5/6 檻

 辺りに立ちこめていた水の気はだいぶ薄れていた。

 かなりの量の水が地面に落ちてしまったせいもあるが、襲玉が意図的にそれを集めるのをやめたせいだろう。水の気はただの霧のような甘い色になって、辺りに漂い始めていた。

 混じりけのない水の匂いの中を、雷玉は歩く。

 狼の相手をしているはずの、気の弱い相棒に早く勝利を知らせたかった。

 ──足を進めながら雷玉は首を傾げた。

 そういえば、自分たちがいたのは子供じぶんたちの足でも二十歩も歩けば端についてしまうような空き地だった。だというのに、どうしていつまで経っても襲玉の元にたどり着けないのだろう?

 考える間も足は動いている。雷玉は一歩、二歩と歩数を数えてみた。

 一歩、二歩、三歩……二十、二十一、二十二……四十五、四十六、四十七。

 そこまで数えたところで、はっきりと自覚する。

 これはおかしい。

 慌てて辺りを見回しても、さらに濃くなった霧が視界を覆い隠して、自分がどこにいるのかもよく判らなくなっていた。一間いっけん先すら見えやしない。

 よくよく気配を探ってみれば、襲玉や狼の気配はおろか自分が辺りに張り巡らせていた雷気すら感じられない。

 なんだ、これは。

 急に不安になって、雷玉はきょろきょろと首を巡らせ、雷気を広げようとした。しかし、辺りに立ちこめる霧は雷気を拒絶する。

 通常の水にはあり得ない挙動に、雷玉の背筋に冷たいものが伝う。

「──気が付いた?」

 背中から声が聞こえた、ような気がした。

 鈴を鳴らすような澄んだ声がどこからか聞こえてくる。雷玉が聞く限りずっと平坦だったその声は、わずかに楽しげな色を含んでいた。

 まさか。あの爆発でただの人間が生きているわけがないじゃないか。

「結界を張ってみたんだ。僕のからだは雷気を通しにくい性質だけど、それでもあまり強烈なのは堪らないから」

 必死に否定しようとする精神に、背後から畳み掛けるように涼しげな声が食い込んでくる。

 では、やっぱり。生きていたのか。

 ぎこちない動作で振り向くが、そこには誰もいない。

「……は。空耳──じゃ、ないか」

 常に直情径行の雷玉には、搦め手という概念がなかった。

 こそこそ隠れて何かをするのは嫌いだったし、未知の何かに気を遣うことなど考えも及ばない。

 そもそも、封じられていなかった時間など十年にも満たないのだから、妖どころか人にしても赤子のようなものだ。

 生まれてこのかた好き勝手に生きてきた彼女は、結界に関する知識などありはしない。だから自分が閉じこめられたのがどういうものなのか、理解できない。

 それでなくても知らない言葉は耳に残りにくく、その上雷玉には聞く気がない。

 結果、彼女は最後まで自分の身に起こった現象を理解することができなかった。

「空耳なんかじゃないよ。僕は此処ここにいる」

 後頭部に冷たい気配が突きつけられる。

 雷玉はゆっくりと振り向いた。

 霧の中から滲み出るように、少年は立っていた。

 表情のないその顔からはなんの感慨も読みとれない。彼はただ、雷玉に銀色の紙を突きつけて、微動だにせず立っていた。とび色の瞳が驚く雷玉を映している。

 雷玉は空気を求めて喘ぐ魚のようにしばらく口を開けたり閉じたりしていた。

「……なんで。お前、人間か……?」

 怜乱ははてと首を傾げた。

「難しい質問をするね。魂だけ見れば確かに人のものだけど、この身は既に虚ろな器。何をもって人とするかは君次第だと思うけど、さて、君はどう言ってくれるかな」

 芝居がかった口調。発声だけははっきりとしているのに、そこに生々しい感情は感じられない。

 嫌悪に近い怒りを感じ、雷玉は雷を操ろうとした。

 空気中の雷気はどこかに行ってしまったが、それでも至近距離で食らわせ致命傷を負わせるに足りる雷撃くらいは溜められる。

 そう思っていたのに、いくら頑張っても雷玉の右手はぱちりとも言わない。

「──!」

 驚いた顔をする雷玉に、怜乱は整った口元を吊り上げ、薄い唇を開き、囁く。

「──君の負けだ」

 字面だけ見れば誇らしげなその言葉に、雷玉は歴然とした力の差を悟る。

 私の雷撃は封じられた。こいつには、勝てない──

 画師の繊手が閃く。雷玉は蛇に睨まれた蛙のように、ただじっとそれを見ていた。

 間延びした一瞬の中で、思考だけが加速されていく。


 ──彼女は水の匂いが好きだった。

 初めて大地に降りたとき、まず感じたのが水の匂いだったからだろうか。

 生まれたときは一人だったのに、彼女は無理矢理仕組みの中に組み込まれた。それに耐えられず、一人で騒いで、一人で怒って、それで彼女は追放された。

 空の上にも規律はあるのだ。守られねばならない静謐せいひつが。

 規律に外れたものは追放される、それが掟。

 雲の上から落とされて、もんどり打って落ちたのは雨に降り込められた沼の中。下敷きにしたのは生気のない瞳をした妖で、それに苛ついて怒鳴りつけたのが彼との出会い。

 守ってやらなければと思ったのは一体どちらだったのか。

 ふわりと包み込むような冷たい霧、にこりと笑って差し出された手に、びしょ濡れの彼女は手を伸ばした。

 思えば、あの時。

 怒ってはいたけれど本当は泣いていたのかも──


 ──いやだ。


 怒りで誤魔化していた心が悲鳴を上げる。


 ──もう、あんな牢獄は耐えられない。


 勝てると思っていたわけではない。

 ずっと空の上から見ていたから、あれが一度死んだものだということは判っていた。だから、目覚めて間もない今なら何とかできるかも知れないと思って──それすらも実は恐怖の裏返し、ただの逃避でしかないのだが、鼻っ柱の強い少女には、そんなことは認められない。

 既に、封じられることは確実だ。

 瞬きの何十分の一かの時間の後に、自分は封じられてしまうのだ。

 封じられてから暫くは眠っているようなものだ。時間の経過も、温度の上下も、何も感じない。

 だが、眠りから醒めてしまえば後は永遠の孤独が待っている。情け容赦なく輝き、動くことすらままならない孤独の檻の中では、眠ることすらままならない。

 それが恐ろしいわけではないと、少女は必死に否定する。

 では、何をそんなに恐怖するのか?

 そんなことは、既に分かり切っていた。

 それを受け入れることは彼女にとって、自分を追い出した奴らを受け入れることと同義だ。

 だから必死になって否定していたのだ。


 もう、独り孤独は厭なんだ、初めてそう自覚する。


 アレに挑んだのはただ、再びと引き離される可能性が世界に存在しているのが厭だったから。

 ──彼女はようやく受けれた。

「──襲玉!」

 あがくように一声吼えて、意識は途切れた。


 画師の手の中の絵に色が宿り、結界の外に網を張っていた雷気が拡散する。

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