4.姫琴さんは何も出来ない。
4-1.姫琴は再度勇気を振り絞る。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る前に教室へ帰る。
未だ視線は直線的にわたしと葦木くんを刺していた。
人の噂も百五日。いずれこの好機が薄れていくことを願って甘んじる。一応、一緒に噂の対象になるのが葦木くんと言う点を踏まえてひと月分加算しているのだけれど……ひと月で済むと良いなぁ。
その中で、帆篠さんの目が一際鋭利にわたし達を射抜いていた。
それは一瞬の出来事だったけれど、確かに感じたその視線。
釘を打たれたような鈍い痛みはきっと錯覚だろう。しかし、確かに目の奥が灼ける様な感覚が残り、葦木くんも同じ感覚を覚えている様だった。
つい今し方そんな話をしたのだから仕方がない。
普段なら葦木くんは彼女の視線に気付かなかったかもしれない。少しだけ不安になり葦木くんを見上げると、彼はわたしの言葉を守り、それに気付かないフリをしてそっぽを向いていた。
ほっと溜息を吐き彼女に視線を戻した時には、帆篠さんはいつもの様に窓の外を眺めていた。
空には淡い雲が連なり次第に厚さを集めつつある。先ほどまでわたし達の頭上にあったものとは別の、季節に沿った天候が訪れるであろう予兆を視認できる空だった。
今し方携帯で確認した予報では、明日から雨が続き、そのまま梅雨入りするらしい。
「確かに、帆篠のやつなんか様子がおかしいな」
葦木くんはいつもよりも少しだけ気怠そうな声色を零す。わたしは頷きもせず、瞬きを大きく一度して返事をした。
再び帆篠さんの視線がわたしへ向き、そのすぐ後には教室を対角に歩いて来た黒斗くんに移っていった。
「考えてくれたか、この間の話」
黒斗くんは静かに告げたが、その声はわたしの耳にも確かに届く。
理解不能の胸騒ぎがして、わたしは立ち尽くしたままその動向を注視することしかできなかった。
「……あの時はありがとう。助かったわ」
会話は成立しているのだろうか。
その成り行きを知らないわたしはあくまで憶測の域を出ない想像を膨らませるばかりで、粗くなる呼吸を落ち着かせることもままならない。
どうしてだろう、彼女達の間にある繋がりを受け入れる事に拒絶反応が出てしまう。
もし、二人の間に特別な関係性があったとしても、彼女達は美男美女のカップルだ。誰が見てもお似合いの二人のはずなのに、その間に立って邪魔をしたくなる。
あくまで邪推だと言い聞かせる。
「聞いたか、今の会話」
葦木くんは周囲に感取られないよう声を殺す。
「今の、絶対エロい話だよな」
なんでそうなるの。
張り詰めていた緊張感が溶けてしまい、やっと肺に酸素が満ちる。
真剣な顔して変なこと考えないでよ……健全な男子なら普通なのかな? いや、騙されないぞ、わたしは。
帆篠さん達の会話もそれ以上続く気配がない。黒斗くんは姿を消し、帆篠さんも頬杖をついて空の観察に戻っていた。
とりあえず葦木くんを睨み、一言物申す。
「絶対にエッチな話じゃないからね!」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
終業の号令のすぐ後、わたしの好きなお菓子について葦木くんは口早に聴取した後、脱兎の如く駆けて行った。
「最高の甘味を君に送る! 明日をお楽しみに!」
そう残して。
もしかして、明日にでも作って来てくれるのだろうか。
でも、シュークリームって難しいんだよね。なかなか綺麗に膨らまないんだよなぁ。まぁ、料理上手な彼の事だから、その出来については期待しても良いのかもしれない。
ただ、彼にお菓子づくりは似合わないなと少し笑った。ビジュアル的な話だよ。
部活に向かう生徒達で彩られた雑踏が落ち着きを見せ始めた頃、わたしも友人達を見送って一人になった。
クラスには数人の生徒とうら寂しさだけが残り、雲の切れ間から漏れる赤い夕日が今日の終わりを告げている。
立ち上がり、鞄を手に大きく深呼吸した。
ゆっくりと、一歩を気持ち大きめに踏み出して軋む床を鳴らす。
立ち止まったところで、今度は浅く息をした。
「ほ、帆篠さん。良かったら一緒に帰らない?」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
職員室へ走り出したあの時より、悪魔の葦木くんと対峙した時よりも心臓は大きく鼓動を鳴らしている。その音が周囲に漏れていないか心配になって、胸元で強く手を握った。
隣には帆篠さんの横顔。
整った顔立ちは近くで見れば見るほどに見目麗しいことがわかる。烏の濡れ羽色の艶やかな髪は歩く度柔らかく揺れ、肌の白さを際立たせている。
いつも盗み見ていた冷ややかな表情が、今はすぐ隣にある。
それは非日常的に欺瞞を孕んでいる風に思えて、奇妙な浮遊感を生み出す。現実離れした光景に目眩がしそうになる。
「帆篠さんは、部活には入って無いんだよね?」
誘った手前沈黙を作るのも気不味く、そんなどうでも良いことを口走る。
彼女は「ええ」と一言だけ返して、わたし達の間にはまた静寂が戻った。
やっぱり葦木くんの言っていた事は嘘なんじゃなかろうか。帆篠さんが冗談を言いながら楽しげに話をする姿なんて想像できない。期待はしてなかったけどさ、少しは信じてたよ。
「姫琴さん、あたしに何か用があったんじゃなかったのかしら?」
落とした肩がびくりと普段より高い位置に上がる。帆篠さんの視線は進行方向を向いたまま、わたしの表情を伺う事もせずにゆっくりと歩を進めていた。
「えっと……用事と言うかその……」
「違うの? 用もなくあたしに声をかける人なんて、今までいなかったからつい……」
寒気が内臓を冷やして、夏を飛び越して冬が来たようだった。
息を呑み、躊躇いの沈黙が生まれる。
相変わらず歩みが止まる事はない。ただ、ほんの少しだけ彼女の足の運びが早くなった気がした。
「ううん……えっと、わたしずっと前から帆篠さんとお話ししたいと思ってて……」
駅へ向かう足取りを合わせ、なんとか隣に寄り添おうとするけれど、結果わたしは彼女を後ろから追っている。
顔を見るのが怖かったからかもしれない。明確な拒絶を恐れていたからかもしれない。
話したいことがたくさんある筈なのに、どうしても伝えたいことがあるのに言葉は喉どころか、胸の奥からも姿を現さない。
自分の想いは簡単に口にすることが出来るのだと、それは慢心だったのだろうか。
想いに重みが足りないから、それは掴み所がなくなってしまっているのだろうか。
「話したい事がないのなら……」
急に立ち止まり彼女は言った。
振り返る横顔に赤い影が映る。咄嗟に目をそらし、わたしの爪先にかかる彼女の影を見つめる。
言葉が出ない。なんと言うか、泣き出してしまいそうだ。
「姫琴さんの事を教えて」
優しく微笑む彼女は、わたしが今まで見た事がない表情だった。
喜びと同時に、棘の痛みが胸を締め付けた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「姫琴さんは友達が多いわよね」
歩くスピードは時計の秒針の様にゆったりしていて、太陽の沈みよりも遅かった。
他の帰宅部生にどんどん追い抜かれて、わたし達の背後には誰の姿もない。斜陽は影を長く地平から伸ばしている。
わたしは黙って言葉に耳を傾けた。
「あたしは友達がいないからよくわからないのだけれど、とある知り合いが友達が出来たって大喜びだったの。
……やっぱり、友達って良いものなの?」
彼女の面持ちは崩れない。
その言葉の真意は表面には無い。ただなぞるだけでは他愛のない話になってしまう。
でもわたしには、彼女の欲している答えがわかっていた。
質問への答えだけが正解ではないと、捻くれた言葉の交流がここにはあった。だから、質問に質問で返すことにする。
「それって、葦木くんのこと?」
「御名答」
笑顔と呼ぶには慎ましい微笑み。どちらかと言えば悲しみの色が強く見える。
その意味合いはとても複雑だろうから、察する事はとても難しい。
「彼に友達が出来たと聞いて、凄く驚いたわ。あんな人と仲良くできるなんて、とんだ変わり者だって。
まさか、姫琴さんの事だとは夢にも思わなかった」
彼等の交流は、わたしには窺い知れないところだ。
二人でいるときにどんな話をするのか、お互いにどう思っているのか、それは第三者であるわたしにはわからない。
葦木くんは彼女について、はっきりと『嫌い』と言い放った。
彼がその言葉に何かしらの意味合いを持たせていた様には思えないけれど、単純な嫌悪が存在するのだとは信じたくなかった。
しかし、それはあくまでわたしの希望でしかない。
帆篠さんはどうなのだろう。
「帆篠さんは、葦木くんをどう思っているの?」
それはとても怖い問い掛けだった。
先だった彼女の眼差しはとても冷たく、この身を裂く様に剣呑であったことは未だに覚えている。
その理由は一体どういうものなのだろう。そして、どちらに向けられたものなのだろう。
様々な憶測は内輪揉めを起こし、諍いとなって収集はつきそうにない。
答えを得るには彼女の声に耳を澄ませるしかない。わたしもそれに従うしかない。
「そうね……その質問には、答えられないわ」
静かな声には静けさが満ちている。
世界に彼女だけしかいないんじゃないかと錯覚させる様な、寂しい声だった。
「なんと表現すれば良いのかわからないの。
初めてだから、こんな気持ちは」
笑顔ではない微笑みは影に隠れた。消え入りそうな声はアスファルトを蹴る音にすら掻き消されてしまいそうになる。
わたしは黙ってその言の葉が紡がれるのを傍観する。
「彼はとても真っ直ぐな人でしょう?」
わたしの返答を待つ舌触りが耳をくすぐった。
「そうだね、驚いちゃうくらい」
真っ直ぐ、単純、純粋。
彼を言い表すのならば、これほど易い言葉は他にはない。
それは彼が人間ではないからなのかもしれない。この社会のしがらみが彼には|まだ|存在しない。だからこそ、自分の生きたい様に生きるし、言い換えるのなら、わがままに生きることが出来る。
でも、それは次第に矯正されてしまうのだろう。
毎日の様に先生に呼び出されて、わたしからは魔法の使用を咎められて、ある意味での『自由』を制限されていく代わりに、彼は人間としての立場を作り上げていく。
それが幸せなことなのかはわからない。彼の自由さを少なからず羨ましいと感じる人もいるだろう。
それが帆篠さんなのではないかと思った。
「普通、面と向かって『大嫌い』なんて言えないわ。たとえそれが嘘だったとしても、本心なら尚更。
少なくとも、あたしにはね」
葦木くんのわたしへの言葉はとても純粋だ。
同じく、帆篠さんへ向けられた言葉も同じ色なのだろう。
胸が痛くなる。
「それに比べてわたしは歪んでいるから、だからこの気持ちを形容できないの。
葦木君のくらい単純なら良かったのだけれど」
帆篠さんはいつもひとりだ。
授業を受けている間も、皆がくだらない雑談に花を咲かせている時もその輪に加わっているときだって、そして、わたしとこうして話をしている瞬間もそうだ。
孤独は強さだと、彼女の姿を見る度わたしは感じる。ひとりでいる強さが人には無いから、誰かに寄り添う事でみんなその弱さを隠している。
わたしもその大多数の弱者のうちの一人で、帆篠さんはそうでは無い。そして、葦木くんもそうでは無い。
二人は正反対で、でも凄く似ているのだ。
「葦木くん、凄く素敵な人だよ」
どちらかを肯定する為に、もう一方を否定する事はとても簡単だ。
そんな簡単なことができないわたしはとても弱い。今、帆篠さんを慰める事が大きな咎である気がして、曖昧な言葉しか口に出来ない。
帆篠さんにはそんなわたしの狡さがバレてしまっている気がした。
「あたしは、あなたが凄く羨ましいわ」
その青い青は限界まで濃く、暗く彼女の言葉を限り無く濁す。
憧れの灯りであった帆篠さんのそんな言葉にも、黙って微笑むことしかできなかった。
「おい、帆篠雫月!」
不意に呼び止める声。
思わず暗がりへ視線を返す。
「ちょっと、こっち来なよ」
いつかの昼休み、彼女を取り囲んでいた三年生の集団が柄の悪い男達と群れになって、いやらしく笑いながらこちらを見ていた。
わたしの鼓動は早くなり、ベタついた汗が首筋から背中に流れるのを感じていた。
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