6/6 襲玉

「──襲玉しゅうぎょく!」

 声が聞こえたと思った。

 狼とのよくわからないやりとりを中断し、辺りに広げていた水に神経を配る。

 水の分子一つ一つの間にあった、雷玉の気が消えている。

「──嘘だ」

 呆然と呟く。

「嘘だ嘘だ嘘だ」

 雷玉らいぎょくを止められなかった時点でこうなることは予測できていた。それでも、彼女がまた封じられてしまったという直感を否定するために、必死になって雷玉の姿を探す。

 しかし、少年の目に映ったのは銀色の何かを懐にしまう白い画師と、その向こうにある誰もいない空間だけだった。

 自分を後ろから眺めているはずの狼は、何も反応を示さない。ただ、幾分神経質な動きで尻尾を振っている。

 襲玉は頭を抱えた。

「嘘だ。嘘だ嘘だ……何で。そんなの判ってたよ、雷玉には別に策があった訳じゃないんだ、ただあんな性格だから、逃げを打つなんてできなかったんだ」

 襲玉は俯いた。食いしばられた歯がぎりりと鈍い音を立てる。

 気のない様子でそれを見やった怜乱は、わなわなと震える少年に近付いていく。そのまま手を伸ばせば触れられるところまで歩み寄り、足を止めた。

「それで。相棒は封じてしまったけれど、どうするの?」

 怜乱の言葉が聞こえるや否や、襲玉はばね仕掛けの人形のように顔を上げた。

 池水色の瞳には、憎悪の炎が燃えている。

 低く、唸るような声を上げながら、襲玉は怜乱のことを睨んだ。

「………………雷玉を返せ」

「返せといわれても返せるわけがないね。彼女は封じられたんだ、君が彼女を取り戻す術はない」

 少年の憎悪を、怜乱は平然と受け流す。

「──もっとも、君がおとなしく封じられると言うなら、無理して引き離そうとは思わないけれど」

 人形のように平静に。容赦なく切って捨てるような口調で、画師は少年を傲然ごうぜんと見下ろしていた。

 襲玉は吐き捨てるように呻く。

「──は、誰が。そんなの、雷玉が望むわけない。画師だかなんだか知らないけれど、僕らは二人でいられればそれでよかったのに。

 前だってそうだ。山奥で遊んでた僕らの前にやってきて、強引に封じたのはそっちじゃないか。せっかく逃げ出したのに。それなのに、どうして僕らの邪魔をするんだ!」

「本気で聞いてるの?」

「当然じゃないか……!」

 襲玉は怒りで目の前が白くなるのを感じていた。

 あちらは人間で、こちらは妖。生き方や常識はおろか、存在の基盤からしてそもそも違う。そんな相手に何を言おうと、望む答えの返る筈もない。

 答えを望んでいながらも、その答えは知っている。


 けれど、無理ならせめて足掻いておかないと。

 いつか再会したときに、雷玉かのじょに顔向けができないじゃないか。


 後頭部でくくられていた襲玉の髪はいつの間にか解けていた。風もないのに舞い上がり、なびく水草のようにゆらりゆらりとうごめき出す。

 おっとりした表情を浮かべていた瞳は、今は怒りに爛々らんらんと輝いていた。

 ぎしぎしと音を立てて、空気に水の気が集まっていく。

 最初はじっとりとした霧のように、そしておぼれるものを抱き込む沼のように、水気はたちまちのうちに辺りを青く染め上げていく。それは周りにあるのが空気であることを忘れてしまいそうなほどに強烈なものだった。

 空気を糧に生きるものなら溺死しそうな密度で、水気が集まっている。

「……雷玉を返せ!」

 極まった怒りに一声叫び、襲玉は大量の水をびながら怜乱に掴みかかった。

 怒りに肩を震わせた少年を易々とかわし、怜乱は襲玉と位置を入れ替える。

 たたらを踏む少年を後目しりめに、黙ってことの成り行きを見守っていた狼の元に走り寄り、何事か囁きかけた。


 直後、山鳴りに似た音を響かせて空から押し寄せる津波。

 大地がびしりと音を立てて形を変える轟音ごうおん


             *  *  *


 襲玉は純粋に怒っていた。

 雷玉を封じてしまった画師に対するものでも、彼女のことを守れなかった自分に対するものでもなく、ただ彼女とまた分かたれてしまったという事実に怒っていた。


 彼女と出会ったときのことを思い出す。


 深山の沼で時間の概念もなく呆と過ごしていたいつか、空から降ってきたのが彼女だった。

 耳をつんざくような雷鳴よりも、下敷きになった自分に気付かず腹の上で地団駄を踏まれた痛みよりも、彼女の怒鳴り声の方が印象に残っている。

「畜生、落とされた! 誰が帰ってなんてやるもんか! ……あれ? おい、そこの! 何そんなところでぼうっとしてるんだ? そんなに暇なら私につき合え!」

 そんな滅茶苦茶なことを言われて、首根っこを引っ掴まれた。それが妙に嬉しかったのを覚えている。

 落とされた、と言っていたことについては聞かなかった。別に知らなくても良いことだと思ったし、なんだか彼女が傷ついているように見えたから。

 勢いのある雷玉に引っ張り回されるのは楽しかった。なんにでも興味を示し、しかしそれを指摘されると怒り、どこまでも自分の感情のままに突き進んでいく。荒ぶる雷気の精そのものの言動は、ぼんやりしすぎている襲玉にはとても好ましく映った。

 時に暴走する彼女を宥め、何かと世話を焼いてやるのが楽しかった。余計なことをするな、といつも怒られはしたけれど、それに多少の照れと強がりが入っているのを知っているから、襲玉はそれすら楽しんでいた。

 ──だから。

 画師に向かっていった彼女と、それを止めようとした自分とが分断わかたれて封じられた事実。それだけが悲しくて抵抗した。

 一緒に封じてくれさえすれば、僕は封印を解こうなんて思わなかったのに。

 夢の中でまで足掻き続けて目を覚まし、何とか封印を解いて、十年彼女のことを捜し続けた。そして見つけてから七年、雨を降らせ、雪を雨に変えて封印を解いた。

 目を覚ました雷玉は、何でもっと早く迎えにこなかったんだと烈火のごとくまくし立てたけれど、口調とは裏腹に嬉しそうな顔をしてくれたのが、とても嬉しかった。

 たった三年で、その幸せが破壊されるなんて。そんなこと許せない。

 何としてでも雷玉のことを取り返さないと。


 襲玉は濁った水の底に立ちながら、どうしたものかと考える。

 先ほどの攻撃で、画師の息の根を止められたとは思わなかった。

 雷玉の雷を防ぎきる相手が、ただ物量に頼っただけの水で致命傷を負うわけがない。ただ、これで少しくらい戦意喪失してくれればいいのに、と思う。

 しかし、

(──ろう。何とか上手く行きましたね、感謝します)

 彼の思いとは裏腹に、泥水を通して画師と狼の声が伝わってくる。

(これくらいどうってことねえよ。それにしても、えらく地形が変わっちまったな。後で修復するのが大変そうだ)

(修復するのですか。これはこれで結構な奇景で良いと思うのですが)

(馬鹿、いつ決壊するかもしれんこんな危うげなものを、いつまでも置いておけるか)

(……残念です)

 声は、時には近く、時には遠く、位置の全く読めない妙な聞こえ方をしていた。

 画師と狼の会話は、もう既に戦いは終わってしまったとでも言いたげな長閑のんびりとしたものだ。

 最大級の力を使ってしまったことに加え、自分が全く相手にされていないらしいことを感じ取って、躰の奥底から疲労感──いや、徒労感か、がこみ上げてくる。

 幾分冷静になった頭で、やっぱり、と襲玉は嘆息した。

 これで手詰まりだ。

 自分には霧を招くことと水を喚ぶこと、そして雪を雨に変えることしかできない。水妖としてはあまりに弱い。

 このまま抵抗したところで、一方的な消耗戦になることは目に見えている。疲労困憊したところを有無もなく封じられてしまうよりは、おとなしく従った方がいいかも知れない。

 ──幸い、画師の連れらしい狼は少しは話せそうだったし。

 腹を括って、襲玉は水面に浮かび上がった。


 ところで、何で僕がんだ水はこんな深度を保っているんだ?


             *  *  *


 それはなかなかの奇景だった。

 山の中腹に突如としてそびえ立つ、急斜面の台地。

 高さおおよそ二十丈、直径はたっぷり一町あるだろう。一見すれば巨大な切り株にも見えるそれは、濁った水を満々とたたえた器だった。

 水面に足を置き、襲玉は首を巡らせた。

 広大な水面はまるで盆のように足下に広がっている。わずかに黒い線になって見えるのが、今この水盆を支えているつつみの縁だ。

 かなりの量の水をんだはずなのに、それは計ったかのようにぴったりと器の中に納まっている。風にひたひたと波打った水面の飛沫は、すんでの所であふれることなくまたもとの水に戻っていく。

 ──読まれていた。

 怒りに我を忘れ、見境なく全力を出したというのに、それを測られていた。

 こうも実力の差を見せられると、もうどうにでもなれという気分になっていくる。

 一つ溜息をついて、襲玉は水に指示を出す。

 足が滑り出した先には画師がいる。


             *  *  *

 

「拍子抜けだなぁ」

 子供二人が仲良く眠っている姿が描かれた銀の紙を仕舞いながら、怜乱はひとりごちた。

「怜乱よ。お前さん、普通の喋り方もできるじゃないか」

 これで一段落、という風に胸元を叩く怜乱に、狼はすかさず声を掛ける。

「いえ、まあ。一応は」

 言葉を濁す怜乱は、どことなくばつが悪そうに目を逸らした。

 どうやら失言を恥じているようなその仕草に思わず吹き出して、狼はにやりと笑って怜乱の背中を軽く叩いた。

「今度からそっちで行ってくれよ。かしこまった言い方よりその方がよっぽどいい」

「……判りまし……いや、判ったよ。ただし、もう元には戻さないから、そのつもりでいてよね」

 渋々といった顔で少年は頷いた。

 気分を切り替えるように一つ頭を振ると、背筋を伸ばしたんたんと手を叩く。

「さて、それでは後片付けと行きますか」

「実は全然聞いてないだろうお前は……」

「独り言くらいどっちでもいいでしょ」

 軽く足踏みして地面に指示を出しながら、狼は満足げに尻尾を振り回した。


 ちらり、空から白いものが舞い落ちてくる。

 それは何年ぶりかにこの地域に降る、雪の結晶だった。

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