第4話 やや異常かもしれない
――そして一ヶ月後。
二千三百万円のグランドピアノの
人間には向き不向きというものがあると常々思っていた。不向きなことを親のエゴ
でやらされる子供は可哀想だ。俺は俺を可哀想な子供にしたくない。ダメなものはダ
メなのだと、すっぱり諦めることは人生においてとても大切なことだ。俺は正しい。
などと考えつつ朝っぱらからウオッカを三杯飲み、マイルス・デイヴィスを流して
いると今までのことが強烈にフラッシュバックして来た……。
トーヨー自動車の
あれ? 何かおかしいな? 俺は四杯目のウォッカを一気に飲み干す。
預金残高はそろそろ八千万円を割ろうとしている。
おかしいな? どうしてこうなったんだ?
いや、大丈夫。八千万円の貯金を持ってる男ならまだまだイケる。
などと、へべれけでぐわんぐわんの頭で考える。
マイルスのトランペットが、つん
そうだ……。
安定した老後を、より確実にする為に株を買ったのだ。なのにどうしてこうなって
いるんだ? 安定した老後どころか、七十歳まで暮らせるかどうかわからない預金額
になってるんだぞ……。
おかしいな? おかしいなったらおかしいな? 何でだろ~?
俺は五杯目のウォッカを、またまた一気に飲んだ。
いかん! 考えちゃダメだ。過去を振り返って泣いてもしょうがない。ポジティブ
に前向きに! ああ、どうしてこんなことに……。ダメだダメだ。考えるな俺!
筋トレだ! 筋トレ! 俺はBGMをマイルス・デイヴィスからモーツァルトのト
ルコ行進曲のループに変えて筋トレを始めた。腹筋、スクワット、ダンベル、エアロ
バイクのサーキットトレーニングだ!
♪ぴろりろりん ぱんぽろりん ぴろぴろぱんぽろぴろりろりん♪
♪ぴんぽん ぱらぴぽぴろぴろ ぱんぽ~ろりん♪
◇
うえ……うええええ! ぐわわわわわわわ!
激しい
烈過ぎる吐き気に襲われた! 俺は慌ててトイレに向かったが、この悪夢のような恐
ろしい吐き気は、抑えようとして抑えられるものではなかった!
ぷしゃ――! ぷしゃ――――! ぶっしゃあああああああ!
ゲロを吐くという生やさしいものではない。口から鮮やかな放物線を描いて、ウォ
ッカと胃液がブレンドされたキラキラの透明な液体を大量に噴射した。その距離およ
そニメートル。まさに噴射だ。怒り狂ったゴジラが放射能を吐くように、口からゲロ
をもの凄い勢いで噴射してしまったのだ。
頭がガンガンくらくらグルグルうねり、モーツァルトがピアノをアホみたいに連打
する。酷い貧血で全身の力が重力に勝てなくなり、額からは毒の沼がボコボコと
ような粘っこい
……這うようにベッドルームに向かうと、やっとの思いでベッドにずしんと身を投
げた。しかし、横になっても何も改善されない。相変わらず頭はガンガン痛いし、汗はダラダラと噴き出る。その上、横隔膜がびっくんびっくんと激しく震え始め、呼吸をするのも苦しくなり、急激に脳から酸素が薄れてゆくのがわかる……。
もうダメだ。ああ、俺は死んでしまうのかなあ……。
それは嫌だ! 死ぬのは嫌だ! 俺が死んだら八千万の金と、このマンションはど
うなるんだ? 親戚のいけすかない叔父や叔母が持ってゆくのか? 冗談じゃない!
両親が残してくれた金とマンション。俺が必死に働いて貯めた金を、あんな奴らにタ
ダでくれてやるなんてふざけた話だ!
そう、俺はこんなことで死んではいけない。俺は必死の思いでパソコンを置いてあ
る部屋に這って行き、スマホを手に取った。あたりまえだが救急車を呼ぶのだ。選択
肢はそれしかない。
と、その時……俺は重大なことに気がついてしまった!
アミとアキのことだ。救急隊員にあんなものを見られるわけにはいかない……!
あれを見られたら恥ずかさのあまり死んでしまう。
「ぷぷっ! こいつ、金髪褐色マッチョのくせにラブドールかよ」と、陰で嘲笑されてしまうことを考えると死んでも死にきれない……!
いや、でも救急車を呼ばないと死んでしまう……! どうすればいいんだ?
ああ、ああ、ああ……。
……結局俺は救急車は呼ばず、スマホを持ってベッドルームに戻り再びベッドに横
になった。相変わらず貧血状態は酷く呼吸も苦しい。
とにかくこうして少し考えよう……。考えているうちに、もしかしたら具合が良く
なるかもしれないじゃないか。でも、考えてるうちに死んだらどうする? 俺は誰に
も発見されず孤独死し、腐った死体……あるいは白骨となったところを発見されるの
か……?
グランドピアノと筋トレマシン、セルフホワイトニングマシンが並べられた意味不
明なリビング。そしてラブドール二体が、可愛らしく座っているベッドルームがある
変態マンションで、謎の死を遂げた男になるのか? 宅配便のドライバー共は「金髪
褐色マッチョの変な人でした」とか証言するのか?
え? 変な人? 違うだろそれは! ちくしょう! 馬鹿宅配便! 俺は恋人の為
に日々努力と
うげぇぇぇ……考えてるうちに意識が遠くなる……このままではやばい! たとえ
恥でも救急車を呼ぼう……。ああ、そうだ! ケツの穴で異物挿入オナニーをしてい
て、取れなくなったあげく救急車を呼んだ男の話なんてネット中にごろごろ転がって
いるじゃないか……? ラブドール程度で恥なんて思ってはいけない。
死んだら死ぬ! 俺はスマホを手に取った……ところで意識を失ってしまった。
◇
――目が覚めたら夕方だった。
頭は相変わらずガンガンと痛いが、貧血はかなり治まったし呼吸も大丈夫だ。気合
を入れて起き上がった俺は、ふらつく足でキッチンへ行くと、2リットルのペットボ
トルから水をガブガブと一気に飲む。なんとかかんとか生き延びたし、少し落ち着い
て来た。
ふう、冷静に考えよう。俺は水を冷蔵庫に戻すと、代わりに缶ビールを持ってテレ
ビを置いてある部屋、シアタールームに向かった。
俺はテレビの前のソファに身を沈めると、音声をオフにしたままフランス映画では
なく寅さんの映画を流し、ビールを飲みながら考える。こんな状況になった直接的な
原因はウォッカだ。しかし、あれだけウォッカを痛飲し、ましてやその状態でアホみ
たいにハードな筋トレをしてしまった原因は他にある。
そう。それは俺の心の問題で、引き金はピアノを一ヶ月やってもまったく上達しな
かったこと。そこから心が悪い方向に向かったのだ。うむ。なんて冷静に自己分析出
来ているんだろう。まずはとにかく、俺は俺の自信を取り戻さなければならない。
重要なことは、ピアノが弾けないというだけのことだ。それ以外の俺は完璧ではな
いだろうか?
爽やかな白い歯で笑う金髪褐色マッチョで、AV男優顔負けの腰使いをするセック
スマシーンなスーパーテクニシャン。太宰治は完全読破したし、もうすぐ芥川龍之介
も読破する。そしてフランス映画もたくさん知っているし、ジャズもクラシックもた
くさん聴いている。預金残高は八千万円。マンションも所有している。
完璧じゃないか! どこにこんな金髪褐色マッチョがいる? 漫画ばかり読み、頭
の悪いハリウッド映画に興奮し、ロックやJ-POPを聴いている他の馬鹿な金髪褐
色マッチョとは圧倒的に違うじゃないか?
そして俺は、肘から右手をぐっと曲げる。どうだ? この上腕二頭筋! 左手も曲
げる。素晴らしい筋肉だ! 大胸筋もピクピク動かし、腹筋も動かす! 鍛え上げた
褐色のマッチョなボディーに、真夏の太陽のような全てを燃やす熱いエネルギーがみ
なぎる!
ああ、失いかけた自信がどんどん戻って来る!
問題はただただピアノだったのだ! それだけだ! 俺はパーフェクトなのだ!
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