真夏の人魚姫
霞ヶ関
真夏の人魚姫
人魚姫の物語はあまりに哀しくて、小さい頃に泣いてしまった覚えがある。王子様がいるのに、幸せになれなかったお姫様を思って泣いたのだ。
陸に憧れ、人に恋し、声を失い、泡と消えた。
人魚姫は果たして、本当に幸せだったのだろうか。その真意を確かめる方法はない。好きな人を殺せば元に戻れる。その選択肢を取らなかった姫は自分の命を代わりに差し出した。
誰に?自分に、だ。物事には必ず対価が必要で、私達も自然と払っている。それに気付くかどうかが、自分の運命の分かれ道に違いない。
昔哀しくて泣いた人魚姫の物語は、今読んでもやはり哀しいと思う。しかし決定的に違うのは、姫を運命を哀しんでいるのではなく、姫に気付けなかった王子を哀しんでいるのだ。
自分を助けてくれた運命的な相手が目の前にいるのに、判断材料が声しかなかったことで失うのだ。それも知らないうちに。
なんて哀れな王子様。本当に好きになるべき相手は、ここにいたはずなのに。
けれどそんなことに気付ける者なんて、ほとんどいないのだ。私達が知らぬうちに、対価として何かを差し出しているように。誰もが何も知らない。
そして何も知らない人魚姫の姉妹は、こう言ったに違いない。
嗚呼、なんて哀れな人魚姫。
最も哀れなのは誰かなんて、一体誰が決めるというのだろうか。
夏が終わりかけている。去年の八月最終日は、もっと暑かった。ずっとクーラーをつけて扇風機の風に当たっていたら、お腹を痛くしたことが懐かしい。
それなのに今年は台風が過ぎ去った途端、急に季節が変わり始めた。風の温度、柔らかさ、匂いが秋に染まりつつある。例年は十月頃に感じていたような、雰囲気がこうも早いと、不思議な感覚になってしまう。
でも空はまだまだ夏らしい入道雲が、どうどう出しゃばっている。
ああ夏だなあと思った。ぼうっとしていたせいか、水が足にかかってしまった。
金魚鉢の水は変えると宣言してから、五日たった今日、ようやくその準備が整った。何度も水を入れ替えられて、外に放置されていたバケツは少しだけ日焼けして、境目が出来ていた。底の方で出目金が優雅に泳いでいる。顔が思わずゆるんだ。
さて仕事をせねば。言い聞かせるように、ガラスで出来たほぼ球体の金魚鉢を蛇口に近づけた。中には水を綺麗に保つための小石達が入っている。
以前金魚の水を入れ替えていた時、金魚鉢のふちを片手で持っていて、石の重さと手の支えに耐えられなかった鉢を割ってしまったことを思い出した。
あれはいつ思い出しても痛すぎる出来事だ。中に金魚がいなかったことが、本当に幸いだった。まあ割れたガラスを回収して金魚鉢を買う羽目になってしまったから、良かったとは言えないのだけど。
もし金魚が入っていたら、私はどうしただろう。地面で水と空気を得られない金魚が、ぱたぱた喘ぐ姿を真っ白な頭で見ていただろうか。それとも急いで掬い上げて、バケツの水に入れてあげられただろうか。
魚は人の熱に酷く弱いという。火傷したようになってしまうから、弱って死んでしまいかねないのだと。それが頭にあるから、触るのは躊躇われただろうか。そもそも金魚がいたら、鉢をあんな粗雑な持ち方しただろうか。
終わってしまったことをああだこうだと考えてしまっても、しょうがないことぐらい十分に分かっているのだ。分かっていて、考える頭を止める気になれないのは、地面に堕ち、水も空気もなく、喘ぐ金魚がまるで私のようだと思ってしまうからだろうか。
蛇口から零れ落ちる水が、跳ねて弾けた。
人は恋をする。女の人は恋をして美しくなる。男の人は恋をして強くなる。きっと何かを得る為、守る為に何かを得ようとするのだろう。
そして私は恋をして、何かを得ない為にそれを捨てた。それは暗闇に光る唯一の明かりのように、とても大事なものだったけど、捨てる以外の選択肢がなかったのだからしょうがない。
しょうがない。
しょうがない。
何度、そう言えば、それは報われるのだろう?
「……藍」
「ん?……どうかした?」
「いや別にどうもしないけど、ぼーっとしてたから」
いつもは私自身のことを話題にしない友人に言われるくらいだから、相当らしくない姿だったのだろう。情けない。
夏バテしてるから、と適当に誤魔化すと納得していない表情で、それならいいと返って来た。ほんと全然いいって顔じゃないけど。心の声がだだ漏れで、本当に互いに隠し事が出来ない。改めて自分達の付き合いの長さを笑った。
「後期課外終わったー」
「長かったよね……」
「まあね、ほんと長い。あ!そう、今日文芸部の買い出し行くからね」
「あー……、紙買いに行くんだっけ」
「そうだよー。文化祭のお金で紙買わないと!」
最近紙の値段が上がったのだと先日話していた。紙が必須で、人数が少なく、部費も少ない文芸部にとって、それはとても辛いことだ。自分たちで製本するので、紙が少ないと、ページを削らなくてはいけない。一番いい形で作品を見てほしいのが私達の思いだ。
だから策として、通常より多くもらえる文化祭資金で買い込む。そうすれば夏部誌で使い切ってしまいそうな、お金も紙も十分……多分足りる。今年はたくさん書く人たちが集まったからな。それは良いことなのだ。もし足りなくなったらその時は、また何か考えるとしよう。
それに、次期部長になる友人に任せておけば何のことない。彼女はゆるりくらりと物事をこなし、少し心配性な所があるが、とてもしっかりした信頼出来る人だ。
「そーいや明日、祭りだけど……誘った?」
「…………まあ。駄目だったけどネ」
「あっ、やっぱそうか……ドンマイ」
明日は今年の夏、最後の大きい祭りだ。大通りを封鎖して歩行者天国。屋台も多く出るし、ステージも建てられる。催し事が沢山で楽しいお祭り。去年は行けなかったが、今年は行ける。というか行く。この友人と一緒に行く約束をしていたが、他にひとり、一緒にどうしても行きたい人がいた。
「最近誘ったって、来なくなったもんね」
「そうだねー」
所詮彼にとって私は友人かそれ以下の存在なのだろう。私にとっては想う人であれ彼の中でどうあるかは決められない。人の想いとはそういうものである。あるいはちょっとした事情で関係にズレが出来なければそういう望む関係になれていたのかもしれない。
……期待するのは止めた。それでいいと決めたのだ。
夏祭り当日。
午後が部活だったために、シャワーを浴びる暇はなかった。汗だくで気持ちが悪いのを、制汗シートと制汗剤でがっつり爽やかにし、着替えてから集合場所に向かった。
文芸部は第二部活で、主はソフトテニス部だ。小五からやってる運動は好きを通り越して、ないといけないものになってしまっている。日焼けが嫌でやらないつもりだったのに、部活動見学で行ってみたらすぐに目を奪われてしまった。勝つ喜びや点の決まる嬉しさを知っているからだろう。
事前に時間を調べていないのを後悔した。歩けばいいと思っていたが、予想以上に疲れている。目的地に向かうだろうバスをいくつか乗り過ごした後、ようやく乗って、集合時間二分遅れで着いた。
背中のリュックは部活着で重い。友人は既に来ていて、まだ明るい太陽が直接当たらない所に座っていた。傍に寄ると俯いていた顔が上がる。明々としていた画面はブラックアウトした。
「ごめん。遅れた!」
「いいってこれは遅れたに入らないし。連絡あったから大丈夫」
「それならいいけど……。じゃあ行きますか」
「はーい」
友人は明るい返事をし、立ち上がって笑った。
歩行者天国は一時間半前から出来上がっているらしい。街中は昼間の賑やかさをそのまま残して、橙色がまだまだ居座っている。藍色には随分遠い。陽が長い夏ならではの感覚だ。
鞄を肩にかけて隣に並んで歩き出す。何気ない話をしながらホコ天を歩くのはやはり楽しい。普段ここを車が通っているのを思い浮かべると、感動的だ。
感覚の似ている友人とは同じ高校になると分かってから特別仲良くなった。小学中学同じなのに、あまり会話をしたことがなかった。多分歯車が合うはずだったのに、そのタイミングがなかったんだろう。私はこっそり大親友だと思っている。
冷やしパインが食べたいという友人を、屋台から離れた所で待つ。果物が苦手な私には食べられないので、このあと、はしまきを買うつもりだ。すぐ炭水化物系に行ってしまう、運動部特有の女子力の低さが目立って、泣きそうになった。ナンパ?そんなもの知らない。
他にもいろいろ買って、適当な段差に座る。普通は車道と歩道の境目になるその段差が、今は椅子代わりだ。途中貰った団扇を友人に向かって扇ぐと、自分にしろと笑われる。私もつられて笑う。
人混みの疲れか、ふうと溜息をついて、団扇を置き、買ったものを食べ始める。祭りの時にしか味わえないわけでもない、はしまきや焼き鳥を買ってしまうのは、この空間に浸って食べたいからだろう。お祭り騒ぎの、鮮やかな夏の空気の中で食べれるなら、普段の倍ほどするたこ焼きも美味しいものだ。
今は何時だろうとスマホの画面を明るくすると、別の友人からラインが入っている。その内容に驚き過ぎて、思わず友人を叩いた。
「な、なに?」
「ちょっ、れなが告白したって……!」
「えっ?マジか」
私の住む場所は町とも言えない田舎で、小学中学が一クラスしかなく、ずっと同じメンバーだ。私と友人はそんなメンバーの一人である、この告白した友人とは特に仲が良い。
二人して、勇気を出した友人に目を丸くする。大胆な彼女の行動はいつでも凄かったが、告白とは。お洒落のおの字も知らないような運動部の田舎っ子だった、あの友人が告白。返事を打って送るこの感覚は、まるで親だ。ひたすらマジか!と送ると「笑」がついた返答が返ってくた。
どうやら本当にやってくれたらしい。この前好きな人が出来た、なんて話を聞いたばかりで、すぐに告白したとは思わなかった。変にドキドキしてしまう。
上手くいって欲しいなと思う反面、彼氏出来るのかと羨ましい。ピコンと音を立てて来る、脈がないのだと弱気なメッセージがやけに心に刺さった。告白の返事を貰わなかったという彼女に、ちゃんとした答えを貰えとアドバイスする。隣の友人も、そうだそうだと頷いていた。
結局は祭り会場で恋愛相談に乗り、彼女は告白の返事を貰う決意を固めた。
言い逃げは本当に逃げだ。フラれる勇気なくして告白なんて甘過ぎる!
そう指を滑らせた言葉が、向きを変え、自分の目の前に立ちはだかった。望む答えがないことを、本当に怖がっているのは私なのに。
彼を好きになって分かったのは、自分はやはり、感情を自分でコントロール出来る人間だということだ。
誰かを好きになりたいと思えば、そうなれてしまう。この想いが本物かどうか、幼い私には見分けがつかない。けれど淡々とこれは感情で、感情であればいいと見ていることを、気付かされた。
この恋が虚像で作り上げた偽物だと知っているのに、彼を好きだと今も思っている。思うしかなかった。
確かに辛い時にたまたま隣にいて、ちょっと欲しい答えをくれる存在だったのかもしれない。彼の前では見た目を気にして、言動を気にして、胸の高鳴りを覚えたのかもしれない。
だが、それら全てが嘘なのだ。いや全てではないかもしれない。本当にドキリとさせられているのかもしれない。判断の付けようがない私の経験値で、好きか嫌いかのバロメーターがゆらゆら揺れている。
しかし結局、好きに針を向けることにしたのは、彼が自分の重い感情を受け止めてくれそうな、優しい人だったからだろう。何でも冷静に物事を考えてくれる彼なら、矛盾だらけの私を受け入れてくれるだろう。そんな甘く幼い頭脳が下した答えだった。
きっと今日この瞬間に彼を嫌いといえば、嫌いになれる自信がある。他の誰かを好きと言えば、好きなれる自信がある。
感情のない理性だけの私が抱える淋しさを埋めてくれるのが、恋人の存在だと思っている。
だからこそ恋愛がしたい。
恋がしたい。
愛が欲しい。
十代にしてはあまりに汚い欲望だと思う。昔からそうだったのだ。
私は、あまりに子供らしくない。一丁前に泣き虫で、子供っぽい執着心のベクトルがどこかおかしい。自分の不具合に気付いても、私は自分を治すことを知らない。
私は、そうしてそのまま大人になろうとしている。でも、いつまでも
金魚すくいの文字が目に入る。文字の下を見ると、横に長い水槽の周りが子供達でいっぱいだ。見えた水槽の中は、赤い金魚で溢れかえるように赤かった。
四ヶ月前に五、六年育てた金魚の金ちゃんは死んでしまった。水を換えるのを疎かにしていたために、息絶えたのだ。さぞかし苦しかっただろう。庭に埋める時、そう思った。
自分で責任を持って世話をするはずだったのに、いつの間にか母親がするようになって。たまに言われて水を換えるだけが、世話と言えただろうか。何事も三日坊主にすらならない、面倒くさがりの私が、生き物を飼えない理由をちゃんと教えてくれた金ちゃんだった。空っぽのガラスを見ては、ごめんねと謝ってしまう。謝っても欲しくないだろうなあと虚しくなる。
「金魚すくいする?」
「楽しいよね、すくうのは。でもあとの世話がね……」
友人の家には三匹の猫がいるから、魚は飼えないだろう。食われてしまう未来が見えている。もしくはガラスが割れるとか。
もし、親が許してくれるのなら飼いたい。贖罪とかそういう負の感情からではなく、単純に玄関を上がって何もない金魚鉢が目につくのは、嫌だからだ。どうしてか、今度はちゃんと育ててあげられる気がする。いつも何かをする時は、ちゃんと出来ると思えてしまうものだが、今回ばかりはいつものとは違う自信があった。早速親に連絡すると「責任が持てるならいい」とのことだった。そうして金魚をすくって帰ることは決定したのだ。
友人には人が多いため、屋台の後ろで待ってもらう。三百円払って店のおじさんから網を受け取った。
すくえなくても持って帰れるプランにしておいたから、絶対に一匹はうちの子になる。しかしどうせなら、自分ですくった金魚がいい。愛着はそこから始まるだろう。
子供達の空いた隙間に座り込み、水槽の中を覗く。お姉さんがムキになってやってる、とか思われるかなと少し恥ずかしかった。
多数の赤が優雅に泳ぐ中、時折入る黒が印象的で、すくうのは出目金にしようと決めた。金ちゃんは赤く、フナ金っぽかったし、記憶の中で出目金を飼ったことはない。
小さい頃も何度も金魚だけは飼っていたが、大体無残な最後を遂げていることを思い出した。一番悲しかったのは、キッチンに水槽を置いていて、朝起きたら水槽から跳ね出てしまったのか、シンクで干からびて死んでいたやつだ。悲しいを通り越して、面白おかしすぎる。
そんなバカな子は拾いたくないが、すくったやつが運命の相手だ。恋人を選ぶような気持ちで、水を入れた椀片手に網をつけた。
上手なすくい方は、網を斜めに入れて斜めに出すことだ。そうすると水の抵抗が少なく網は破れず、何度もすくえるらしい。そんな器用な芸当は出来ないので、浮き上がってきた一匹に賭けるしかない。
沢山の金魚から出目金に目をつけたはいいものの、なかなか思い通りの場所に来てくれない。隣の男の子が勢いよく網を水中に入れてすくって一匹も拾うことなく網が破ける。昔から金魚を育てられもしないのに、すくうのが楽しくてやっていた。あの頃はまだ、持って帰らない金魚すくいが存在していなかったから、大抵一匹か二匹持って帰っていた。あの頃も今もこの楽しさは変わらないはずなのに、すくったその後を考えてしまう今の方が楽しめそうにない。
なんとか頑張って、網を水に入れる。一匹、狙いを定めてゆっくりじわじわ追い詰めるように網を上げた。逃げる前に椀に入れてしまったもん勝ちだ。
……今だ!そう思い、直前まで考えていた斜めに出すとかそういうことはすっかり飛んでしまって、水面と平行に網をあげてその上の金魚をぽちゃんと椀に入れた。案の定、紙で出来た網は破けてもう機能しない。しかし出目金一匹だけが、椀の中で泳いでいる。良かった、すくえた。
お店の人に役立たずの網と椀を渡し、持って帰れるようにビニールに入れてもらう。水草が描かれた袋の中、黒い出目金は何が起こったか分からない様子で、慌しく動いている。小さめながら綺麗なフォルムの金魚はよく見ると、鱗に多少の傷があるようだ。
大丈夫だろうか。魚の傷は治らないというし、折角一匹すくえたのが死んでしまったらどうしようもない。もちろん帰る途中にストレスで死んでしまうかもしれないし、帰っても水に慣れず死んでしまうかもしれない。死ぬことばかり思い浮かぶ頭は、変に大人だ。
魚のことはよく分からない。この子に賭けてみる他ないのだと、友人の所へ戻った。
「つれた」
「おお、出目金だ」
「そこはすくったでしょ?ってツッコミが欲しかったな……」
「あっ、ごめんごめん」
とうに陽が消えて、人工の灯りが強まる街にビニールを透かして見ると、出目金は優雅に泳いでいた。まだ祭りは半分も終わっていない。
二週間経っても、無事元気に生きている出目金はなかなかの曲者で、未だ底の方でしか動いていない。水は十分ある。餌も上にある。だが上下に動くことはなく、ほぼ下でうろうろと回っていた。
餌を食べに上がってきている金魚を見たのも一度きり。その時以降、見ていない。餌を食べている所を見ないと不安になるが、人がいる状況で餌を食べないのは警戒心が強いのだろうと浅い知識で思う。
そして、この出目金の名前はまだない。仮で「デメ」と付けたはいいものの、呼び辛くて仕方ないのだ。浅ましい私の中には、彼に名前をつけてもらおうという考えがあった。最近のドラマで気になる人に名付け親になるシーンがあったからだ。ただの上司と部下から恋人に発展するまでを描いたそのドラマは、私と彼が発展すればいいのに、という私の希望を含んでいるような気がした。
名前を考えて欲しいんだけど。
たった一文送れば何かしら会話が進む。その中で気があるように見せることも、気を向けさせることも出来るはずだが、そんなテクニックは持ち合わせていない。普通の友人関係であれば、適度に何か他愛もなく話すのだろうが、彼と私に普通の関係性はない。
長く一緒だから、同じ学校に通っていたから、同僚、クラスメイト。何とでも片付けられる私達は、きっと一生をかけても変わらないような気がする。私が臆病者であると同時に、彼は私に関心がないのだ。
好きの反対は嫌いではない。無関心だ。だとしたら嫌いの反対は何だろう。それもまた無関心なのだろうか。どちらにせよ、私と彼は恋人になれないという現実的な話は、好きだと気付いた瞬間から良く理解している。
金魚鉢の底にある石を、ガラス製の鉢に傷をつけぬよう丁寧に洗う。洗うといっても、石同士を揉んで汚れを落とすだけだが。石を揉んでは水を入れ替え、揉んでは入れ替えを繰り返しながら、寄ってくる蚊を払う。太腿辺りを食われると厄介だ、痒すぎて我慢出来ない。
そういえば、あの祭りの日に告白をしたという、れなは見事にフラれた。相手には好きな人がいたらしい。慰めるようなメッセージを送ると、諦められないな、と女の子の本音が返ってきた。
そう、フラれても本当に好きな人のことは諦められないのだ。もしかしたら気持ちを知って好きになってくれるかもしれない、そんな淡い思いも含めて、まだ青い私達に諦めという言葉は受け入れ難い。諦めがつかないことを知っているからか、親しい友人の勇気ある行動に感化されたか、どうかは分からない。
しかし、私は告白をしてしまおうと心に決めてしまった。つい三日前のことである。
次、駅まで一緒に帰ることがあったら、その時思いを告げてしまおうと思っている。単純な思考で決めてしまったことでも、私にとっては重要なことだった。それは逃げだろう、と責める声が自分の中にはある。
当然だ。一年と少し拗らせかけた片思い。それを友人の会話の中で解き放とうと決めてしまったのだ。
最も楽で苦で簡単で苦難な方法を選択した。れなと話をして、告白がどういうものなのか改めて実感した。恋とはどういうものなのか、それも。
私達は誰かに恋をし、愛し、そして私達は生まれる。それがひとの自然であり、この世界が作られてきた所以だ。
私はそれに触れようとしている。段階的にはステップワンという所だが、それでも立派なもののはずだ。ひとの思いは深く、複雑だ。公式を使えば解けるような数学の問題とは違い、どんなに解こうとしても解らないことがほとんどだ。それでもひとが生まれるのは、他者の思いを理解するひとがいて、互いに理解し合える存在をひとは持つからだ。ひとは恋をすることで、自分の価値をそこに見出している。愛し愛されることで、ひとを実感しようとしている。
きっと告白をするときはまだ随分先の話だろう。私の心は唐揚げに出来ないほどのチキンだから、一緒に帰る機会があっても伝えられるかどうか、分からない。それでも、矛盾だらけの私の思いを伝えたいひとがいる。彼に知ってほしい。
承認欲求と簡単には言いにくい、吐き出したい思いは、彼に本当に伝わるだろうか。
綺麗に洗い終わった金魚鉢に少し水を入れると、バカだね、とデメに向かって呟く。そう。私はバカに違いない。大バカだ。
人魚姫も恐らくバカだったのだ。哀れな姫ではなく、バカな姫。
王子と自分の命を天秤にかけて、王子を選んだ。それは愛ゆえなのだろうが、もっと違う選択肢もあったはずなのだ。文字を知っていれば、王子にあの時は自分が助けたと伝えられただろう。それに愛するものを命の天秤にかけてしまった時点で、それが本当に愛と言えるか微妙なところである。
王子も王子で、本当に気になる人のことなら、人魚姫に気付けたはずだ。ああ、王子もバカな人だったのかもしれない。
人魚姫の物語に登場するのは、どの人も頭の働かないバカばかり。恋と愛に踊らされて、溺れたバカ共の話がこの話なのだろう。
悲しい哀しい話にはいつでも涙がつきもので、本の帯には「感動物語!涙200%」とか書かれている。しかし悲劇は私達の人生には必ず訪れるもので、その大小で涙を流すかどうかの違いが、世の中で感動という言葉にまとめられている。
人は簡単に感動の言葉を使う。それは感動が、心を揺るがす大きな感情であると認識しているからだろう。本当に心を動かされたら、人は何も言えないと決まっているのに。
私達は言葉にすればするほど、感情が嘘になる。だから私も本気で彼が好きでも、告白したら好きは劣化してしまう。
彼が好きな感情は私のだけのものだ。感情の劣化はどうあっても防げないけど、劣化する前に彼に届いてほしいなんて幻想は捨てきれない。
この想いがサビになる前に、自分の中にあるありったけの言葉で、吐くしかない。そして彼に言葉を否定してもらう。それが唯一の私の諦める方法なのだ。
澄んだ青空に橙色が混じってきて、入道雲が鮮やかに彩られている。昨日よりも日が暮れるまでが早い気がする。昼の時間が短くなって、夜が長くなっていく。こうして徐々に徐々に夏は終わっていく。夏の終わり、私の恋はまだ終わっていない。
出目金を移し替えた金魚鉢は、緑になりかけていた数分前とは全く違い、向こうまで見ることが出来るくらい、透明だった。出目金は二週間過ごしている鉢に戻ったからか、バケツの中で忙しなく動いていたのが嘘のように底で大人しくしている。
コイツは大物の予感がする。人によって生かされている存在だが、まあ太々しい可愛い態度だ。激しく慌てないところが魅力といえよう。
私もこれくらい図太い精神の持ち主だったら、良かったのにな。
そう思っても精神、性格というものはすぐに変えられない。変えようと思っても無駄な時があるくらいだ。だが、この夏が終わったあとに私の何かは決定的に変わるだろうと思う。一世一代の告白をするからだ。
大袈裟と言われようが、何だろうが構わない。乙女はいつでも本気だ。人魚姫も本気だから命を投げ出せた。そこは尊敬に値する。さすがにフラれても自殺しないが、心に傷はつく。大事なのは傷を受けて、それを糧にして生きられるかどうか。どんな失敗も生きることに繋がるはずだ。
私は彼に告白するのだ。
この暗い感情も劣化した思いも、その全てを打ち明けなければならない。そうして彼が受け止めたらハッピーエンドだろう。
だけど現実が甘くないことを知っている。初めから終末を見ていても仕方がない。希望は常に持たなくてはならない。そもそも恋心という、素晴らしい感情に出会えたことが夢のようなのだ。
最も哀れなのは誰かを決めるのは、誰でもない、自分なのだと気付ける私は哀れではない。それは失恋しても良いという自己満足かもしれないが、それでもいいのだ。私の感情はどうあっても私のもので、コントロール不足だって仕方ない。
金魚鉢を定位置に戻すと、出目金は丸い鉢の底をくるり、と一周した。人魚姫の美しい尾鰭を持った金魚のそれは、思いを告げようとしている私を励まそうとしているよう。お礼を込めて軽く鉢を指先でノックすれば、夏の終わりは余計に近づいた気がした。
もうすぐ新しい季節が始まる。
きっと私の思いも新しく始まるに違いない。
真夏の人魚姫 霞ヶ関 @kusumigaseki
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