第1話

 夏らしい、蝉の声がうるさい、カンカン照りの空の下。

 白いワンピースに浅葱色のカーディガンを羽織った女性がクルリと舞った。

 周りに人がいないことをいいことに、クルンクルンとバレエのピケターンのように回りながら焼肉の鉄板を思わせるコンクリートの上を軽快に進む。

 さながら、このコンクリート大国は、大きな焼肉の鉄板だろう。その上で焼かれる人間。少し考えたらグロテスクだが、的を射ているたとえだろう。

 歩いていた道の視界が、前だけでなく左右にも開ける。小さな交差点。右に曲がれば図書館と市役所、小学校と中学校。左に曲がれば駅と海岸と公園。あと夏場だけ営業するカキ氷屋。あそこの宇治抹茶金時が最高においしい。まっすぐ行けば商店街とこの町唯一の高校。


 どこに向かおうか。

 三つの道を見比べる。

 「どーれーにーしーよーうーかーな、てーんーのーかーみーさーまーのいーうーとーり」

 真っ白な、日焼けを知らなそうな細い指が差したのは書面の道。今日のラッキー道路はこっちのようだ。

 神様が言うのだ。確かだろう。

 また、軽やかな足取りで道を進む。

 今、『あと一か月で地球が滅びる』この状況で、こんなにも楽しそうに炎天下のコンクリート上を歩く奴はそうそういないだろう。暑さで頭がやられてる奴か、もともと頭が狂ってる奴くらいだろう。

 私はどちらに当てはまるのかな。

 道なりに歩いていけば、だんだんと商店街のアーチが近くなってきた。

 この町の中心。食べ物も、服も日用品も、ここでだいたいの物が揃う。天井は半透明な屋根で遮られており、少しは涼しく、中に連なる店の中には、おいしい冷茶が自由に飲めるように置いている店もある。

 私もこここの常連だった。八百屋のおじさんにはよくおまけの野菜をもらった。そこの肉屋のおばちゃんも、コロッケをおまけしてくれた。魚屋のおっちゃんは、漁に出たときの武勇伝を聞かせてくれた。

 『地球滅亡発表』から一週間。世界各地に変化が起こっていた。

 テロが今までの比でない程起こり、たくさんの人が死んだ。

 警察の約六割が自主退職。

 財閥の金持ち共は財産をつぎ込んで宇宙船を作ろうとしている。

 人間は、生にしがみつく生き物であった。

 アーケードが見えてくる。目立つ造りではないが、この町の中心であったところ。中はもう、ほとんどシャッターが降ろされている。まるで炭酸の抜けたサイダーのようだ。

 一歩中に入れば、先ほどよりも涼しく感じる。四角い石畳が敷き詰められた通りを、のんびりと歩いていく。ほんの一週間前まで、人が行きかっていた商店街。今は誰一人歩いておらず、静けさが充満している。

 一週間でこんなにも状況は変わってしまった。

 悲しいのか、虚しいのか、よくわからないが、どこか心にぽっかりと穴が空いたような感覚だった。

 「おぉ、センセイ。今日もお散歩かい?」

 この商店街で唯一、まだ営業している店。

 和泉書店。

 声の主は私のことを「センセイ」と呼ぶこの店の店主、水打ち用の桶と、柄杓を手に店先に出てくるところだった。

 もう七五歳を超える彼は、地球滅亡発表の後も変わらず毎日朝の十時から夕方七時まで店を開けている。

 ここだけが、時間が『生きている』。

 「いつものお散歩です。今日も暑いですね」

 「毎年のことだけど、暑さは老体に響くよ。」

ゆったりとした、いつまでも変わらない笑みを浮かべ、水をまいた。透明な水が、光に反射してキラキラト散った。

 「今日もカレは元気かい?最近ここらに来てないみたいだけど」

 「あぁ、元気ですよ。最近は暑くてバテてるみたいですけど」

 話題は今頃家のクーラーの効いた部屋で昼寝でもしているだろうカレの話。カレは私が知らない間にここらでも有名になっていた。

 「カレも暑いのは苦手だろうからねぇ」

 「今頃、エアコンの効いた部屋でのんきにお昼寝してると思いますよ」

そんな話をしているうちに、水をうち終わり、和泉さんは中でお茶でもどうだ。 誘ってくれる。うだるほどの暑い道を歩いてきた私には最高のお誘いだ。

 「じゃあお言葉に甘えて。これ、奥までもっていきますね」

 水の入っていた桶を代わりに持って、後について店内へ進む。同時にクーラーの冷気と本の匂いに包まれる。私の家でも似たような香りがするが、似ているだけで、少し違う。ここは、もっとこう、年季の入った、落ち着く香り。

 肺いっぱいに香りを吸い込み、奥へと進む。小さなカウンター、その奥の扉は家になっているのだろう。

 和泉さんは私用に椅子を出してくれて、それに座って、ぐるりと所狭しと本が並んでいる店内を見渡す。

 「麦茶と、センセイ、チョコレート好きって言っとったな」

 透明なコップに注がれた麦茶の中で、氷が揺れている。受け取れば、手の中にじんと冷たさが広がる。歩いて火照った体には心地よくて、両手を冷やすようにコップを持った。

 「好きです。知ってたんですね」

 「そりゃあ、あれだけキクヤでチョコレートを買ってればわかるさ」

 キクヤは駄菓子屋。商店街を三分の一程進んだところにある、小柄なおばあちゃんがやっている店だ。ここに越してきてから、私のおやつはもっぱらキクヤで買っていた。

 「和泉さんは、お店を閉めないんですか」

 麦茶を一口飲み、喉を冷たさが駆け抜けるのを感じた後、顔を上げて和泉さんへ質問を投げかけた。

 純粋に気になった。もうこの商店街を歩く人はほとんどいないのに、なぜ、毎日決まった時間に、休まず店を開け続けるのか。

 「そうだのぉ、ここは、かみさんとわしの思い出だから、かな」

 まるで私からこの質問が来るのがわかっていたかのように和泉さんは言葉を紡いだ。その瞳は、店内にゆっくりと視線を移した。

 「ありきたりな話だよ。かみさんもわしも、本が好きだった。だからいつか、本屋をやろうと、夫婦になってからずーっと言ってた。それがようやく、ようやく叶ったのが十五年前、退職して、貯金と退職金でこの店を建てたんだ。念願の、本屋を建てて、わしたちは幸せだった。といっても、かみさんとこの店をやれたのはほんの三年だったがな」

 私がここに越してきたのは五年前。そのころからこの店は和泉さんだけだった。奥さんは病気で亡くなったんだと、人づてに聞いた。

 「ほんの三年だったがな、ここでかみさんと過ごした三年はわしの人生で一番幸せな時間だった。ここで店番をして、かみさんと本たちに囲まれて過ごして、そんなこの店を、かみさんとの思い出の場所を、地球が終わるから閉めようとは思わんのだ」

語り終わった和泉さんは麦茶をごくりと飲み、ふぅっと息をついた。

ありきたりなんかじゃない

それは和泉さんと奥さんだけの思い出。同じ人生を歩む人なんていない。二人のかけがえのないもの。

 「じゃあ、今度はわしが質問だ。センセイは、なんでこの町に居続ける?他の人たちはほとんど出てっちまったのに、この町に居続ける理由はなんなんだ?」

 和泉さんはコップを置いて、じっと私を見つめた。氷が溶けて、カロンと涼しい音が響いた。

 私がこの町にいる理由……


「私がなんでこの町にいるのかはーーー」


 和泉さんは、私の答えを聞いて、優しく、まるで揺り椅子で浴びる柔らかい夕陽のように微笑んだ。

「センセイは見つけたんじゃな、この町で」

 そう言って、シワの多い手で私の手を握った。

 私の手を握る力は弱くて、でも私の何倍も何倍も生きた、たくさんの思い出の詰まった手だった。

 「わしはな、もう先が長くないんだ。肝臓がな、やられてるんだと。地球が終わらなくても、三か月後にはかみさんのところに行くはずだったんだ」

 それを聞いた瞬間、私は心の底から安堵した。地球が終わることに、心の底から感謝した。

 もしなにもないまま三か月が過ぎていたら、大切な人に置いていかれていた。

 悲しみの波に溺れることになっていた。

 「私、この町に住んでて、よかった、です……」

目の奥が熱くて、でも和泉さんの前で泣きたくなくて、涙をこらえてとぎれとぎれになりながらそう呟いた。

この町に越して来て、この町で生活して、この町の人と会話をして、私はたくさんのものをもらった。

 この町で「カレ」に出会えた。

 この町で新しい本に出合えた。

 この町で和泉さんに出会えた。

 この町で、たくさんのものに出会って、たくさんのものを貰った。

 「わしも、センセイがこの町に来てくれてよかった」

そう言って笑った和泉さんは、チョコレートと、一冊の本をくれた。

和泉さんと奥さんが好きだった本。

 「わしらの大切な本を、センセイにも読んでもらいたいんだ」

 受け取った本は、文庫本で、片手に収まるサイズなのに、とても、とても重かった。

 和泉さんと奥さんの思い出が、和泉さんの私への思いが、たくさんの気持ちが、この一冊に詰まっていた。

 私は、その本と、もらったチョコレートを口に入れて、来た道を戻った。

 うるさいくらいの蝉の声と、口の中で溶けるチョコレート。手の中にある小説。

 全部私には特別だった。

 蝉の声は大合唱。

 今まで食べたどのチョコレートよりも美味しい一口チョコ。

思い出の詰まった本。

 ぜんぶ、今日がなければ得られなかったもの。

 「うーえーをむーいてあーるこーおーなーみだがーこーぼれーなーいよーおに」

 調子はずれな歌を歌いながら、スキップして、熱い、熱い、アスファルトの上を舞う。


『地球が終わるまで、あと二十三日』

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世界のオワリ、私とネコ。 神凪 劉 @Kaminagi_1205

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