第5話 これはもう異常だと思う


 ――それではこれから、どうすればいいか?


 答えは簡単だ。ピアノに代わる楽器を覚えればいい。そして高級ワインを飲む女に

うっとりと聴かせればいい。ただそれだけのことだ。


 そして、いろいろ考えた結果、候補をバイオリンとギターとサックスに絞った。


 バイオリンは、俺がずっと考えているギャップに合致している。

 金髪褐色マッチョが、あんな繊細な楽器を弾くなんて、女にとっては驚き以外何も

ないだろう。うーん、素晴らしい。

 ただ、問題はピアノと同じで難しそうだということだ。ピアノもそうだがバイオリ

ンを弾けるような奴は、小学生の頃から習いに行っている連中だ。また、音楽鑑賞を

して痛感したことだがクラシックは難しい。本当に。


 続いてギター。

 これにはギャップがない。俺が「趣味はギターです」なんて言うと、絶対に女は邪

悪な形をしたエレキギターを思い浮かべるに違いない。金髪褐色マッチョにエレキギ

ターとヘビーメタルは、似合い過ぎて嫌過ぎて当たり前過ぎる。目をギュッと閉じて

口を馬鹿みたいにでっかく開いて自己陶酔丸出しの顔で弾く姿が目に浮かぶというも

のだ。


 しかしギターには良いところもある。

 それは、そこらの中学生でも弾けるということだ。お茶ばっかり飲んでる女子高生

でも弾けるということだ。つまりは、馬鹿でもアホでも誰でも弾ける簡単な楽器なの

だ。そんなちょろい楽器の癖に、中学高校大学とギターをちゃらちゃら弾いてる奴ら

は例外なくモテていた。ちくしょう!


 最後にサックス。

 これもギャップはバイオリンには劣る。だが、甘いジャズバラードとかを吹いてや

れば女は確実にうっとりするだろう。問題は、これも難しそうだということ。よくわ

からないが、楽器の形を見ただけで難しそうだ。それにそもそも俺は、小学校の時か

ら縦笛は恐ろしく苦手だったのだ……。


 結論は出た。ギターだ。


 ショパンの大反省を踏まえるとこれしかない。俺は失敗を反省し、次に活かせる賢

い金髪褐色マッチョだ。とにもかくにも、馬鹿でも弾ける楽器ということを考えると

これしかないのだ。馬鹿ではない俺ならば、簡単に弾けることは間違いないだろう。


 また、ギャップに関してはアコースティックギターで甘いバラードを演奏してやれ

ば良い。そうだ、エリック・クラプトンのチェンジ・ザ・ワールドはどうだ? テレ

ビのCMでも流れていた有名なバラードなので、洋楽に疎い無教養な女も知っている

はずだ。


 ギターに決定! だ!


 そう決めた俺にテレビの画面では、ヨッと手を上げ寅さんが笑っている。これこそ

神の啓示、葛飾柴又から届いた黙示録だ。

 強い自信を取り戻し、新たな目標が出来た俺はテレビを消し、キッチンに行くと二

本目のビールを持ってパソコンルームに向かった。


    ◇


 ウキウキ気分で缶ビールをプシュッと開けた俺は、直ちにギターについて調べてみ

る。そして、びっくりして椅子からコケそうになった。


 高い! 何でこんなに高いんだ?

 こんなものを頭の悪そうな中学生が買うのか? いや、中学生だったら親に買って

貰うのか? いやいや、親が買ってやるにしても高いぞ。こんなものを中学生に買い

与える親ってスーパー馬鹿なのか? 馬鹿なガキの親はやっぱり馬鹿なのか?


 さらに言うと、街の中をギター担いで歩いているタトゥーとピアスだらけで「俺た

ち頭がおかしいでーす」と公言しているような服を着てる、どこに行ってもバイトを

断られること間違いないアホっぽい連中も、こんな馬鹿高いものを買っているのか?

奴らは金持ちなのか? 違うな! きっと盗んだに違いない! 絶対だ!



 ――と、憤慨していたのだが、十分ほど調べると謎は解けた。ギターの値段はピン

キリで、高いものは数百万円だが、安いものは九千八百円から売っている。奴らが買

っているのはこういうゴミのような、ぼろギターであるに違いない。


 それにしても解せないのが、数百万円するオールドと呼ばれるギターで、何十年も

昔の中古品である。こんなものを買う奴は、数学はおろか算数も出来ない馬鹿に違い

ない。そうか! やはりギターとは馬鹿が弾く楽器なのだ! 俺は強く確信した。


 それゆえに賢い俺が選ぶのは、新品の最高級品である。平均的な値段はだいたい四

十万円前後。なーんてお安い値段なんだ! あのスタインウェイの二千三百万円のピ

アノに比べたらゴミのような値段で、天空からギターがハラハラと降り注ぐ光景が浮

かんでくる。

 ああ、最初からギターにしておけばよかった……と、少し後悔はしたが、もう過去

は振り返らないのだ。



 そして素晴らしいギターを見つけた。マーチン000-28EC。ECというのは

エリック・クラプトンのイニシャルで正にエリック・クラプトン愛用のアコースティ

ックギターだ。値段は約三十五万円。迷うことなく購入だ。俺は嬉しくなって缶ビー

ルを一気に飲み干すと、三本目を取りに行った。



 さあ、予習でもしよう。

 勉強熱心な俺は、動画サイトでエリック・クラプトンのライブ動画を観ながらグビ

グビとビールを飲む。ああ、ビールが美味い。ジャズやクラシックにビールは似合わ

ないが、ロックにはビールが合う。


 ん? 俺は重大なことに気がついた。


 女に「趣味はギター」と言って部屋に呼んだ時、ギターが一本だけでいいのか?

少なくともギターを趣味にしている男なら、何本か持っておくべきじゃないのか?

それが普通じゃないのか?


 いや、弾けるようになってから追加で買う――そんな考えが、ほんの少し頭をよぎ

ったが、こんな馬鹿でも弾けるアホ楽器に尻込みする必要はない。どうせ買うのだ。

しかもピアノに比べたらゴミみたいな値段だ。

 善は急げ、思い立ったが吉日と言うではないか。俺はギターをあと二本買うことに

した。


 そして賢い俺はエレキギターを買うのが良いと考えた。ギターが趣味の男なのにア

コースティックギターだけでは、おかしいではないかと思ったからだ。そこからは、

まったく迷いはない。


 最初に選んだのは、ギブソンのレスポール・カスタム。これはちょっと高くて約五

十五万円。まあいい。ゴミのような値段に変わりはない。

 続いて、フェンダーのストラトキャスター。約三十万円。うむゴミ価格だ。


 どうしてこの二本にしたのかと言うと、レスポールとストラトキャスターは世界を

代表する二大エレキギターなのだ。

 ほんのちょっとギターのことを調べただけで、俺はすっかりギター博士だ。頭の悪

い中学生とはわけが違う。さらに言うと、色はどちらも黒を選んでやった。ピアノも

黒、ギターも黒で渋くカラーコディネートされた音楽空間が出来るのだ。これには女

もうっとりするに違いない。俺は頭が良いだけではなくセンスもいいのだ。


 そう。俺は馬鹿なタトゥーをしてるような奴らとは違う。

 俺は賢くてセンスが良くてジャズやクラシックを聴き純文学やフランス映画に造詣

の深いセックスマシーンな金髪褐色マッチョなのである。まいったか!



 四本目のビールを持ってきて予習の続きをしていたら、またまた盲点に気づいてし

まった……。


 いや、盲点に気づくというのは良いことだ。世の中には気づかない馬鹿が多い。最

低なのが、ゲームの発売後に糞のようなバグを出すゲーム会社だ。どうしてこんなも

んに気づかないんだ? と、暴れたくなったことは過去に数知れない。その点におい

ても、この段階で盲点に気づく俺は偉い。自分で自分を褒めたいとはこのことだ。


 で、盲点というのはアンプである。


 エレキギター博士の俺が教えてやろう。エレキギターはアンプというものに繋がな

いと音が出ない。そういう仕組みなのだ。そんな難しいことを知っている女がいると

は思えないが、万が一ということはある。エレキギターがあってアンプがないことを

不審に思われては、どんなに華麗で上手なアコースティックギターを弾いて聴かせよ

うと、ワンダフルな夜は訪れないかもしれない。


 そんなわけで、俺は即座にアンプを買うことを決意したのだが、どんなアンプを買

えばいいのだろう? 俺はギター博士としてはノーベル賞クラスになったが、アンプ

博士としてはモンドセレクション金賞程度だ。


「うーん……」と腕を組み、うなり悩みながらパソコン画面を見る。


 閃いた! そうなのだ。考える必要はないのだ。このライブ映像に映っているよう

な馬鹿でかいアンプを買えばいい。どうせ女に弾いて聴かせるのはアコースティック

ギター。アンプは部屋の飾りに過ぎない。ならば、プロがステージで使うような、こ

の馬鹿でかいアンプが最高じゃないか!


 それから俺はでっかいアンプを調べ、マーシャルの三段積みアンプを購入した。


 個々の値段は、アンプ部とスピーカー部が別なので書くのが面倒だ。総額で約七十

五万円。まあ、これもゴミに毛が生えたような値段である。このアンプも黒なので、

部屋のコーディネートはますます完璧になった。


 俺は五本目のビールを持ってきて、輝かしい俺の未来に向けて祝杯をあげた。


    ◇


 ――ギターが届いてから一ヶ月。


真面目な金髪褐色マッチョの俺は、毎日熱心に練習をしている。予想通りピアノより

は遥かに簡単だ。同じように両手を使う楽器とはいえ、ギターの右手はピックという

プラスチックの安っぽい板を使って、ポロンポロンジャカジャカするだけだからだ。

ドレミファソラシドもすぐ覚えた。そしてコードという面倒な押さえ方をするものも

少しずつ覚えていった。


 ……が! F! Fとかいう糞コード!

 どうしてキサマを押さえることが出来ないのだ?

 必死に頑張って押さえても、ちっとも音が鳴らないじゃないか! 


 俺はギターを置いてジャック・ダニエルを飲む。

 ギターが届いてから俺の酒はジャックとテキーラが主体だ。ジャックはテネシー州

の酒。テネシーの首都はメンフィス。メンフィスと言えば、カントリーミュージック

やブルースの聖地。ギターを練習しながら飲むには、ぴったりの酒なのだ。


 テキーラはメキシコの酒で、メキシコと言えばソンブレロにギターのおっさん。ま

あ、これもギター繋がりなわけだが、テキーラをグイグイ飲めるようになったという

ことは、いかなる場所に女と酒を飲みに行っても、まったく大丈夫な俺に進化したわ

けで、これはこれで目標を達成したというわけだ。


 さて、これからどうしよう? 安部公房でも読もうか?

 俺は二杯目のジャックを飲みながら考える。



 ぐわあああああああああ!


 冷静に酒の解説してる場合じゃねえんだよ! 文学に逃げてどうすんだよ!

 糞なFコード! もう何日もここで行き詰まってんだぞ! そもそも馬鹿中学生が

ちゃらちゃら弾いてる楽器がなんで俺に弾けねえんだよ!

 頭が悪いでーすって看板ぶら下げて街を歩いてるような連中が弾いてる楽器が何故

俺に弾けねえんだよ!


 ファック! 馬鹿でも弾ける楽器が弾けない俺はもっと馬鹿なのか?

 糞! 糞! 糞ファック! うわああああああああああああ!


 ……気がつくと俺はテキーラを瓶から直接ガブ飲みしていた。

 うぇえ! 糞! うぇえええええええええ! 


 ――ぐらぐらぐらぐらゆらゆらゆらゆら。


 部屋が揺れる……地震か?


 マーシャル三段積みアンプとグランドピアノとレスポールとストラトとマーチンと

筋トレマシンと日焼けマシンとセルフホワイトニングマシンが並ぶハイセンスな俺の

リビングルームがぐらぐらと揺れている……!


 さらに頭がガンガン痛くなって来る……こんな時になんで頭痛が! せめて地震よ

収まってくれ……ああ、揺れどころかグニャグニャと曲がり始めやがった……。

 曲がる地震って何だよ? 日本は沈没してしまうのか……?



 ぷしゃ――! ぷしゃ――――! ぶっしゃあああああああ!



 ……これは何かのデジャヴ?


 俺はリビングにシャワーのようなゲロを盛大に吐くと、ダイブするように、そのゲ

ロの中にぶっ倒れてしまった……。ああ……デジャブじゃないんだな。前にこんなこ

とがあった時は、そばにアミとアキが居たような気がする……うぇええ。


 そんなことを思いながら俺は、すえた匂いとアルコール臭で満たされた海を、必死

の形相でクロールしたり平泳ぎしたりバタフライしながら、とうとう溺れて意識を失

った……。



 ――チュンチュン、チュンチュン。


 窓の外のスズメの声で俺は目が覚めた。柔らかな朝陽が、カーテンの隙間からちょ

うど俺を包むように優しく差し込んでいる。

 ああ、死ななかったんだな……良かった。そう思った俺は、乾いたゲロが貼り付い

た顔を少し拭い、のろのろと立ち上がりカーテンを全開にした。


 爽やかな朝だ。

 生きてるって素晴らしいなあ、ただそれだけで素晴らしいなあ。何も考えることな

く、あのスズメたちのように大空を自由に飛んで暮らしたい。そして、あの白い雲を

突き抜け、宇宙の星から青い地球を見られたら素敵だろうなあ。

 でも、その前に俺……臭いな。俺はバスルームに向かうことにした。


 シャワーを浴びて出て来ると、洗面所の鏡に俺の体が映る。俺はなんとなく、いく

つかのポーズを決めてみる。ふむ、マッチョだ。ふむ、褐色だ。だけど俺の顔は酷く

疲れ果てている……。どうしてこんなに疲れているんだろう? 働いてもいないし、

部屋からもずっと出ていないのにどうして……?


 そう思うと涙が溢れそうになった……。

 鏡に映る自分の泣き顔なんて見たくない……。

 ゲロの海になっているリビングも見たくない……。


 俺は速足でベッドルームへ向かうと、暗い部屋でぼんやりと俺の帰りを待っていた

アミとアキを抱きしめた。


 そして泣いた。たくさん。たくさん……。

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