8 非交

 あの男があたしに自由を与え始めたきっかけは何だったのだろう。あたしが自分の元から逃げ出さないという自信があったのか。それとも、あたしには与り知れない、あの男なりの理由があったのだろうか。

 あの男があたしを公園に連れて行ってくれる回数が増えたのが最初。あの男は会社員らしいから平日には無理だが、休日にねだれば叶うようになる。最初に連れて行かれた公園で見た花は梅。次が桜。その次に見たのは名前も知らない花。もちろん、このあたしが名前を知らないだけで花に名前はあるだろう。今思えば、瑠璃が見たかったな。あの男があたしに付けた名前だから……。あるいは、あたしがあの男に攫われていた期間の象徴だから……。

 もっとも瑠璃という名の花はない。あるのはルリソウ(山瑠璃草)。名前に草という字が付くくらいだから草であり花ではない。もちろん花は咲くが……。

 ‏同じ科に属すヤマルリソウ(山瑠璃草)は良く見かけるが、ルリソウの方は目撃例が少ない。野草好きのあたしの友人が、そう語る。あたしが病院のベッドで臥していると現れる。大柄な彼女はあたしの小学生のときの友だちだ。転校したのは、あたしがまだイジメられっ子になる前のこと。あの男とあたしの事件が全国ニュースで報じられ、勘良く気づいたのだろう。報道におけるあたしの名の扱いは匿名でも知っている人には筒抜けな匿名だったから……。

 ルリソウが日本でルリソウと呼ばれるようになったのは花の色が瑠璃色だったから。瑠璃(または琉璃)とは仏教七宝の一つ。サンスクリットの vaiḍūrya 、あるいはそのプラークリット形の音訳と言われるが、わたしには呪文。金緑石、ラピスラズリとも言われる。宝石的には瑠璃=ラピスラズリか。

 七宝は無量寿経において『金/銀/瑠璃(るり)/玻璃(はり)/硨磲(しゃこ)/珊瑚(さんご)/瑪瑙(めのう)』とされ、法華経において『金/銀/瑪瑙/瑠璃/硨磲/真珠/玫瑰(まいかい)』とされる。七宝は、例えば七宝焼きとして今日まで名が残る。使われている色の種類から来たのだろう。子供の頃、授業で焼いた覚えがある。瑠璃色は、やや紫みを帯びた鮮やかな青色。近似色は群青色と青。半貴石の瑠璃(ラピスラズリ)。石の色。

 ところで半貴石は貴石ではない、すべての宝石のこと。だから貴石が何だか知らないとわからない。

 代表的な貴石はダイヤモンド、ルビー、サファイア、エメラルド。この四種で異存がない。けれども、それ以外は国や専門家により意見が異なる。次点がアレキサンドライト。ついでトパーズ、ジルコン、アクアマリン、キャッツアイ、トルマリン、ガーネット、ペリドットと続く。一段劣り、ヒスイ、オパール。そこから先が半貴石で、クリスタル、アゲート、アメシスト、シトリン、スピネル、ラピスラズリ、タンザナイト、クンツァイト、アイオライト、ターコイズ、ムーンストーン、ヘマタイト、タイガーズアイ、マラカイト、オプシディアン、ソーダライト、フローライトと続く。

 瑠璃はラピスラズリ。半貴石のラピスラズリを粉砕し精製した顔料が天然ウルトラマリン。もっとも色としてのウルトラマリンを群青色と見なし、瑠璃色と区別する人もいる。また当然のように瑠璃色と瑠璃の粉末の色と天然ウルトラマリンの色は異なる。

 ところで先の宝石序列を漢字で書くと金剛石(こんごうせき)、紅玉(こうぎょく)、蒼玉(そうぎょく)(または青玉(せいぎょく))、翠玉(すいぎょく)(または緑玉(りょくぎょく))、金緑石(きんりょくせき)、黄玉(おうぎょく)、風信子石(ふうしんしせき)、藍玉(らんぎょく)、猫目石(ねこめいし)、電気石(でんきいし)、柘榴玉(ざくろいし)、橄欖石(かんらんせき)、翡翠(ひすい)、蛋白石(たんぱくせき)、水晶(すいしょう)、瑪瑙(めのう)、灰簾石(かいれんせき)、紫水晶(むらさきずいしょう)、黄水晶(きずいしょう)、尖晶石(せんしょうせき)、瑠璃(るり)、黝輝石(ゆうきせき)、菫青石(きんせいせき)、トルコ石(とるこいし)、月長石(げつちょうせき)、赤鉄鉱(せきてっこう)、虎目石(とらめいし)、孔雀石(くじゃくいし)、黒耀石(こくようせき)、方ソーダ石(ほうそーだせき)、蛍石(ほたるいし)となる。

 並べて気づくが、石でも玉でも晶でもないのが翡翠、瑪瑙、瑠璃、赤鉄鉱(笑)。だから、その意味で瑠璃は貴重なのかもしれない。

 草のルリソウに戻る。ルリソウはムラサキ科ルリソウ属。二十から四十センチメートル大の多年草で全体に開出毛が多く、葉は根出葉より下部の方が大きく、倒披針形で長さ七から十五センチメートル。花序は頂生し、基部で二分。花は直径一から一・五センチメートル大の濃藍色で稀に紅紫。分果の縁には鍵状の刺がある。分布及び生育地は北海道、本州(中部地方以北)山地の林下。花期は四から六月。

 写真で確認しても、あたしには見た記憶がない。もっとも、その記憶があたしから消えた記憶の中にあるのならば見たことになるが……。

 ああ、あたしは何を考えることから逃げようとしているのか。

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