第7話 007

 有川は病院のベッドで目を覚ました。

 痛みはない。当たり前だ。僕は機械なのだから。

 有川の両手は、ベッドの手すりに手錠のようなもので繋がれていた。通常であれば、患者の側には脈拍数や血液中の酸素濃度などを表示するモニターがあるのだが、有川の場合あるのは、ダンボールほどの大きさのコンピュータとバッテリーだった。この二つの機械が、彼の魂をこの世にとどめているのだった。

コンピュータの緑色のランプが、有川が起きたことを知らせるように点滅した。

 僕は生きている。生きてるんだ……。

 有川はなんとも言えない感動を覚えた。こんな身体であっても、人と認められなくても、生きていることは素直に嬉しかった。

 徐々に身体の感覚や記憶がはっきりとしてきて、頭以外のほとんどのパーツを動かせないことに気付いた。

 きっとあのせいだ。あの講演会の時、僕は銃で撃たれた。トゥレラに感染し、人を襲い、そして撃たれた。

 きっと特殊銃弾によって、体内のほとんどの機器が破壊されたのだ。脇にあるこの馬鹿みたいな大きさのコンピュータは、きっとその場しのぎの代用品なのだろう。

 退院したら、新しいボディを買わないといけないな……。ちょうどそろそろ交換しようと思ってたころだ。もうこのボディは五年以上使っていて、さすがにこの歳で見た目が変わらないのは変に思われる。

 次はどんなのにしようか。金はいくらでもある。できるだけ上等なものを買おう。

でもきっと、今回のことで僕の義体化はばれて、そんな努力も虚しく終わるのだろう。これまで必死に隠し通してきたものも、あのたった一回ですべて無駄になったのだ。

「僕はもう人間じゃないんだなぁ……」

 有川は天井の一点を見つめながら呟いた。

「あんたはとっくに人間じゃなかったよ」

 突然病室の入り口で声がした。有川は驚いて声のしたほうを向くと、そこには黒のスーツに身を包んだ九条が立っていた。

「電監の電子機巧部監視一課の九条っていいます」

 九条が携帯に表示された免許を見せながら言った。

「電監が僕になんの用ですか?」

「なんの用ってことはないだろ。俺達のあんたに対する用なんて腐るほどあるぞ」

 九条が脅すように言った。

「僕を殺すのか。僕が機械だから。暴走したから。だから殺すのか」

 有川は必死に平静を装い言い返した。

「まあ通常なら、当然あんたは執行対象だ。けどな、戒告を出す相手と執行対象が同一ってのは、うちでもあまりないパターンでさ、局長の命令であんたは特例扱いってことになってる」

 九条はそう言って、ポケットからメダル型の端末を取り出すと、それに触れ一枚の文書をホログラムで浮かび上がらせた。

「ここにサインを。そうすれば今回のことは、一時的な精神錯乱ってことで処理しといてやるよ」

 九条が文書の右下の署名欄を指差し、タッチペンを有川に差し出した。

「まあ要するに、あんたの会社がうちに圧力掛けたってことだよ」

 九条は嫌味っぽく言った。

 有川は九条から黙ってペンを受け取ると、文書にサインをした。

「どうも」

 それだけ言うと彼はペンを受け取り、端末をしまって、病室を出て行こうとした。しかし、扉の手前で一度立ち止まり、

「運が良かったな。だけど……電監舐めんじゃねぇぞ」

 と言い捨て、彼は病室を出ていった。

 それと入れ違いのように看護師がやって来て、有川の身体の様子を聞き始めた。有川は身体のほとんどを動かせないことを看護師に伝え、代替ボディを頼んだ。

 会社は僕の味方をしたわけではないだろう。きっと、自分のとこの社員が実は完全義体化をしていて、ウイルスに感染して暴走したということが世間に知られるのが嫌だったのだ。

 きっと退院して会社に戻っても、僕の居場所はもうなくなっているだろう。

 有川は何かを考え込むように目を瞑った。




 春香は電監庁舎地下2階の電算室に篭って調べ物をしていた。今日は日勤のため、夕方以降は仕事がない。

「ねぇ、防衛省への書類申請は終わった?」

 春香が誰かに話しかける。

『もう少しです』

 電算室の情報処理AI「コンパス」が春香に答える。

「それが終わったら、次は気象庁のお願い」

『了解です』

 AIに指示を出しながら、春香は閲覧許可の下りた文書や電監のデータベースに目を通していく。

 探しているのは、フロンティア戦争に関する情報及び神崎が電監に入る理由となりそうな情報だ。あの人がこだわるほどの情報だ。きっと重要なものに違いない。

 フロンティア戦争に関しては、自分が持ち合わせていた知識と大きな違いはなかった。

 コンパスによる説明はこうだ。

『フロンティア戦争とは、2045年から2050年まで続いた人口大陸フロンティアでの日本の参加した世界大戦のことです。人口大陸フロンティアとは、資本主義の行き詰まりを新たな開拓地を作ることで解決しようとした国際プロジェクトで、計画案が2025年に提出され、2035年に大筋合意を得ました。

 太平洋の真ん中に、フロンティアと呼ばれる日本とほぼ同じ面積の人口大陸を造り、そこに資本を集めることで資本主義の内部侵食を食い止めようとしました。それに伴い世界中で技術革新が起き、建設用ロボットの開発がすすみ、社会にロボットが普及する一因ともなりました。そのおかげで当初の完成予定より十年近く工期が縮まり、2045年にはインフラ整備も整い、住民の移住が始まろうとしていました。

 しかし、フロンティアの統治構造や産業界の規格争いに不満を持っていた中国が突如フロンティアの実行支配を開始。それを受け、アメリカを中心とした有志連合がフロンティア奪還を目的とした実力行使を開始。これにより地球上で初めて有人兵器より無人兵器が多く使われた戦争、フロンティア戦争が始まりました。

 その後五年間、激しい戦闘がフロンティアでは続き、インフラ設備のほとんどが破壊され、原子力発電所への攻撃により大陸の八割以上が放射能汚染の被害に遭いました。

 2050年の夏、X45相当の太陽フレアが地球に到達し、世界中の電子機器が甚大な被害を受け、戦場の兵器も大部分が故障し、戦場は混乱しました。自国の混乱により各国が軍隊の引き上げを行い、戦争は自然消滅しました。

 現在フロンティアは復旧に向け、日米欧の研究チームが定期的な放射線測定を行っています』

 つまりフロンティア戦争は、太陽フレアの混乱により終結したとされている。神崎さんが内地にいたのか戦地にいたのかで事情は変わってくるかもしれないが、キーとなってくるのは太陽フレアかもしれない。

『防衛省から返信。当該請求書類は既に廃棄済みとのことです』

「廃棄って、どういうこと……」

『報告を終えた時点で使用目的を達しており、法令に則り文書は廃棄したとのことです』

 自衛隊のフロンティアでの戦闘状況を記した文書なのに?

「法令に則りって……そんなのありえるの?」

『公文書等の管理に関する関係法令および規則には違反していません』

 ありえない。あれだけ大規模な戦闘の重要書類ほとんどを廃棄するなんて……。

「とりあえずフロンティア戦争に関する防衛省の所有する書類全てに申請をかけといて」

『了解しました』

 春香は電監のデータベースでトゥレラウイルスの検索をかける。ヒットした項目の一番上をタッチすると、画面に「あなたにはこのデータに対するアクセス権がありません」と表示された。

「え、なんで」

 春香は再度その項目をタッチするが、変わらず拒否される。

「ねぇコンパス、このデータのアクセルレベルっていくつ?」

『そのデータはアクセスレベルZです』

 アクセスレベルは、上からZ、A、Bと分かれていて、Zともなると局長や部長ぐらいしかアクセス許可が下りない。

 春香は諦めて次の項目をタッチする。するとまた「あなたにはこのデータに対するアクセス権がありません」と出た。戻って上から三番目のデータをタッチするが、結果は同じ。続いて四番目、五番目とタッチしていくが、画面に映るのはこのテキストだけだ。

「ちょっと待って……。どうなってるのこれ……」

 現場でトゥレラの対応をする監視官に、トゥレラに関する情報のアクセス権がないのは明らかにおかしい。

「コンパス。このデータの中から私にも見られるのだけ表示してくれない」

 画面が切り替わると、さっきまで数千件あったヒット件数が、数百件にまで減っていた。そのほとんどが、トゥレラウイルスの関連した暴走事件の報告書だった。

 トゥレラウイルスの分析結果やアルゴリズム解析結果などの情報は、全て消えていた。

『気象庁から申請書類が届きました』

 コンパスの声が聞こえ、パソコンにファイルが送られてきた。

春香がそれをタッチすると、開かれた文書にはたった二行の文字が書かれていた。


データなし。

太陽フレアによる観測衛星の故障のため。


変だ……。いや、変どころの話じゃない。これはもはや隠蔽だ。そう思った瞬間、右肩を誰かにトンと叩かれた。

春香が悲鳴を上げて振り向くと、相手は神崎だった。

「やっぱりここにいたか。入ってそうそう問題起こすなよ」

 神崎はそう言って、パソコンの電源を落とす。

「え。ちょっ……」

「おいコンパス、申請履歴は消しといてくれ」

『了解です』

「まあ調べられたら簡単に足は着くんだがな」

 彼は苦笑いしながら言う。

「あの、どうして私がここにいると……?」

「麻倉から御木に俺の話をしたって聞いてな。お前のことだから、一人であれこれ詮索するだろうと思って来てみりゃ、案の定だよ」

 神崎は首の後ろで手を組みながら、出口の方へと歩いて行く。

「知りたきゃ教えてやる。ついて来い」

 自動ドアがシャッと開き、神崎は電算室から出ていった。

「え、ちょ、ちょっと待って下さい」

 春香も椅子の背もたれに掛けていたジャケットを羽織り、彼を追いかけた。


 二人を乗せた神崎の車は、電監庁舎を出ると東京駅の方へ走り出した。運転席に座る神崎はポケットに手を突っ込み、睨むように前だけを見ている。

「あの、どこに行くんですか?」

「いいから黙って乗っとけ」

 車は、皇居を囲む城壁のように建てられた高層ビル群の隙間を縫うように走っていく。東京の中でも特に大きな街は、地震対策も兼ねた二層構造になっていて、今や自動運転なしでは地元の人間でも道に迷うほどだ。

 昔のSF映画みたいに青白く光るビルばかりというわけではなく、どちらかというとそういう近未来的なデザインのビルよりは、屋上や外壁に植物を配置したグリーンなイメージの建物が多い。

 人類は文明を発達させると共に自然を征服してきたのに、なぜか自然を想起させるもののほうが印象が良いらしく、そういったグリーンなビルの方が人気で賃料も高い。

 太陽フレアの混乱を上手くくぐり抜けた日本は、企業からの圧力により規制緩和が大幅に進み、東京はもはや日本の中心のみならず、世界の中心となっている。世界中の企業が東京に支店を持ち、インフラ会社のいくつかは外資系企業だ。

 地元じゃほとんど見なかった、日本語が書かれていない中国語や英語のみの看板も、ここ東京ではよく見かける。

「皮肉なもんだろ」

 中国語で書かれた新型携帯の看板を見つめていた春香に神崎が言った。

「日本の土地の多くが外国に買われてる。特に東京は地方よりもそれが顕著だ。だけどな、そのおかげで日本に住む外国人が増え、外国の資本が流入し、日本は世界で一番安全な国だ。誰も自国民がいる国を攻撃しようとは思わないからな」

 赤信号で車が止まる。

「結局、時の政権の思惑なんかまるっきり無視で世界は動いていくのさ。ロボットも戦争も、人間の手の中に収まるものじゃ、もうない」

 信号に青に変わり、車が走り出した。



 春香は到着した場所を見て控えめに告げた。

「あ、あの、私、同僚とそういう関係になるつもりはないというか……、まだ会って早々というか……」

 車は、東京駅のすぐそばの高級ホテルに駐車していた。

「はぁ? お前なに言ってんだ。いいからさっさと降りろ」

 神崎は春香を一瞥して言った。

 車を降りると、神崎は一人でさっさと歩いて行く。春香は彼と一定の距離を保ちながらその後をついて行く。

 ホテルの入り口へ歩いて行く神崎。春香が玄関の上に書かれたホテル名を読むと「HEISEI HOTEL」と書かれていた。平成ホテルの一階には、いくつかレストランやカフェが入っていて、上等な服に身を包んだ人々が食事を楽しんでいる。

 神崎はエントランスの赤い絨毯を堂々と踏みしめ、右奥の方へと進んでいく。電監職員であることを示すものは身につけていないはずだが、なぜかフロントの注目を集めている気がした。高級そうなレストランの脇を通り、奥に進んでいくと、そこには失礼だが少し場違いな店があった。

「ぶ、ブルーバーガーですか?」

 拍子抜けした春香が聞く。

「なんだ不満か?」

「あ、いえ。ただわざわざここに来たので……」

「官庁街はこういう普通の店が少ないんだよ。電監から一番近いのがここだからな。ほら、何食いたい」

 神崎はそう言って、店内入り口に置かれたメニューを春香に渡す。

「あ……えっと、じゃあ私は普通のステーキバーガーで」

 ブルーバーガーは、人工の霜降り肉を使ったハンバーガーショップだ。値段は手頃だが、肉は霜降り肉なので味は抜群。昔は人工肉について偏見があったが、今はそういうこともなく、東京を中心に現在規模を広げているらしい。

「意外か?」

 端末に注文を打ち込みながら神崎が言った。

「えぇまあ。こんな高級ホテルにブルーバーガーなんて」

「結局金持ちも、違いなんて分からないってことさ。安くて上手いならそれが一番いい」

 注文と支払いを終え、発行された座席マーカーを持って奥の四人席に向かいあって座った。

「俺はここが好きで、よく食いに来る」

「はぁ……」

 だからなんだというふうに春香が相槌をうった。

「それに、こういうホテルは客のプライバシーを守る」

 神崎はそう言うと、腕を組んで背もたれに寄りかかった。

「お前、各省庁に文書の開示請求をしたり、うちのデータベース漁ってたんだろ」

 神崎が真剣な口調で聞いた。

「はい」

「でも、手がかりはなんも掴めずと」

「はい……」

 春香はうなだれた。

「俺が前にPMCにいたって話は麻倉から聞いてるんだよな」

「はい。あの、ちょっと聞きたいんですが、麻倉さんと神崎さんって同期なんですか?」

「まあ時期的には少し俺のほうが早いが、麻倉や鳥居は同期だ。前に紹介した九条は、年は一緒だがあいつは俺より入ったのが一、二年遅い。その他、班長や課長は元々電監にいた人間で、こっちに回ってきたって人たちだ」

 電監は元々総合通信局という名前で、それが2034年の組織改革により名前が電脳監理局となった。ただ前身の総合通信局も、もとの名称は電気通信監理局といい、総合通信局時代も電監と呼ばれることが多かったという。

「まあその話はこれくらいにしておいて、俺がPMC時代の最後にしていた仕事は想像がつくよな」

「フロンティア戦争ですよね」

「この際守秘義務がどうとかも言ってられないから、素直にそうだと答えておく」

 神崎は上着の内ポケットから一枚の封筒を取り出すと、それをテーブルに置き、黙って春香に突き出した。

 春香はそれを静かに受け取ると、中から一枚の文書を取り出す。


文応七年九月十二日

防   衛   省


堀越陸士長の調査報告書概要


 文書の頭にはそう書かれていた。文応七年は西暦でいうと2050年。つまりこれは終戦直後の防衛省の報告書ということだ。でもこれは廃棄されているはず……。

「お前が思ったとおりだ。この文書は、今はもうないことになってる。だが政府は、世間に知られたくない文書を破棄したことにして、開示義務を免れてる」

「それって完全に違法ですよね」

「防衛省が何十年も前から使っている手口だ。まあそれはいい。中身を読んでみろ」

 神崎に促され、春香は文書に目を通す。読み進めながら、春香の手が徐々に震えていく。

「これって……、こんなのって……、私の知ってる話と全然違うじゃないですか」

 春香は震え声で言う。

「あぁそうだ。そして俺はそれをこの目で見た」

 神崎ははっきりと答えた。

 文書には、太陽フレアによる兵器の故障はほとんどなかったと書かれてあった。どの国の兵器も、敵の電磁パルスによる攻撃から守るため強力な防護措置を施されていたのだ。

 けれどあの戦争に参加していた国で、太陽フレアによる故障はなかったと言った国は一つもない。

 その理由は文書の後半に書かれていた。

 太陽フレア到達後もしばらく戦闘が続いたが、突如一機の敵軍無人兵器が敵軍人を撃ち殺し始めたというのだ。その異常は一機には留まらず、敵軍の無人兵器が次々と暴走を始め、一瞬のうちにして敵は全滅したとあった。

 だが、文書はここで終わりではなかった。

 無人兵器の暴走は、自衛隊機や有志連合軍の兵器にも発生し、同士討ちが起きたと書かれていた。そうして多くの兵士が死傷し、無人兵器全てが機能停止した、と。

 一台の給仕ロボが、ステーキバーガーセットと和風おろしステーキバーガーセットを春香達の席へと運んできた。じっと文書を見つめる春香の代わりに神崎がお盆を受け取り、テーブルへ置く。

「見たってどういうことですか……」

 春香が顔を上げずに聞く。

「大戦の時、俺は内地でコントローラー握りしめてモニターを見つめてた」

 無人兵器を国内から遠隔操作していたということだろう。

「太陽フレアがあって、一時回線が途切れて、モニターに何も映らなくなった。そして復旧した時、画面に映ったのは大量のロボットと人の死骸だったよ」

「えっ……」

 春香が顔を上げると、神崎の表情には影があった。

「要は、太陽フレアの影響で兵器が故障して戦争が続けられなくなったっていうのは全部嘘ってことだ。だが、どの国の政府もそのことを隠してる」

「自国の兵士を殺したのが自国のロボットなんて知れ渡ったら国内の批判は必至ですもんね」

「問題はそれだけじゃない。なんでこの暴走が起こったかだ」

 神崎が春香の目を見て言った。

「それは太陽フレアの影響……、いや、でもそれはなかったのだから…………、いや、ちょっと待ってこの暴走って……」

何かに気付いた春香の表情を見て神崎がにやりと笑った。

「トゥレラの症状にそっくり……」

 春香は全身の力が抜けたように言った。

「そうだ。そうなるとトゥレラウイルスのウィザード級のハッキングにも納得がいくんじゃないか」

「軍事用に作られたウイルスってことですか……」

「俺はそう考えてる。問題はどの国が作ったかだ。ウイルスの性能は製作者の予想の範囲を越えていた。その結果、戦場の全ての兵器が破壊され、戦争が終わっても社会の脅威となっている」

「そんなの許せない……。日本だけでも一体何千人が被害に遭っているか」

「俺はその犯人を突き止める手がかりを集めてる。だがな、その文書の存在からも分かる通り、政府は信用できない。必ず何かを隠している。下手すりゃトゥレラを作ったのはこの国かもな……」

 神崎は不敵に笑った。春香は何かを確かめるようにもう一度報告書を睨む。

「ほら、食べよう。冷めちまう」

 神崎はステーキハンバーガーセットのお盆を春香の方へ押すと、自分の和風ステーキハンバーガーにかぶり付いた。

「やはり美味い。ほら御木、お前も食え」

 食欲などすっかり失せてしまったのだが、奢ってもらった手前残すのは申し訳なく、春香はハンバーガーの包み紙を開けた。

胡麻の乗ったバンズに、厚さ1センチほどのステーキとレタス、オニオンが挟まれていた。

 それを小さく一口かじる。口の中に肉の脂の甘さと赤身の味が拡がり、それをレタスとオニオンが支えていて、バンズによって食べごたえが増している。久しぶりに食べたせいか妙に美味しく感じる。

「どうだ、うまいだろ」

 神崎がなぜか自慢げにそう言ってくる。

「はい。美味しいです」

 ただのファストフードのはずなのに不思議と特別な味がした。

 春香は肉汁で汚してしまわないように報告書を脇に追いやると、今度は大きく口を開けてかぶりついた。

 目の前のこのハンバーガーを食べることだけに集中したら、嫌なことなど全部忘れてしまえる気がした。

「俺のことはこれで全て教えた。だからこれ以上無駄な詮索をするのはやめろ」

 神崎は食べ終わったハンバーガーの包み紙を丸めながら言った。

 はやっ……。

「やめろって、こんなことを知ってやめるほうが無理な話です」

 春香が食い気味に答える。

「はぁ……やっぱお前はそうなるか」

 神崎は面倒くさそうに頭を掻く。

「あのな、これは一公務員がどうこうできる問題じゃない。それに文書はもう手に入らない。これだってほんとは存在しちゃいけないんだ」

 神崎は声を潜めてそう言い、報告書を封筒へしまうと内ポケットに隠した。

「だけど、どこかにはまだ文書が残ってるんですよね?」

「あぁ。だが、電監のデータベースのトゥレラ関連のアクセスレベルを見ても分かる通り、この隠蔽には電監も絡んでる。下手に動けば真相はより闇に潜っていっちまう」

「じゃあ、こういうことですか。私は新人で足手まといだから何もするなって。そういうことですか?」

 春香は神崎を睨んで言った。

「お前にはこのことを追う動機もない。だからこれ以上首を突っ込むなと言ってるんだ」

「動機ならあります。政府が間違ったことをしているのなら、それを国民は知る権利がある。そして私達にはその権利に応える義務がある」

「それはただの馬鹿正直だ」

 神崎はそう言い放つと、空になったポテトの箱をつぶし、お盆を持って立ち上がった。

「これは俺が始めたことで、お前が無駄な正義感を抱く問題じゃない。いいか、これだけは言っておくぞ。世の中正しいか間違っているかの二択では答えられないことの方が多いんだ」

 神崎は近くを通りかかった給仕ロボットの頭にお盆を乗せた。

「俺は当番でこれからも仕事がある。車は俺が乗っていくぞ。お前はさっさと家に帰れ」

 神崎はそう言い捨てると、店を出ていった。

春香は彼の小さくなっていく背中を見送り、やるせない気持ちを晴らすようにハンバーガーにかぶりついた。

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