第2話 愛欲
先生と私が出会って、数週間経った。
木々の葉は緑を深くさせ、そろそろ蝉が本格的に鳴き始める頃のある日。
私は水曜日の放課後、もはや習慣となりつつある行動を起こしていた。それは物理準備室に向かうことである。
その部屋には、私を待ってくれている人がいる。私を大切に思ってくれる人が、そこにいる。
私はかつて孤独であった。孤独かつ、地獄の日々を過ごしていた。
生きることに本当に疲れていた。よくニュースで自殺した人の話とか聞くけど、その時の私にはその人たちの気持ちが分かる気がした。
とにかく疲れるのだ。人は深い絶望を体験すると、全てのことに対してひどく疲れを感じるようになる。自分を苦しめる対象に向かって抗う気力も起きず、ただ闇に飲まれてしまう。
だから人は自殺という手段を考えるのかもしれない。何せこの世が絶望でしかないのだから。その苦しみを味わう度に、どっとした疲れが心身共に対して迫ってくる。
そんなことがずっと続いたら、誰だって楽になりたいと思うだろう。
キリスト教では自殺は重い罪らしいことを、昔どこかで知った。神様は自殺を許してくれない。
それじゃあ神様、自殺しようとしてる人たちに対して何かしてあげてよ。ただみてるだけじゃなくて。つらい思いをしてる人たちに、現世では何もしてあげないのに、自殺者は地獄行きなんて、それは酷くない?
人を救うのは神様じゃないんだよなと、ここ最近強く思うようになってきた。人を救うのは、同じ人なんだ。
私には救ってくれた人がいた。だからこの世に希望を見出だすことができた。なんとか、踏みとどまって生きていこうと思えた。
階段を下り終え、目的地が存在する一階にたどり着いた。
そこからまた数歩足を動かしある一室の扉の前で歩みを止める。
ここが私と先生にとって特別な存在になった物理準備室だ。
辺りを見渡して、周りに誰もいないことを確認する。チェックし終えたら、深呼吸をひとつしてはやる気持ちを一旦静める。
そしてドアノブに手をかけて、ゆっくりと扉を開けた。
部屋に入ったら扉をしっかりと閉める。鍵をかけ、顔を上げて愛する人に声をかけた。
「先生!」
パッと明るい表情で言ったつもりだったけれど、そんな私の顔はすぐさま表情を変え、笑顔は崩れ去ってしまった。
「せん、せい・・・?」
私の視界には、愛する人、上沢先生が映っていた。上沢先生は普段通り私を見て「おお、千里か・・・・」と反応を示してくれた。ただいつもと違うのは、先生の表情がかなり暗く、声にも覇気がなくまるで生きた死体のようにして椅子に腰掛けていた点だった。
私は急いで先生に近づき、心配になって声をかけた。
「・・・千里、お、俺は」
そう言いかけたかと思うと、先生は近づいた私に対していきなり抱きついてきた。
「ちょ、先生⁉」
最初こそびっくりして、思わず体を離しそうになったけれど先生のただならぬ深刻な表情を見た瞬間、腕の力は抜けてしまい先生からの抱きつきを受けいれてしまった。
先生の目には涙が浮かんでいた。「どうしたの先生・・・?」と声をかけると、先生は一瞬私の顔をみて、そして静かに声を圧し殺すようにして泣き出した。
五分ほど経ってようやく落ち着いてきた先生から聞いた話によると、実は先生自身も他の教師から度重なる嫌がらせを受けていたらしい。
めんどくさい仕事を全部押し付けられたり、先輩教師からネチネチと嫌味を言われたり、そういったことが何度もあって、ついに我慢の限界が来てしまったようだ。
私と交流しているときは、そんなことを微塵も感じさせない振る舞いであったのに。先生は私の知らないところでこんなにも苦しんでいたなんて。私は自分を恥じると同時に、なんだか先生がいつも以上にいとおしく思えてきた。
先生も、私と同じ。誰ともつながることのできなかった存在なんだ。他と相容れない、混じることができない先生と私。お互いに孤独な者同志が惹かれあったんだ。
私はそっと先生の頬に両手を添えた。
気づいたら、私は自分の唇を先生の唇に当てていた。
先生は一瞬何が起こったのかわからない様子で一回体を後ろに引いたけれど、私の顔をしばらく見つめたかと思うと、今度は先生のほうから口づけを行ってきた。
私たちは互いに口を離さないまま床に倒れこんだ。
ときおり外から生徒の話し声等が聞こえてきた。
私は極力声を出さず、先生も静かに優しく、私たち二人は深い愛に飲まれていった。
それからまた数ヶ月が過ぎた。私の先生に対する愛はますます深まるばかりで、学校内で誰にも気づかれないようにひっそりと愛し合う日々が続いていた。
休日は先生と一緒にデートに出かける、なんてことはしなかった。万が一外で他の生徒や教師に見られたら大変なことになる、というよりかは(もちろん、そういったことも考えていなかったわけではない)学校内で静かに愛し合うこの関係を互いが楽しんでおり、内向的な、殻に籠るような恋愛に沈んでいたのだ。
当時の私は何も考えずに生きていたと思う。ただ幸せな日常を、今までにはなかった満ち足りた人生の一幕を楽しんでいた。
そんな日々がいくつか過ぎ去ったある日、ちょっとした変化が起こった。
その日私は週一の習慣である物理準備室に向かって歩いていた。いつも通り誰にも見つからないようにこっそりと部屋の中に入った。すると、いくらか普段よりも晴れやかな表情の先生がそこにいた。
「先生、どうしたの? なんだか嬉しそうな顔してるけど」
「え、そうか? 俺そんな表情してる?」
「うん、だいぶ口元歪んでる。目もなんかいつもより輝いてるっぽいような・・・・」
「そうか・・・、やっぱり顔に出るもんなのかな人の気持ちって」
「いいことでもあったの?」
「あ、うん。いや実はさ」
そう言って先生は話し始めた。
先生の話によると、どうやら先生に対して嫌味な行動をとってきた先輩教師が別の学校に転任したらしい。それに加えて他の教師との関係も徐々に改善されつつあって、ここ最近は不快なストレスもなく仕事に打ち込めているとのことだった。
一人の大きなボス的存在がいなくなったことにより、それまでその圧力に押されていた者たちが重たい空気から解放されたような雰囲気が、今の職員室にはあると先生は話してくれた。
なんだか、大人も私たち生徒とあまり変わらないんだなと思った。
それからの日々を過ごす先生は、本当に毎日が楽しそうだった。顔つきが変わったというか、とても満ち足りた自信に溢れている表情をしている時が多くなり、以前のような暗い面持ちはあまりしなくなった。
私の方はというと、特にこれといった変化はない。相変わらずクラスメートとの関わりはほとんどないと言っていいものだったし、私が信頼できるのはやはり先生だけ。
時々、幸せそうな先生の顔を見ると、変な気持ちが湧いてくることがあった。今までそんなことはなかったのに。胸がざわつくような、苦しいような気持ち。
まあ、単純に何かの思い過ごしだろうと、この時は特に気にしていなかった。
夏が過ぎ、いくらか涼しくなってきた頃のある日。
一時間目の授業が終了し、合間の十分休みのこと。
私が次の授業の準備をするために、学生鞄から教科書とノートを取り出そうとしたときだった。
「あ、あのぉ・・・・・・・・」
か細い声が耳元に届いた。初めはあまりに小さい声だったので、何かの空耳かなと思ってそのまま反応もせず教科書を取り出そうとしたが、再び「あの、す、すみません」と声をかけられたので、空耳ではないことが分かり私は顔をあげて声のした方向を向いた。
声の主は、隣の席の女生徒だった。
「な、なんでしょうか?」
「す、すみません、その、本当に申し訳ないのですが・・・・」
いやにすまないといった、うじうじした態度でその女生徒は接してきた。普段クラスメートと何の関わりもなかった私にとって声をかけられること自体稀なうえに、とても申し訳なさそうな話し方でこられたので自分自身何事かと思って恐る恐る聞いてみた。
「はい、なんでしょう・・・・?」
「じ、実は次の授業で必要な教科書を忘れてしまって・・・・・・、なので、その授業中み、見せてくれませんか? もちろん、できる限り迷惑はかけない、ので・・・」
あまりの要求の普通さに、思わず心のなかでずっこけてしまった。そのくらいの要求を、まるで大事を話すかのような勢いで言われたのだ。内心驚きあきれつつも、とりあえず了承の意を示した。
「・・・いいですよ、別に。それじゃあ、机くっつけましょうか」
「ほ、本当にすみません。ありがとうございます」
彼女はその後授業中もずっと申し訳なさそうに肩をすぼめて私の教科書を見ていた。そんなに窮屈そうにしながら授業を受けて内容は頭に入ってくるのかと、私は彼女の様子をみて思った。
しかし、彼女を見ていてふと思い出したことがあった。まだ暑い季節だったころ、私が物理準備室に向かう途中で、階段の踊り場でぶつかった一人の生徒。それが、今隣りにいる彼女であるということに気付いたのだ。
隣の席なのに当時私は名前どころか同じクラスの生徒であることすら気が付いていなかった。どれだけ先生以外の他人に興味がないんだと、さすがに自分自身に呆れてしまった。
授業が終わったあと、私は彼女から礼を言われたときにそのことについて言及してみた。
「ごめん、あのさ。だいぶ前に、私階段に降りてるときに人とぶつかっちゃったことがあるんだけど、それって・・・・」
「・・・あ、うん、多分私だと、思います」
「あ、やっぱり・・・・・・。その、あの時はごめんなさい。私、隣にいるあなたがその時の当人だってことさっきまで気づいてなくて・・・・」
「別にいいですよ! 私だって、すぐにその場から逃げちゃったし・・・ごめんなさい」
「あなたが謝る必要はないですよ。あの時は私の不注意が・・・」
言いかけて私は言葉を紡ぐのをやめた。周りからの視線を感じたからだ。
いつも誰とも話さない、誰とも関わろうとしない者が珍しく一人のクラスメートと会話している。これだけで周囲の異様な視線を浴びる理由は十分であろう。
彼女もそのことを察したのか顔をうつむかせ、会話は自然と途切れてしまうように思われたが、彼女にどうしても聞いておきたいことがあったので最後にひとつ、質問を投げかけた。
「あの、ごめん。あなたの名前って・・・?」
「あ、えっと、さ、桜田っていいます。桜田菜奈、です」
「桜田さんね。あ、私は木野っていいます」
「うん、知ってるよ。木野千里さん、だよね?」
「え、あ、うん・・・、」
私は名字ですらあやふやだったのに、向こうはフルネームで私の名前を知っていたことに軽く衝撃を受け、これからは少し他人に興味を、少なくとも桜田さんの名前はちゃんと覚えておこうと心に決めた。
私はその日以来、隣の桜田さんにだけ関してはいつも自然と意識して学校生活を送るようになった。それまで先生のことしか頭になかった自分にとっては、いくらか変化のあることだったように思う。
桜田さんを日々観察していくなかで、ひとつわかったことがあった。それは彼女も孤独であったということだ。
桜田さんはずっと自分の席に座って本を読んでいた。親しい友人らしき人はおらず、授業の合間は静かに読書をし、昼休みになると教室を出てどこかへ行ってしまう。おそらく図書室にでも行っているのだろう。彼女は一人でいることによって誰かから嫌がらせを受けているようなことはなかった。しかし、誰とも群れていないということは彼女もやはり私や先生と同じ、他と相いれない存在なんだと、最初はそう考えていた。
でも違った。彼女は私と似ているようで違う存在だった。
私は一人でいることに、昔ほど耐えられなくなっていた。先生が私の心の支えになって以来、私はもう先生なくして日常生活を送ることが想像できないほど彼に依存している。
先生と会えない日は本当に憂うつになって学校に行くのを躊躇う日だってある。しかし、親に余計な心配をかけたくないからなんとか学校には通っている。
桜田さんは一人なのに、いつも幸せそうだった。読書をしているときはまるで幼い子どものように目を輝かせながら本を読んでいた。
本を読み終えると窓の景色に目を移し、今度は和やかな表情で空模様を眺めているのだ。
強いんだなと思った。彼女はそれこそ見た目はおとなしそうでひ弱っぽくて、運動部に所属している女子なんかと比べたら弱者の部類にまわるような外見だ。
しかし彼女は強いんだ。見た目じゃなくて、心の芯が強いのだ。たとえ一人であろうと、桜田さんは自分の人生をしっかりと生きていた。
それに比べて私は・・・・・・、自分は何やっているんだろう。先生に頼って、依存しているばかりで、私はちゃんと自分の人生を生きているのだろうか・・・・・・・?
そう考えると、猛烈な不安が私を襲った。
私はダメな存在なの? 一人で生きていくことのできない、本当の弱者なの? 違う、そんなことはない、そんなはずじゃ、ない・・・・・・・。
心がざわざわと蠢き出した。
ああ、会いたい。先生に今すぐ会いたい。会って、この胸にあるどす黒い何かをどうにかしたい。
私は焦る心臓の鼓動を感じながら、その日の放課後、物理準備室へと向かった。
「先生!」
私は息をはずませながらドアを開けた。目の前には愛する人がいる。私を支えてくれる人が。
しかし、その愛する人は私を見るなりびくっと体を揺らし、慌てて手に持っていたスマホを隠すような仕草をした。
「・・・・・・・先生?」
「なんだ、千里か、びっくりした。どうした、今日は水曜日でもないのに?」
「え、いやあ、その、先生に無性に会いたくなっちゃって」
「ああ、そうなのか。その気持ちは嬉しいんだけど・・・・・、すまん、今日はこのあと用事があるんだ」
「用事・・・・? 何かあるの?」
「えっと、実は教員同士の集まりみたいなものがあってさ。まあ、いわゆる飲み会だ。それに行かなくちゃいけないんだ」
「え、先生は」
私と同じ、はじき者じゃなかったの?
「前に言ったろ、最近は他の先生たちとも仲良くやれてるって」
「でも、先生。私、今日はどうしても」
「変わったんだよ俺は。もう、前の自分から変わったんだ」
その言葉を聞いて、なぜか全身の力が抜けていくように感じられた。私はただ茫然と先生を視界に捉えていた。
「じゃあ、そういうことだから。今日は勘弁な」
先生は私の横をさっと通りすぎて部屋を出て行った。私は一人、物理準備室に取り残された。
つうっと、滴が頬をつたった。
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