2 非雲
あの男を初めて見たのは、あたしが高校一年生のとき。おそらく向こうは気づいていない。後にあたしはあの男に攫われるが、それが約一年後。その一年の間に、あの男はあたしのことを調べたのだろう。攫われたときにはフルネームを呼ばれる。最初あたしは自分が知らない……覚えていない親戚の人と勘違いする。目に険はあるが背が高く、一般的なイケメンという第一印象。笑うと見事に険が消える。それであたしが安心する。すると、あの男が、
「図書館まで送ってあげよう」
とあたしを誘う。あたしの行動パターンを見抜いている。あたしがあの日、どんな行動を取ろうとしていたかを……。
あたしには友だちがいない。あの男は、それを知っている。あたしと両親は決定的な仲違いこそしていないが、仲が悪い。おそらくそのことも知っている。小学校の時ほどではないが、未だにあたしがイジメにあっていることまで知っているかどうか。
攫われた後、あの男はあたしにイジメに関する話をしない。むしろ、あたしの方があの男に問われるまま事実を淡々と語っている。だから、あの男は今ではあたしの過去にイジメがあったことを知っている。けれども当時、攫われる以前に知っていたかどうか。そこまであの男は、あたしのことを調べたか。あたし自身に気づかれぬよう、ひっそりと……。
あの男は、あたしを愛している。あたしが攫われていた期間、口にしたことは一度もないが、あたしにはそれがわかる。
……だとすれば調べたのかもしれない。後知恵があたしにそう囁く。
もっともイジメというのは陰湿だ。他者が見て簡単に見抜けはしない。暴力がエスカレートし、傷が残ればわかるだろう。けれども大抵、服からはみ出す部分に外傷を与えるようなマネをしない。だから普通はわからない。外から見てもわからないのだ。
あの男があたしの入浴姿を覗いていればわかるだろう。が、簡単に覗けるとも思えない。あたしの家はマンションの五階。窓は外壁に穿たれているから向かいのビルの適当な階に陣取らなければ覗けない。
あの男に、それをする勇気があれば……。
あの男に、それをする機会があれば……。
が、あの男はおそらくそんなことをしていない。あたしに気づかれずにストーカーを半年以上したくらいだから、その気はあっただろうが、機会に恵まれなかったと思う。あたしの家があるマンション向かいの建物が雑居ビルなら可能性はあったかもしれない。けれども中堅ITメーカーの自社ビルでは警備がキツくて無理なはず。だから、あの男は驚いたのだ。あたしの肩に近い腕や腹部や腰や尻の醜い腫れを見て……。あの男は誤魔化したつもりだろうが、はっと息を呑む、その息音をあたしははっきりと聞いている。
あたしの心が抵抗を諦め、あの男に裸に剥かれたときのことだ。攫われて半月ほど経った日の早い夜。あの男に攫われてからずっと、あたしは深い困惑と睡魔の中にいたが、すべての感覚が死んでいたわけではない。
あれから先のことはあたしにとってまた別の困惑だが、あたしはあの男から直接的な暴力を受けたことがない。精神が弛緩したあたしを無理やり犯したのは事実だが、あの男にその行為を許してしまったあたしにも責任の一端がある。時間が経てば考えが変わるかもしれないが、現時点であの行為は棚上げだ。結局あの日、あの男はあたしを抱かなかったのだし、初めて抱かれたときにはあたしにもそれなりの覚悟ができていたのだから……。
あたしはあの男を愛していない。あの男に抱かれ続けたのは、あの男がそれを望んだから。けれども不思議なもので最初はただ痛かっただけのあの行為が、やがて身体に快感を与えるようになる。あの男にそう言ったことはないが、一般的な男にそれが伝わるのなら、あの男にもまた死体の喜びが伝わっただろう。そうでないなら、自分の誘いにぞんざいに応じ、いつも死んだ魚ように身を任せるあたしを、あの男はどう感じていたか。攫うほど好きな女だったから、それでも可愛いと思ったか。あるいは単に哀れんだか。
あの男は滅多に自分の感情を表に出さないので、あたしにはあの男の正解がわからない。ただ、あの男があたしのことを愛していることだけがわかる。
あの男があたしを攫い、あたしがあの男に攫われるという奇矯な出会いでなかったら、あたしとあの男との関係性は変わっただろうか。
けれども過ぎ去った時間に、もし、はない。あるのは、あの男とあたしの心の中身を面白おかしく詮索した様々な世間の噂や週刊誌記事。それらとは月と鼈のように懸け離れたあの男とあたしの二つの心には今ではもう何が真実がわからない。
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