえず当てようとしているその姿は、とても見ていられる姿では無い。軽々と何度も避ける一心は反抗せずにただ男の顔を無表情で見つめるだけだ。



「くそっ……どいつもこいつも……!」



どうしても当たらない攻撃に苛立ったようで、一旦距離を取った男は息を上げて、座り込んでその場から動かない謙心へと目線を変更した。何度も避けた為に先程の場所から少し移動した一心から向きを変更して叫ぶ。



「お前が、お前のせいで!」


「おい」



その怒りを再び謙心に向けるが、それをさせないのが一心だ。


謙心へと向かっていく男の目の前に一瞬で移動した一心は、血管が若干浮き出ている拳を男の腹へとぶつけた。めり、と音が聞こえてきそうな、そんな一発。


後ろで傍観者と化していた輩達のところまで吹っ飛んだ男は、踞って咳を何度も繰り返していた。それを恐怖の滲む表情で見つめる男達に一心は口を開いた。



「死にたくなければ、そいつを連れてここから去れ」



暗闇の中で光るその目に、男達はぞわりと背中が震えた。そこからは早かった。踞って未だに咳を続けている男の腕を掴み、引き摺るようにそこから連れ出した。咳交じりに何かを叫んでいたが、勝ち目がない事なんて分かりきっている。


路地裏から先程まで煩く響いていた声はあっという間に去り、そこには静寂が訪れた。



「謙心、友達は無事か?」



男に向けていた声はもう何処にも無い。一心は謙心に向き合って、笑い掛けた。背中を向けていたから分からなかったが、雰囲気だけでも背中が少し震えたのだ、きっと真正面から見たらあの男とは全く別次元の表情をしていたのだろう。


腕の下を確認すると、子猫は勿論、親である猫も何も怪我は無く無事だった。しかし謙心が上から退くと子猫達がその場から逃げ出してしまい、あっという間に路地裏の奥へと走り去ってしまった。


親猫は謙心をジッと見つめてから、その後を追っていってしまい、その場には最終的に一心と謙心、二人だけが残った。



「あ、逃げた……?」


「いや、子供は驚いただけでしょ。親からお礼言われたしいいよ」


「謙心、猫の言葉が分かるのか?!」


「そんな気しただけ」



あの見つめられた時に「ありがとう」と言われた、そんな気がした。勿論言葉なんて分かるはずもない。でもあの目は、きっとそう言っていたのに違いない。助けれただけでも十分だ。



謙心は伏せていた体を起こそうと、手を地面につけた時、ぽたりと、近くで何か水滴な様なものが落ちる音がした。水? と、目線を前に向けて、目を見開いた。


ぽたりぽたりと、ゆっくり一滴ずつ地面に落ちていく水滴は、すぐ目の前に立っている一心の左腕の指先からだった。地面に溜まっているものは、水でも汗でもなくこんな薄暗い場所でも分かる赤い赤いーーー血。



「おいお前……!」


「ん?」



見上げて知らせようとしたが、一心は首を傾げるだけだ。謙心は立ち上がって一心の左腕を掴めば、二の腕辺りのシャツがぱっくりと綺麗に破れており、そこから血が滲んでいる。


それを見た一心は今気付きました、と言わんばかりに目を開いてその傷を凝視した。先程の男の乱暴に振り回していたナイフの餌食となったのだろう、肌も切れておりそこから血が流れていた。



「これ、気付かなかった?」


「……あぁ、必死だったからな」


「いやいや、傷結構深いじゃん。気付かなかったのかとかどんだけ馬鹿なの?」


「弟君がピンチだったからな。ちょっと痛いなと思っていたんだが、血が出てるとは思わなかった」



ちょっと痛い? 血が出てるとは思わなかった? ナイフで切られたのに? それはさすがに鈍感すぎなのではないだろうか。



「別にピンチじゃなかったし……というよりもいつもは念力で動き止めてたでしょ。なに、使うのを忘れるくらい必死だったの?」


「……最近体を動かしてなかったからな。能力だと動かずに終わってしまうから」



確かに念力で止めてしまうと大体の輩はその時点で恐怖で戦意喪失してしまうか、それか一心が記憶を消して気を失わせるなどをしてしまう為、体を動かす事もないだろう。けれども初めて聞いた。体を動かしたかった、など。


そういえば男から何処から来た、という質問に非常階段から、と言った。てっきり念力で飛んで来たのかと思ったのだが、本当に飛び降りてきたのならば、それをする必要性が分からない。能力を使ってしまえば、簡単なのに。


謙心の脳内にぐるぐると疑問が沸き上がってくる。だが、それを今気にしている場合ではない。とりあえず家に帰宅して、怪我の治療をしなければ。


家を出るときに大輝と幸、二人とも居た気がする。今でもいるならば、器用な二人に治療を頼まなければ。



「とりあえず帰るよ。治療するから」


「……! あ、ああ。お前、そんなキャラじゃn」


「このまま置いてくぞ死ねクソ兄」


「え……」



何故この兄は先程の状態を維持出来ないのだろうか。何故いちいち余計な事を言うのだろうか。


とりあえず早い内に家に向かおう、謙心は一心の腕を掴んで路地裏から出ようと、足を踏み出した、その時だった。



「ねえ、何で力を使わないの?」



声が響いた。


一心、謙心は瞬時に声が聞こえた方向、上を見上げる。一心が先程その場所から降りたと言っていた非常階段の踊り場、そこにフードを被った男がいた。紺色のローブを着ており、それに付いているフードを深く被っている為口元しか見えない。柵の上に座り込んでおり、足を揺らしながらこちらを見下げている。


気配を感じなかった。あそこに誰かがいる、という気配が。それもだが、今あの男は何と言った。「力」と、そう言った。その言葉で思い付くのは1つしかない。


一心は謙心を背中に隠すように前に立って、男を睨み付けた。



「……何だ、お前」


「嫌だなー、お前だなんて。そうだなあ……X《クロス》、とでも呼んでよ! その方が格好いいからさ!」



男……Xは楽しそうに笑いながら言う。顔が見えない為に声しか特徴が分からないのだが、高めの声と言葉遣いから若い男、というイメージしかない。それでも背丈は見た感じからして二人と同じような背丈だ。



「そのX、とやらが……俺達に何の用だ?」


「ん~、そうだなあ……その君の力に用があるんだよね」


「力? 何のことだ?」


「ははっ、へえ、誤魔化すんだ。いいよ、それなら……」



Xは座り込んでいた柵から立ち上がり、そこから飛び降りた。



「無理矢理にでも出させるしかないね!」



フードの懐から小型のナイフを取り出して、それを降りてくると同時に振り落とした。


一心」は咄嗟に謙心を押して、自分はそのナイフを避ける。謙心は急に押されたことで地面へと倒れてしまった。



「……っ!」



謙心は顔を上げると、一心は何度も振るXのナイフから避けていた。ここら辺に溜まる不良や、普通の男共の動きとは全く違う。集中を切らしてしまうと、すぐに攻撃が当たってしまいそうな、そんな動き。それを避けたり、腕をXの手や腕に当てて止めたりとしている。


あの兄は何をしているのだろうか、何故能力を使わない。念力で止めて、その間に何かしら対処すればいいものの、何故そのまま応戦しているのだ。



「へえ……使わないの?」



ナイフを振り落とされ、一心はその腕を掴んで止める。先程から避けたりばかりで、目の前の男から力を使う気配が全く感じない。Xはぺろりと唇を舐めてにやりと笑う。



「じゃあ弟君がどうなってもいいんだ?」



掴んでいた腕を振り払われ、一心と少し距離を取ったXは、反対の手を懐の中に入れて何かを取り出した。そしてそれをそのまま謙心に向けたのは、テレビの中でしか見たことのない黒い物―拳銃。


直接見た事は一度も無いが、子供が使っていそうな軽そうなプラスチックでも無い。黒く光る重量感あるその銃は正に本物だ。


は、と、息が一瞬出来なくなると同時にフードの下である暗闇から見えたのは、金色に光る目だった。獲物を捕らえた、逃げられそうにも無い、背筋が凍ってしまいそうな、冷たい目。


拳銃にかけられた指先が動くのを見て、一心は咄嗟に右手を前に翳した。冗談ではない目に釣られて自然と動いてしまっていた。今目の前にいる相手を止める、その思考を元に力を解法した、が。



「やっと使った!」



ぱりん、と何かが割れた音が自分の中で聞こえた。



(破られ、)



Xに向けた力が跳ね返された感覚がした。


確かに使った、力を。Xの動きを止めると使ったはずの力が跳ね返されてしまった。それはあの時と同じであった。優磨が一心を庇って刺されたあの日。揉めていた男に使っていた力が急に破られて無効化された、あの時と同じ感覚。


一心は左手を前に翳そうとしたが、それはもう動き始めていたXの蹴りで出来なかった。力を使えなかった為に動き出したXは、一心の翳していた手を蹴り上げて、そのまま体を回転させて一心の横腹目掛けて蹴りを入れ込んだ。その際に息が出来なくなって、それでも飛ばされない様にと足に力を入れたが、Xはその間にも動きを止めない。


近くに積み上げられていた木材を足場にして飛び上がったXは、一心の上を飛び越えそのまま背中へと飛びついた。重さに膝を地面に着きそうになったところをまた、足に力を入れて耐えようとした、それと同時に発砲音がすぐ横で聞こえた。



「……っ?!」



がくりと、急に左足が力を失って地面に膝を着いた。何だ、と目線を左足に向けると、太ももから血が滲むのが見えて、左横から火薬の臭いがして、理解した。


撃たれた、と。


一心は手を地面に着けたが、背中を思い切り蹴られてそのまま顔から地面に倒れ込んでしまった。そのままXは背中へと乗り上げて、一心の両腕を後ろで手で縛り上げた。



「……捕まえた」



右耳に口を近づけられてまるで語尾に音符がつきそうな程、楽しそうに囁かれたその声に、一心はぞくりと背中が震えた。腕を振りほどこうとしても、腕はしっかりと固定されており外れそうに無かった。



「無駄だよ、君のその力の使い方は熟知してるんだから」



くすりと笑いながらXは一心の上に座り込む。肺が潰されそうな感覚に一心はそれでも息を吸って、叫んだ。



「謙心……! 逃げろ!」



一心の叫びに漸く謙心は体を跳ねさせた。


何も反応出来なかった。いや、展開が早すぎたのだ。大体、真人と一心が喧嘩している時は、基本的に自分たちは手を出さない。あの二人にはずっと助けてもらっているが、いつもいる訳では無い。いない場合は自分達で何とかするし、自分達で解決する事もあるのだが、二人が助けに来てくれる場合、能力を使うのに邪魔になってしまう為、参戦はほぼしない事が多いのだ。それに二人が助けに来てくれる時は自分達が動けない時が多い。それでは参戦出来ないのは分かっている。


その為に、今も能力を使うのに邪魔だと考えて何も手を出そうとはしなかったのだが、出そうとしても無理な話だったのだ。一心が能力を使おうとした瞬間、Xが動き出して銃を発砲したと思ったら、もう一心は地面に縫い尽くされていた。


その状態で一心は逃げろ、と叫ぶ。そんな事、そんな今の状態で置いていくなんて。



「出来る訳ないだろ……!」


「いいから! 早く兄さんに、ぅぐっ……!」



顔を上げて叫んでいた一心の頭をXは地面へと押し付けた。


どうする、どうする、だって今の状態でXに立ち向かったとして、拳銃を持っているのだ。何処かの暴力団ではないのに、そんな反則な事。けれどもここで動かなければ、何も変わらない。この状況を変える事は出来ない。


謙心は、ふらりと立ち上がって脳内を思考で回転させた。どうする、どうする。



「へぇ……立ち向かうんだ」



ぼそりと、Xは呟いて拳銃を謙心に向けた。黒い銃口がこちらを向いている。先程と同じだ。一心が庇ってくれたのに、同じ状況へと戻ってしまった。未だに何をするか、どうすればいいかなんて考えはまとまっていない癖に。謙心は奥歯を噛み締めて、たらりと頬を流れる汗さえ拭けないままで、その場で銃口を睨みつけていると、



「……っ!」



一心が押し付けられていた為に伏せていた顔を上げた。そして、思い切り手を振り払って何とか外れた片手を謙心に向けて伸ばした。


すると、謙心の体がふわりと浮く。念力、だ。目を見開いて、一心を見たが一瞬見れただけで、一気に体が上へと浮き上がり、すぐ横のビルの屋上まで辿り着いてしまった。そしてそのまま屋上に投げ出され、体を強打した。着いた屋上は、病院や学校の形状に近い場所であった。コンクリートが冷たく感じる。急に浮き上がったせいで、一瞬吐き気と目眩に襲われたが、吐いてる暇もない。



「一心っ……!」


「いけええええ! 謙心ーーーっ!」



すぐに立ち上がって下を覗こうとするが、一心のその声にぴたりと足を止めてしまった。逃がした、一心は謙心を逃がしたのだ。あのまま、あそこに居ても何も出来なかった。それは分かっていたのだが、それをしたくなかった。いつも助けてくれるあの兄を、今度は自分が助けたかったのだ。以前幸がそうした様に、自分も守りたかったのだ。


けれど、今の声と、先程一瞬だけ見えた一心の表情を思い出すと、謙心は戻る事は出来ない。


『頼むから逃げて』


そんな事を言いたげな、苦しそうに悲しそうに、それでも何処か、俺は大丈夫だから心配するなと言わんばかりの表情を、彼はしていたのだ。


謙心は拳を握り締めて、唇を噛んで、体の向きを変えた。今自分が出来る事はただ一つ。何も出来ない自分を責める事でも、自分を犠牲にするような行動をとった一心を恨む事でも、下に戻る事でも無い。


唯一対抗出来るであろう、たった一人の長男にこの事を知らせる事だ。



「弟くーーん! 助けに来るならさぁ! 兄弟全員で来なよ! 面白いもの見せて上げるから! じゃないと兄さんの命はないかもね!」



下から笑い声が含むその声を背中で聞いて、謙心はその場から駆け出した。


握り締めた拳から爪が、唇から歯が食い込んで血が滲むのを関係無しに走る。早く、早く。早く家に帰らなければ。その為には屋上からも飛び降りる。運が良いことにその建物はそんなに高くなかった。大事な兄を、助ける為に。








◇◇◇◇◇◇

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弟を守れるなら命なんて惜しくもない。 @akizukina

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