少女のつながり

前田千尋

第1話 過去の記憶

 カランと、小さな音が耳もとに届いた。コップに入っていた氷が溶けたのだ。

 私は今、ある小さな喫茶店で一人静かに席についている。手元のアイスカフェオレをときどきストローで吸いながら、ぼんやりと窓からみえる景色を眺めていた。

 いきなりバイブ音が体に伝わり、私はカバンの外ポケットからスマホを取り出した。

 暗証番号を入力して、画面を確認すると、親友からLINEの通知がきていた。

『ごめん、時間に間に合わんかも! 電車が遅延してもうて(汗)』

 それに対し、私は

『了解~。焦らないでゆっくりおいで。』

 と、返信しておいた。

 スマホをテーブルにおいて再び窓に目をやった。ビルの二階に存在するこの喫茶店からは、ビル前に位置する交差点をあわただしく行き来している人の群れを望むことができる。

 焦り気味に小走りでゆくサラリーマン。小さい子どもの手を引きながら額の汗を拭う母親。リュックを背負い、顔をうつむかせて黙々とただ歩き続ける中年と思わしき男性。

 そんな人たちを眺めていくなかで、私はある存在に暫し目を奪われた。それは二人で楽しそうに、キレイで可愛いおしゃれな服装で笑いあっていながら歩く少女たちだった。

 年頃は中学から高校生あたりだろうか。その少女たちは間もなくして交差点を通りすぎ、姿は見えなくなってしまった。

 ふと、親友との出会いを思い出した。私が菜奈と出会ったのは先程の少女たちと同じくらいの年のころ。

 高校一年生の、夏の初め頃だった。



「死ね」

 今まで何回この言葉を聞いてきただろう。もう聞き慣れすぎて半ば何も感じなくなっていた。

 私は三人の同級生に囲まれている。三人のクラスメートはそれぞれモップを手に持ち、床に倒れ込んでうずくまっている私をそれで激しく攻撃していた。

(痛いなぁ・・・臭いなぁ・・・)

 モップで体の様々な個所を何度も突かれ、薄暗い二階の女子トイレの床に寝そべっている私は、ただそれだけを繰り返し感じていた。

「お前はゴミなんだよ!」

 はい、存じております。

「だからこうやって私たちが掃除してあげてるの!」

 わかっています。

「ねぇ、聞いてる?・・・聞いてたら返事しろっ!」

 特段強くモップで脇腹を突かれた。その時に激痛が体を走り、喉の奥から何かがこみ上げてきた。

 少し吐いた。ほんと、少しだけ。痰と胃酸が混じった液体を、少し。

「うわ、吐きやがったよこいつ」

「きったない・・・・益々掃除しないと、これは。ねぇ・・・・・?」

「そうだね。汚物は駆除しないと」

「いやぁ、偉いよね私たち。だってこんなに率先して学校の美化活動に取り組んでるんだから」

「それね。私たち表彰されるべきだよねえ」

 ははは、と上で何やら笑い声が微かに耳に届いた。私はただ、ある一点をおぼろげな視線で見つめていた。

 見つめているその先は、ひとつの窓。そこからみえる赤く染まり始めた空を、視界に捉えていた。

「さぁて・・・『掃除』を再開するとしますか」

 一人の女子が声をあげた。そして他の二人もモップを持ちなおし、準備に入っている。

「ホント、感謝してね。私たちがあんたを『掃除』してあげることに」

 そう言って、モップを握る手に力が込められた時だった。

「何やってんだ!!!」

 鋭い怒声が響いた。私は何が起きたのかは理解できなかったが、私を『掃除』していた三人の女子たちは何故かあわてている様子で、かつ動揺の声を漏らしていた。

「今すぐその子から離れなさい!」

「はあ⁉ おい男が女子トイレに入ってきてんじゃねーよ!」

「うるさい、今はそれは関係ないだろう!」

「おい、さわんな」

「いいからここから出ろ!」

 私はズキズキと痛む体をなんとか起こして、現状を把握しようとした。

「大丈夫か」

 顔をあげた途端、そう声をかけられた。私の目には真剣な眼差しでこちらをみつめている、若い男性教師が映っていた。

「立てるか?・・・こりゃひどいな。苦しくはないか?」

 優しく私の体に暖かい手を当てて、男性教師は落ち着いたトーンで話しかけてきた。

「・・・つらかっただろう。もう、大丈夫だからな」

 光が差したようだった。向けられたその優しい頬笑みが、まるで神がこの世に現れたかのように、私には思われたのだ。

 その後、騒ぎを聞いて駆けつけた他の教師たちも姿を現し、私を『掃除』していた生徒たちはその教師たちにどこかへ連れていかれた。

 私は保険室で治療を受け、その翌日の放課後、生徒相談室にて男性教師から話を聞かれることになった。


「大丈夫? 昨日よりは落ち着いたかな・・・」

 紙コップに温かいお茶が注がれている。名前を上沢敦啓と名乗った男性教師は、二人ぶんのお茶を手にして席に着いた。

 ここは一階の生徒相談室。部屋自体はけっこう広めで、中にいる人を圧迫しないようなゆったりとした雰囲気に包まれている。

 私は顔をうつむかせて、ずっと机をぼんやりと見つめていた。視界に紙コップが入ってきたときも、変わらず顔を動かそうとはしなかった。

 上沢先生は私のとなりに椅子を持ってきて座っている。室内は沈黙が流れ、窓から差し込む夕陽によって朱く染まっていた。

「前から、ああいうことはあったのかい?」

 先生の問いに、私はコクンと静かに頷いた。

「そうか・・・・・」

 先生はそう言い終えたのち、紙コップのお茶を少し口にした。そのとき、

「あっつ‼」

 お茶が予想外に熱かったらしく、先生は口に手を当てて慌てふためいた。

「だ、大丈夫ですかっ⁉」

 あまりにも大きい声をあげたので、さすがに私もうつむかせていた顔をあげて思わず声をかけてしまった。

「あ、ああ、大丈夫。いや、あぁ、口やけどしちまったなあ」

 先生は口を手で覆い、すまないといった表情を見せた。

「はは、俺けっこうドジやらかすんだよなあ。今朝もさ、階段登ろうとしたら踏み外してこけちゃって」

「はあ・・・」

「あ、だから君もそれ飲むとき気をつけて。かなり熱かったから」

「わ、わかりました。ありがとうございます・・・」

 私の返答を受けて、先生は朗らかに笑った。そしてその笑顔をみた瞬間、何故か目が潤み始めた。

「・・・どうした?大丈夫?」

 私の顔をみた上沢先生はまたもや慌てふためいたような声をあげた。その言葉を聞いて益々私の目から涙が溢れでてきた。

 自分でもよくわからない。ただ先生の笑顔をみたら突然全てが緩んでいくように感じられて、涙腺が一気に崩壊したのだ。

 私は今まで、『外』において心許せる相手は一人もできた試しがなかった。


 常に私は一人だった。たまに誰かと会話することはあっても、それは次の授業の確認とかといったもので、短い会話が終わると、相手はさっさと自分のグループに戻ってしまう。そして私は一人になる。私は別にそれで良かった。一人でいることはさほど苦にはならなかったし、逆に話しかけられてきても対応に困るだけなので、本当に良かったのだ。高校に入るまでは。

 入学して間もないころ、私はふとしたことから奴らに目をつけられてしまった。ほんとに、ちょっとしたことだった。ある日の放課後、私は掃除当番の日だったので廊下の水道場で雑巾を濡らしていた。そして水を止めて雑巾を絞り終え、教室に戻ろうとしたときだった。

 前をよくみていなかった私も悪いのだけれど、人とぶつかってしまったのだ。

 ぶつかった相手が、奴らだった。奴らもペチャクチャとおしゃべりに夢中で、前をよく見ずに歩いていたのだ。

 ぶつかった際、私はすぐに謝った。けれど、元々あまりしゃべらないでいた私の声は自分が思っていたよりも小さく、微かな声にしかならなかった。きっと、相手にも伝わらないほどだっただろう。私は色々と恥ずかしくなってしまって、その場を去ってしまった。

「なにアイツ、ぶつかっといて何も言わず行っちゃうの?」

「ねえ、なんか私のスカート濡れてんだけど!」

「アイツ雑巾持ってたから多分そのせいじゃない?」

「最悪じゃん、それ」

 こんな会話が、背後から小さく私の耳に届いた。

 それからだ。私はこれがきっかけで、少しずつ、地獄の日々がじわじわと始まっていったんだ。


 目からとめどなく涙が溢れ出し、私はまともに先生の顔をみることも、しゃべることもできなかった。泣きたくなんかないのに。涙を止めようといくら手の甲で拭っても涙は止まらなかった。

「す、すみ、まぜん・・・せんせ、い、わだし・・・」

 とにかく何かしゃべらないと、と思った私は必死に言葉を発しようと試みた、そのときだった。

「・・・・・えっ」

 暖かい感触だった。私の背中に先生の大きな腕が当たって、私の顔は自然と先生の胸の中に埋まっていた。

「・・・大丈夫だ、大丈夫」

 その温もりのある声を聞いて、私は全てが溶かされたようだった。

 私は先生に優しく抱かれながら、また激しくたくさん泣いた。

 生徒相談室に暖かな夕陽が差しこみ、二人を静かに包んでいた。

 私はこの日のことを、いつまでも覚えている。


 あの日以来、私は学校で上沢先生とよく言葉を交わすようになった。今まで私は誰とも交流しない、ひとりぼっちの学園生活を送っていたけれど、今では先生と会話していくのが楽しくて仕方がなかった。

 上沢先生は物理担当だったので、物理の授業がある水曜日と金曜日は私にとって特別な日になった。

 先生は「また何かあったら相談してこいよ」とか、「友人関係以外でも、何でも気軽に話しかけていいからさ」と声をかけてくれた。私は益々先生と交流することに夢中になっていったのだ。

 当時の私は教室内でもかなり浮いた存在だったと思う。何せクラスメートとは誰とも話さず、ある一人の教師とだけ親密に交流を図っている生徒なんて、周りからしたらさぞや奇妙に思われただろう。

 そんな私を、元々いじめていた奴らも含め全てのクラスメートは避けているようだった。

 本当に異常な者に対して人は近づこうとはしない。

 私は先生だけをみていて、先生に激しく依存していたのだ。

 最初は私から先生への一方的な愛情だった。先生はあくまで一生徒に対して優しく対応してくれていたに過ぎなかった。

 けれど、時が経つにつれだんだんと上沢先生からも積極的に私と関わろうとする意志を読み取れることが多くなっていった。

 気づいたら、私と先生は相思相愛の関係になっていたのだ。


 ある日のこと。私は先生に会うために物理準備室に向かって廊下を歩いていた。先生は授業の時間以外は物理準備室にこもっていることが多かった。その部屋は上沢先生以外誰も使わずに放ったらかしにされているような状態で、ほとんど鍵が上沢先生の所用物になっているような状態だったらしい。

 というわけで、物理準備室は私と先生が密かに学校で愛を育む場所となっていた。

 物理準備室は一階にある。私は先生に会う嬉しさからいくらか駆け足気味で階段を下りていった。

 ちょうど踊り場に足がついたときだった。私は一人の女子生徒と出会い頭にぶつかってしまった。

「うわっ!」

 ぶつかる直前に思わず声をあげたが遅かった。

「いたっ!」

 ぶつかった相手はへなっと尻もちをついた。私は後ろによろめくもすぐさま体勢を建て直して声をかけた。

「す、すみません! 大丈夫ですか」

 また前のように声が小さくて相手に意志が伝わらないか不安だったけれど、今回はちゃんと大きな発声で言えたと思う。最近先生とよく話していたからそのおかげだろうか。

「あ、はい、大丈夫、です・・・」

 そう言って彼女は少し顔を俯かせ気味でゆっくりと腰を起こした。

「こ、こっちこそ、前よく見てなくて、ご、ごめんなさい・・・・・」

「いえ、私のほうこそ」

「そ、それじゃ」

 彼女は自分が謝るとそそくさと私を横切って階段をかけ上がっていった。

 どことなく、彼女は私と同じ匂いがする、ような気がした。誰ともつながることができないような、そんな存在。

 まあ、今の私には先生がいるし。私はもう、完全に一人ではない。頼れる、愛すべき人がいる。

 そうだ、私には、ことができる人がいるんだ。

 そう思うと私の気持ちはちょっと弾んだような気がして、足を弾ませながら物理準備室に向かって歩き出した。


 今思うと、これが私と菜奈の出会いだったのだけれど。このときは、ただ先生だけのことを考えていた。









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