6 非横

 あの男に攫われて以来、狭い部屋の中にいることが多い。だから、あたしは慢性的な運動不足。部屋の中だと体操はできても走りまわることが不可能。それでだろうが、あの男に目隠しされ、部屋から出され、夜の倉庫でランニングを強要される。毎日やれば体力がついたかもしれない。が、良くて一週間に一度では逆効果。だからあの男に初めて外に連れ出されたあの日、あたしは自分の体力不足を実感する。

 あたしが連れて行かれたのは朝の公園。日差しが明るいのは嬉しいが、身体がすぐに疲れてしまう。坂道どころか、平坦な道でも足が痛い。あの男はそんなわたしを見て、

「瑠璃さん、おぶろうか」

 と笑顔を見せる。あたしは、

「恥ずかしいから」

 と首を横に振る。それであの男があたしの手を引き、ゆっくりと歩き出す。

 花の咲き香る公園。かなり広い。道はコンクリート舗装だが、その他は土。匂いが広がる。あたしはそれまで土の匂いを感じたことがない。土の味なら中学のイジメのときに知らされたが、あのときと同じ土とは思えない。

 ふうはあ、と息を上がらせながら、あたしが勾配を登る。子供のあたしならば難なく昇れたはずの坂道なのに、とにかく息が上がる。足も痛い。

 ふうはあ、ふうはあ……。

 痛い、痛い、痛い。

 それでも、どことなく楽しいのは何故だろう。開放感のせいだろうか。狭い家の中に一日いて、あの男が(たぶん仕事で)外に出ている間、あたしは一人ぼっち。

 退屈。

 退屈。

 退屈。

 もっとも、ほとんどの時間あたしは眠っているから独りぼっちの時間は短い。それでもたまに苛々の度合いが睡魔に勝り、気を失うことができなくて目を開けていると心が壊れる。外から自分が泣く声が聞こえる。家に帰りたいと真剣に願う。お父さん、お母さんに会いたいと切なくなる。あの男に攫われるまで、あたしは自分が両親を嫌っていたのが信じられない。子供の頃の楽しかった思い出ばかりが頭に浮かぶ。そんなとき、あたしはあの男を憎む。憎むというより、殺してやりたい、と願う。けれども夜になり、あの男の気配があたし一人しかいない部屋に近づくと、どうして嬉しくなってしまうのだろう。待ち焦がれていたと感じてしまうのだろう。今思えば、それがあの男の策略だったと理解できる。が、当時はそう思っていない。

 けれども本当にそうなのか。

 今のあたしには残る記憶と消えた記憶がある。後者は、おそらく無意識の自浄行為。だから、あの男に攫われていた期間、あたしの記憶は曖昧だ。だから、あたしには夢と現の見分けがつかない。自分で覚えていると感じる記憶がもし夢ならば、あのときのはしゃいだ気持ちもまた夢なのだろう。そんな夢から一枚ずつ丁寧に記憶を剥ぎ取れば、いずれ現が現れるのか。あたしが途中で(始めてすぐ)その作業を中止したのは最後に残る現がなかったときの不安から。あたしが攫われ過ごした現実など何処にもなく、あたしがいるのは今も当時も精神病院の檻の中。家族の誰からも捨て置かれ見舞いに来る客など一人もいない。友だちといえば架空の誰かさんで、だから所詮あたし自身でしかない非友だち。あの男はあたしを攫わず、だから当然あたしをストーカーしたこともなく、当然あたしを見初めもしない。あたしは醜い顔つきの高校生で家族を含め、どんな人にも好かれることがない存在。だから恋など程遠い。あの男はあたしの妄想。自分自身を慰めるための……。だからあたしがあの男に抱かれたことは一度もなく、だから身体が喜んだことも一度もない。すべてはあたしの心の中の出来事で、だからあの男は存在しない。あたしを愛していたはずのあの男は……。

 それなのに、どうしてあたしはあの公園への遠出を覚えているのだろう。あの男の仕草を覚えているのか。険がすうっと消える笑い顔。優しい目。暖かい言葉。

 攫われて初めて鏡を覗かせてもらったのも、あの公園。梅が満開だったから寒かったが、あたしが鏡を覗くと、そこにいたのは笑顔のあたし。その笑顔にぞっとし、あたしが急に泣き始め、しゃくりあげると、あの男の手が頭を撫ぜる。まるで幼い子供を宥めるように……。まるで憤(むづが)る赤ん坊を泣き止ませるかのように……。

 あの後、あたしは泣き止んだのか。それとも、いつまでも泣き続けたのか。その部分は消えた記憶の内容物なので、今のあたしには思い出せない。けれども、今のあたしにもわかることがある。仮に泣き止んでいたとすれば、あたしは微笑んだはずで、そうでない場合でも涙が嬉し涙に変わったのだと……。

 あのときあたしが見た鏡の中のあたしは幼い子供ではないが、幼い子供の頃のあたしの顔で笑っている。理由は簡単。その後あたしが笑顔を失ったから。あのときから一度も笑わなかったとは言わないが、あたしに思い出せるどの笑いも偶然の発作のようで気味が悪い。けれどもあの公園にいたとき、鏡に映ったあたしの笑顔は少しも気味が悪くない。覗いた顔自体も醜くはなく、どちらかといえば初々しくて可愛い。自分にそんな笑みが浮かんだことが、とても不思議。自分がそんなふうに笑えたことが摩訶不思議。もっとも、またすぐに泣いてしまったが……。

 あたしに魔法をかけたのは、あの男なのか。それとも、あたし自身の妄想なのだろうか。

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