第6話 今日は遅い/長い

 一人で出かけるのには慣れている。どうってことはない。一人でやりたいことを思う存分やって帰ってくればいいだけだから。ただ、今日は違う。同い年の女性をリードしなければならない。もしかして、リードしなければいけないと意識すること自体がおかしいことかもしれないが、少なくとも、落ち着いて行動しなければならない。レディーファーストは男女差別だ、そんなこと考えるなんてふざけるな、とか思われるかもしれないが、せっかく誘ってもらったんだし、それに対して何らかの形で感謝を表さなければならない。しかも、おごるということは禁じ手にされている。それなら、母が小さい頃からよく言っていた、人にやさしくするということを実行すべきに違いない。一人でいる時のように勝手に暴走して、自分だけの世界に浸るわけにはいかない。それでいて、楽しんできてってどういうことだろう。さっきまでありがとうとか言っていたが冷静に考えるとどういうことなのだろう?そんなことを考えながら外を歩くもんだから、いろいろな人にぶつかりそうになる。かなり舌打ちを浴びる。負の音というのは、どうしても慣れない。嫌いだ。でもせっかく相手も時間を作って付き合ってくれるんだから。少なくとも自分が楽しんでいないと。


 地下鉄に乗る。ここまでは見事に三十分前行動を体現できている。うまくいっている。気持ちいい。大丈夫だ。大丈夫だ。いつも乗っているはずなのに、今日は乗ったことのない都市の電車のように感じる。しかも、乗っている時間もいつも以上に長い気がする。普段ならば、車内広告のすべてに目を向け、クラシックの演奏会の情報を仕入れたり(実際に行ったことはないのだが)、たまにある中学入試問題を解こうとずっと考え続けてみたりするのだが、今日は七海が言っていたことをまとめて送ってくれたメールを携帯で確認していた。それにしても、全然着かない。メールを見ても胸がどきどきする。受験のときは、緊張すらしなかったのに、なんでこういう時に。こういう時こそ顔に出るから落ち着いていたいのに。ああ、神様でも仏様でも誰でもいいから、僕の心拍数を下げてくれないかな。全然進まないじゃないか。一駅停車するごとに、その停車時間がとても長く感じる。早く着いてほしい。地下鉄なのだから、いつも通り運行されているはずで、いつもより遅いということはないし、速度が落ちることはまずなく、速度が上がることなど決してないのは理性でわかっているはずなのだが、速く進んでほしい。そういうふうに思う。確かに別に早く着いたからといって、彼女が早く来ているとは考えられないし、ここまで早く行動を始めている人なんて僕以外にいるわけがないのだから、来ない可能性の方が高いのはわかっているのだが、ずっと次の駅を示している電光掲示板を見続けていた。


 ついに車内のアナウンスが次の駅が自分の降りるべき駅であることを伝えた。僕は、席を立ち、手すりを両手でしっかりつかんでドアの前に立つ。そして、停車する。体が持っていかれそうになることはいつものことだが気にしない。ドアが開いた瞬間、完全に開ききっていないにもかかわらず、その狭い隙間に細い体を入れて降りた。大黒屋書店は、かなり頻繁に行っているのだが、今日はどこの出口が近いかということやどの道を通ればよいかということを、度忘れしてしまっていた。地下鉄の駅構内には、地図と一緒に出口の位置を示した案内板があるはずだ。ただ、それがどこにあるのかがわからない。急がないと時間が。僕は、走り出す。走ったところで早歩きより遅いし、息が上がるだけだということを思い出したのは、案内板の前にたどり着いたときだった。最寄りの出口を確認した。十六番出口だった。今五番出口の近くだからと方向を確認して、そこに向かって早歩きし始める。七、九、……と一つ一つ見ながら進んでいく。十五番出口を通り過ぎると十七番出口が見えた。ただ十六番出口がない。いや、ないわけはない。どこだ。どこだ。あせる。ふっとあたりを見まわすと、右側にあった。そうか。左側しか見ていなかった。階段を上って外に出る。それで、大黒屋書店は、あっちか。外に出てしまえば、建物の名前で位置関係はなんとなくわかる。息が上がっていたこともあり、ゆっくり歩いた。なんで走ってしまったのだろう。すぐに後悔する。そして、大黒屋書店にたどり着く。

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