10 非軟
あの男が夜、アパートに帰って来なかった日は何日あるだろうか。あの男は会社員だから泊まりがけの出張もあっただろう。けれども、あたしが気にするのはそれ以外。おそらくアレの最初の日、あの男が、
「今日は帰れない」
と事前説明する。だから、あたしはそのつもりで部屋でじっと待つ。結果的にあの男があたしの待つアパートに帰って来たのは夜明け前。何故あたしにそれがわかったかというと、あの男がこう言ったから。
「ああ、瑠璃さん、起きていたのか。まだ早いから寝ていなさい」
あの男の言葉にあたしは自分が何と答えたか憶えていない。ただ、あのとき妙な不安に襲われたことだけを憶えている。あたしは当時も今もあの男を愛していない。それでも多少の所有欲があったのは否めない。自分があの男にとって一番でなくなりそうだ、と感じ、不安になったのか。自分で言うのもおこがましいが、あたしの女の勘は、あの男が外でしてきた行為を見抜いたようだ。けれども結果的にあたしの不安は杞憂になる。あの男が常に愛していたのが、このあたしだとわかったから。けれども、あたしの不安は本当に的外れだったのか。あの男があたし以外の女を愛していないことは事実として……。あの男がもし、あたしのことを愛していなかったら、あたしを攫うなどという行為に及ぶはずがない。けれども、あの男が嘗てあたしをイジメた女たちにした行為の最中、あたしのことを忘れるほど没頭した時間が本当になかったかどうか。
結局五人もの女が、あの男の手にかかる。よくも犯罪発覚までに時間を要したものだ。もちろん死体が発見されなかったからだが……。
最後の一体を除き、何故死体が発見されなかったかというと、あの男が自ら殺害した犠牲者の身体をバラバラに刻み、肉はフードプロセッサーでミンチに、骨は酸で溶かし、廃棄したから。あたしには想像するだけでも恐ろしいが、あの男にはまるで平気だったようだ。あたしも関わるあの男を裁く法廷により、あの男には一部の感情が欠落していたことがわかる。それで死体を細かく切り刻んでも器物損壊程度にしか感じなかったという。
あの男が、そうなのか。あたしにはまったく信じられない。優しいかどうかはともかく、あたしが覚えているあの男は冷血ではない。好んで人を殺すようにも思えない。嬉々として人を殺すようにも見えない。
確かに、あの男の顔には険がある。けれども、その険は笑えば消える。あの男の笑みは優しい。少なくとも、あたしに向けられた笑みは優しい。
あの男を裁く法廷では、わたしはあの男にセックスを強要されたことになっている。検事の訴えにあの男が反論しないので法的事実。もっとも世間の一部は、そう思っていない。あたしが(多少の窶れはあるが)健康体で発見されたことが、その印象を強めたようだ。
あの男が逮捕されると世間に目撃者が溢れ返る。あの男とあたしが一緒にいたところを見た目撃者の群。彼と彼女らの基本的証言は皆同じ。
「二人は仲が良さそうに見えました」
「女の人の方が顔が幼く見えたので兄妹とも思えましたが仲は良さそうでした」
というもの。それに種々の尾鰭が着く。
「一緒に花を見て笑い合っていましたよ」
「見つめ合いながらアイスクリームを食べていました」
「家がTなんだろ。攫われてんならKに旅行なんかしないだろ」
「お部屋を取られたときのお名前はご兄妹のようでございましたから、わたしどもと致しましては、それを信じるしかないのでございまして……」
もっと曖昧な証言も、もっと具体的な(下劣な)証言もあるが、挙げ始めればキリがない。実際、あの男とあたしは仲が良さそうに見えたのだろう。笑い合ったのも事実。最初の旅先旅館でのセックスはあたしが気を遣い過ぎて痛いだけで終わる。
「逃げようと思えば、いつでも逃げられそうに見えましけどね」
「女の子に表情があったからねえ。犯人にマインドコントロールされているようには見えませんでしたよ」
実際、あたしはあの男にマインドコントロールされていたのか。マインドコントロールが悪い意味なら、あたしには違うような気がする。もっともあの男は頭が良いから、いずれあたしにそう思わせるよう、予め計画を立てたのかもしれない。……だとすれば、あたしはまだあの男の支配下にある。仮にそうなら、あたしにあの男に対する正しい判断など下せるはずがない。あたしを診察し、健常人と比較し、正常であると判断した心理学者の証言が法的にいくら正しいにしても……。
あの男が犯した連続殺人が徐々に明るみになると世間で噂されるあたしの姿が徐々に変わる。
「あんな冷血漢に囚われていたのだから逃げるに逃げられなかったんでしょうね」
「一見笑っていたように見えましたけど実は作り笑い――犯人から自分の身を守るための――だったのかもしれませんね」
一部のマスコミがあたしの顔写真をネットに流す。だから、あたしの顔は今でもネット上で検索できる。一部のネット達人があたしの家を特定したので探る根気があれば誰でもあたしを訪ねられる。そのせいかどうかは知らないが、やがてあたしは意外な人物の訪問を受ける。いや、それも精神病院の檻の中にいるあたし一人の妄想に過ぎないのだろうか。
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