4-2.姫琴は何も出来ない。
「こいつの顔覚えてるでしょ。こないだあんたに告白した、栗田ってんだけどさ」
あの時帆篠さんに詰め寄っていたーー確か麗華と呼ばれていただろうかーー三年生の女子は顎で一人の男子を指す。見たことのあるその男子は、確か三年生であった筈だ。あまり良い噂を聞かない一団のひとり。拙い記憶力が不安を後押しする。
取り巻き達は「めちゃ可愛い子じゃん、そりゃお前振られるっての。だせぇな」と下品な笑い声をあげ、栗田と呼ばれた男も「うるせぇよ」なんてじゃれていた。
帆篠さんは普段通りの乾いた表情に戻っている。まるで興味が無いと言わんばかりの鋭い視線は真っ直ぐに彼等を刺して、自らの身に迫る危機など予感していないかの様だった。
「あん時、舐めた口聞いてくれたから、合わせてお礼したげようと思ってさ。
ほら、来なよ。ビビってんの?」
彼女達が帆篠さんに何をするつもりなのか、想像に難く無い。
朧に目にしたことがある顔と、うちの学校の生徒では無い、街ですれ違うときに身を縮めてしまう様な風貌の男達が合わせて十数名。
下卑た表情に、侮蔑より先に恐怖が訪れた。
恥ずかしい話、わたしは膝が震えてしまっていた。その笑う膝に相反して、心の底では泣き言が溢れそうになる。
彼女の手を取って逃げ出すことすらできなかった。
帆篠さんは溜息ひとつ吐いて鞄を肩に掛けなおした。
「じゃあ、呼ばれているから行くわ。ひとりで帰れるでしょう?」
路地裏の暗がりに歩を進める。その背中には恐怖は感じられない。
彼女はとても強い。
この状況で身震いひとつ見せない。わたしとは正反対だ。何ひとつできないわたしとは。
強さとは、勿論腕力の話ではない。その胸の内に秘めた支柱を指差し、わたしはそう呼んでいる。
彼女はとても強い。
そんな事はずっと前から知っていて、それは憧れであり、わたしが最も欲すものであり、帆篠さんはそれを持つただ一人の人。
今日やっと声をかけることができたのだ。もしかしたら、明日も勇気を出せるかもしれない。それでも、眼前には絶望の暗幕が重く重く下がっていてその先の未来を阻んでいる。
そこに足を踏み入れる事が強さの表れであるのなら、今この瞬間、彼女のそんな強さを否定したくもなった。
彼女の全身が視界に入る頃、帆篠さんは立ち止まり振り返る。
「楽しかったわ。また、帰りに誘ってね」
何故そんなことを言うのだろう。
立ちすくむわたしに、どうしてそんなことを言うのだろう。
何も喋れなかったのに、言いたい事はひとつも言えなかったのに。楽しい話なんて、全くできなかったのに。
「待って!」
集団に囲まれ路地裏に消える彼女。
相変わらずわたしは動けずに、ただ頬には大粒の涙が伝った。
ひたすら自分が情けなくて、憎くて、恥ずかしくて、しかしそれでも息をしている。
こみ上げるべき想いは、悲観や自己嫌悪じゃないはずだ。今見るべきは、この弱い体じゃないはずだ。
思い出せ、思い出せ。
帆篠さんの姿を、あの日帆篠さんがわたしに掛けてくれた言葉を。忘れることができないあの時のことを。帆篠さんはきっと、そんな昔のことを覚えていないだろうけれど、わたしにとってかけがえのない想い出を。
強くなるんだろ、彼女が手を差し伸べるなら、その手を掴むんだろう。今がその時じゃないの?
思い出せ、帆篠さんに憧れを抱いた日のことを!
思い出せ!
思い出して!
お願い、姫琴彩!
……お願いだから、動いて。
「……助けて、葦木くん」
「呼んだ?」
「キャァァァァァァァァ!!」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
葦木くんの声に思わず絶叫をあげた。つられて彼も叫び声をあげる。
「あ、葦木くんいつからいたの!?」
「いや、今だけど。なんか呼ばれたから来た。て言うか、びっくりした……」
こっちの台詞だよ。
思わず呟いただけなのに、なんて地獄耳なんだろう。流石は悪魔といったところか。そんな彼だから瞬間移動を使えても不思議ではない。
未だ心臓は全力疾走した後の様に興奮している。葦木くんは不思議そうにわたしの顔を覗き込み、怪訝そうな表情で言う。
「……泣いてるのか?」
彼の言葉に、思い出したかのように再び涙が溢れた。
そうだよ、泣いてるんだよ。かっこ悪いでしょ?
「どうした、姫琴! 何があった!?」
とめどない涙は視界と心を霞ませる。
嗚咽は想いを濁らせる。
彼の言葉は空を曇らせた。
「ほ、帆篠さんが……」
言葉を形にするのは、想いを言葉にするのと同じなのだろうか。言葉にしなければ、想いは届かない事は当たり前で、少なからずわたしでもわかっている事だった。
それでも、葦木くんは「わかった」と頷く。
言い終わるより先に彼はわたしの手を取り走り出した。千切れるんじゃ無いかと思うくらい強い力で、凍えるんじゃ無いかというくらい冷たい手の平で、わたしの手を握る。
路地裏を抜けて、夕闇の始まりを過ぎた路地の行き止まりまで、まるで風の様に走った。目が回るほどの疾走は、目まぐるしく変わる汚れた壁の色で映し出され、行き着く先には呼吸をする間も無く辿り着いた。
横に流れる涙は、彼方に落ちて行く。
目指した先に、取り囲まれた帆篠さんと、吐き気のする淀んだ空気が満ちていた。
麗華はわたし達を見つけると、笑いながら言った。
「あれ? あんた逃げなかったんだ? お友達の恥ずかしいところ、一緒に見たいの?」
機嫌をとるように皆笑う。低劣な視線に胸が熱くなる。
帆篠さんは目を丸くしてわたし達をーー葦木くんをーー見つめていた。
息も切らさず彼は言う。
「なんかよくわからんのだけど、あいつらって不良? だよな。なるほど、不良ってモテなさそうだな。あの自己紹介が失敗した理由がわかったぜ」
葦木くんは苦々しく口元を歪めた。
わたしは少しだけ呆れて、でもどこか安心感を覚えていた。
「やいやい不良ども! 今からそいつをリンチしようとしてるんだろ! リンチは体育館裏って相場が決まってんだよ! お約束は守れよ! 不良の風上にも置けねぇな!」
指差しながら見得を切る葦木くんに、周囲の空気は張り詰めた。
「リンチより、もっと良いことかもよ?」
悪心とはこの事だ。
寒気がするほどの悪意を滲ませて見せる表情には、何を返せば良いのだろう。
「お前、あの時も邪魔してくれたやつだよね。噂通りの馬鹿みたいじゃん」
「うるせぇ、馬鹿って言う奴が馬鹿なんだよバカ。ギャルならギャルらしく、女らしい言葉遣いやがれ、このギャルめ」
麗華の額に青筋が浮く。
帆篠さんを囲んでいた男達がこちらに視線を向け睨みを利かせている。
あの夜に見た悪魔の目付きに比べれば可愛いものだった。
そしてその悪魔は今、わたしの隣にいる葦木くんに他ならない。それが恐怖を多少緩和してくれた。
強がりにしかならない自信を拳に握り、そこで葦木くんと手を繋いだままだったことを思い出し慌てて距離を取る。
少し残念そうな葦木くんの背中に隠れて、やっと彼女達を睨むことが出来た。
帆篠さんは相変わらず状況が読めない様で、ぽかんとこちらを注視するばかり。
よかった、まだ何もされていないようだ。
「先にお前から殺してやろうか」
体格の良い男が低い唸り声をあげた。まるでプロレスラーのように太い腕がタンクトップから伸び、和彫りの刺青がチラリと覗いている。
拳の骨を鳴らしながら、如何にも暴力的な姿で私達を威嚇した。
「な、なんだ!? 俺をリンチするつもりか!? やめろ! 俺をリンチするんじゃねえ!
一対多数なんて卑怯だぞ! 許せん、全員まとめてかかってこい!」
どっちだよ、一体どっちなんだよ!
思わずつっこんでしまった。勿論心の中でだけれど。
あぁ、なんか心配になってきた。
葦木くんの正体が悪魔と言えども、今はただの高校生だ。体格だって立派じゃ無いし、どちらかと言えば痩せ型だ。
普通に考えて、今の状況は絶望的だ。百人いれば百人が向こうに掛け金を持ち寄るだろう。
此の期に及んで不安が押し寄せてくる。再び訪れた恐怖に飲み込まれてしまいそうだ。
が、それは杞憂であった。
男が一人、彼に殴りかかったところまでは覚えている。
「おい、立て。これじゃ俺が悪者みたいだろ。もう不良の真似はやめたんだ。正々堂々とやってやるから、早く起きやがれ」
何が起こったのかわからなかった。
気が付くと男達は全員地面に倒れ伏していた。正直な話、怖くて少し目を閉じていたから、わたしにはものの数秒の間に起こった出来事を確認できていない。
それでも今立っているのは葦木くんと三年生の女子数名だけで、あとの男達は呻き声を上げながら身をよじっている。
戦況がどのようなものかと言うのは一目瞭然だった。
「姫琴、見たか? これが『悪魔パンチ』だ。まぁ、人間相手だしだいぶ手加減しちゃったんだけど」
ごめん、見てなかった。
「……は? な、なにあんた」
青ざめた麗華は唇を震わせて後退りをする。
無理もない、十人以上いた仲間達が一瞬でこのざまだ。その恐怖は計り知れるところだよ。
でも、行き止まりの路地裏には逃げ場はない。
「俺は葦木って言って、姫琴の友達だ。そこにいる帆篠とは……なんだろ?」
首をひねる葦木くんを帆篠さんはじっと見つめている。その眼差しには、うっすらと不安、そして期待が込められているようだった。
彼が出す答えをただ食い入るように、そして気持ちを重ねながら視線を送る帆篠さんと一緒にわたしも息を呑んだ。
数秒考えて、葦木くんは言った。
「……なんかよくわからんけど、とりあえずこれだけは言っておくぞ」
そこで諦めないでよ。なにかしらの答えを出そうよ。
肩透かしをくらい多少の期待外れ感が否めないままに溜息を吐く。
でも改めて友達と呼ばれたことで、わたしは少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
「帆篠を悲しませるようなことは、俺が絶対に許さん!」
突き立てられた人差し指に、しっかりとした決意が込められていた。
誰も口答えをする事なく、葦木くんの鋭い目付きから逃げられないでいる。悪魔の時に見せたものとは別の力強さが宿っていた。
わたしとの約束は、少し形を変えて彼の中で生きているのだとまた胸が熱くなる。
誰も口を開かなかった。それは彼女達の敗北と受け止めて差し支えないだろう。
葦木くんもそれを感じたのか、立ち尽くす帆篠さんにこう呼びかけた。
「ほら、帰るぞ帆篠。
俺はシュークリーム作りで忙しいんだ」
呆れたように、そして少し気恥ずかしそうに笑う帆篠さんを迎えてからわたしは彼女達に挟まれて踵を返す。
古いビルの谷間にわたし達の足音が繰り返し響く。三者三様の靴音は重なる事なく木霊して、しばらくの間静けさを妨げた。
狭い空には黒い雲が立ち込めていて、今にも泣き出しそうな湿った空気を飲み込んで行く。
隣を歩く葦木くんを見上げながら、まだ鳴り止まない鼓動に負けないよう告げた。
「ありがとう、葦木くん」
彼は照れ臭そうに笑う。友達だからな、と鼻を掻きながらそっぽを向いてその表情を隠した。
帆篠さんは少しだけ嬉しそうに俯いて、私達より一歩先を歩いた。
その背中を追いながら、葦木くんの袖を掴みこっちを向いてと合図した。
「葦木くん、お願いがあるんだけど」
帆篠さんに聞こえないよう、声を殺して彼の耳に囁く。
「明日のシュークリーム、三個作ってもらって良い?」
「え? な、なんのことだろう? シュークリームなんて俺にはさっぱり……」
挙動不審に取り繕う彼にわたしは笑顔を返す。
「あと……明日だけは、天気を晴れにして欲しいな」
わたし達の街では、他の街の空よりもまた少しだけ梅雨入りが遅くなる模様だ。
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