第8話 僕は一応人間です

 エスカレーターで二階に行く。ここの書店のエスカレーターは、距離も長いし急だから、落ちるんじゃないかと思うと足の筋肉が緊張して震える。そのせいで、心もさらに緊張する。二階につき、ほっと一息をつく。彼女は、小走りで理系の大学生か物好きぐらいしか読まないんじゃないかと思うような図鑑がたくさん平済みされているコーナーに行った。

「ねえ、理科は好き?」

「えっ、理科?うーん、物理とか化学は文系の割にはまあまあできたけど、生物とか地学とか覚えることがたくさんで苦手だったな。歴史とかも好きなんだけど、覚えられなくて苦手なのと同じ感じかな」

「そりゃ勉強は大変だけど、本で読んだら結構おもしろいんだよ。例えば鳥の図鑑とか、色がきれいだったり、目とか顔がすごく可愛いかったり、似ていても名前が全然違ったり、すごいおもしろいんだよ、ほら、この星の図鑑とかもきれいでしょ」

「そうだね。星座表は家にあるんだけど、こういう風に図鑑で見ることはあまりないなー。でも、季節とか、流星群の紹介とかあって、おもしろいね」

「そうでしょ。青少年科学館のプラネタリウムとか、私たちの大学にも天文同好会があって、観測会とか、大学祭の時にはプラネタリウム展示とかやっているんだよ。楽しかったなー」

「そうなんだ。来年行ってみようかな」

「うん。絶対行った方がいいよ。手作りのプラネタリウムなのにすごいきれいなんだよ。あと、大学に大きなパイプオルガンがあってね、大学祭の時にパイプオルガン研究会のコンサートやるんだよ。まあ、大きさはコンサートホールにあるのよりは小さいけど、音はすごくきれいだし、色合いとか歴史を感じるし、しかもただなんだー。あれはよかったなー」文学や芸術やしかも科学まで、いろいろな分野に造詣が深さにこういう話を聞くにつけて中川さんには、尊敬の念すら持ってしまう。この人の話はずっと聞いていても飽きることがない。僕からずっとずっと遠い雲の上にいるみたいだ。そんな彼女が海北大学にいるのも僕と一緒にデート(?)みたいなことをして時間を無駄にしていることも、もったいないのではないかとすら思えてきた。

「あと、二階でおもしろいのは、哲学とかかな?哲学は佐々木くん読む?」

「哲学は、確かに面白いと思うけど、僕の高校の時の悪友が、何かにつけて哲学の話をしてきてね。それでついていけなくて。哲学は心理学とも関係が深いから興味はあるけど、あまり手を出せてなくて……」

「そうだよね。哲学っていろいろな人が書いていて、どれから読めばいいかわからないところは確かにあるよね。それならヨースタイン・ゴルデルの『ソフィーの世界』がいいよ。主人公のソフィーが哲学的問題について先生から先人の思想を習いながら考えていくという本なんだけど、すごい仕掛けがあって、哲学の入門書としても小説としてもおもしろいんだよ。それに子ども向けだから読みやすくて、理解しやすいし。辞書みたいに分厚かったり、日本の高校の倫理の授業ではよく学ぶ日本やアジア圏の思想・宗教についての記述があまりなかったりするのが不便なところだけどね」

「へー、それはおもしろそうだね。買って読んでみよう」

「あと、心理学に興味があるなら『心の哲学入門』とかもおすすめだよ。私はそこまで心理学に関係する本は読めてないけど。佐々木くんに心理学の本でおすすめがあれば教えてほしいなんて思うんだけどどう?」

「そうだな。ライトなのがいいんだったら、植木理恵先生の『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる心理学』がいいかな。がっつりしたのがいいなら、大学の講義の指定教科書を何冊か当たって、それからフロイトとかアドラーとか当たっていって、論文誌にも当たってという風に進んでいけばいいと思う。大学のアカウントで入れば、無料で読めるはずだから。不便なのはテキスト形式がないことだけど。やっぱり最新の研究が一番おもしろいし、正確さも古典と言われるような時期よりも高いから」

「なるほど。かなり勉強してるみたいだね」

「いや、中川さんの読書量には全然及ばないよ。文系、理系関係なく読んでいて、しかも全部自分のものにして、こうやって話しているんだもん。僕なんて本当に印象に残った本しか覚えてないし、覚えていたとしてもそんなに語れないもん」

「それでも、十分でしょ。ここまで文学の話したの初めてだもの」

「それはないでしょ。だって僕より本読んでる人なんていくらでも知ってるよ」

「いや、違うの。本をどれだけ読んでいるかって話じゃないの。本をここまで自分のものにして読んでいる人がこれまで大学にいなかったの。こんな人が同期にいるなんてうれしい。ほんとよかった。ほんと」

「それはよかった。これまでなんてさ、心理学とか本とかの話ししても引かれてしまって。だから、飲み会とかであんま話さないんだよね」

「それは引く方がおかしいよ。というより、私なんて、バイトで忙しいからとか半分嘘言って……まあ、確かにバイトはしているんだけどね。行こうと思えば行けるし。そんなわけで、二年になってからほとんど行ってないよ。先輩との縦飲みとか、先輩方話振るの下手だったし、同期の飲み会なんて自分の話したいこと話すだけだし、つまらないでしょ。後輩が来たらおごらないといけない風潮だし。つまらない上に、そんな親しくない人におごるなんておかしくない?そう思わない?」

 僕でもさすがにそこまでは思ってないですよ。僕が言うことでも、言えることでもないけど、誰か知り合いいたらヤバいよ。そんな僕の内心など彼女に知る由もなく、彼女は最初より陽気で明るい様子で話を続ける。

「だから私は、一人でおいしくて安いカフェとかレストランに行ったりしている。独身貴族とかいうのかな。こういうの。でも、今日は佐々木くんと本の話してて楽しい。……そうだ、レストランと言えば、もうそろそろお昼だし、どっか食べに行こう」

 独身貴族という言葉に突っ込みたくなりたくなったが、彼女は妹ではないので、言葉を飲んだ。そして、お昼、という言葉に驚いて、ふと時計を見る。もうすぐ十二時になろうとしていた。もうかれこれ二時間も、書店の中をしゃべりながら歩いていたのか。本のおかげか、中川さんの話の引っ張り方がうまいおかげか、グダグダにならずに済んだようだ。

「そうか、もうこんな時間か。じゃあ、駅の近くに戻って何か食べようか。……何か食べたいものとかってある?」

「うーん、なんかあるかな……佐々木くんは何か食べたいものないの?」

「いや、特に。食べられるものなら何でもいいって人だから」

 そんな風に2人で話をしながら、会計を済ませる。結局数冊しか買っていないけど。会計が終わると突然彼女が

「そう。じゃあ、ついてきて」と言って、ぐいっと、今度は僕の腕を掴んで引っ張る。あまりにも急なことだったので、足が追い付かずに転びそうになったが、それに気付かず彼女は駅に早歩きで戻る。あの、僕一応生身の人間なんですけど、マネキンとかじゃないんですけど。そんなこと言えるわけもなく、駅の中にあるレストラン街までやって来た。

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