20回目

「ねぇ、ちょっといいかしら」

「うん、なんだ?」

 本の山の中から特に分厚く読みづらそうな物を選び出し、四苦八苦ながらも格闘していた青年は、目覚めたばかりの少女の声に振り返った。

 雨か曇りかの二択しかなかった時期が終わり、入道雲が激しく自己主張するようになった頃。青年は毎日冷房の効いた少女の部屋を訪れていた。

 彼の背中の鎌も心なしか輝きが減っている。この死神は暑さに弱すぎだと少女は感じていた。実際、たまに下を通りかかるアイスクリームカーを真剣に観察する姿は、そう捉えられても仕方がないものだったといえる。

 部屋の機械は前にも増して増えている。本を元の場所に戻し、床に張り巡らされたコードを踏まないよう慎重に寝台へ向かう姿に、少女は快活に笑った。

 今日の彼女は妙に元気がいい。何かいいことでもあったのだろうか。

「そろそろちゃんとした呼び方を決めましょう。 何時までも『貴方』『お前』は面白くないわ。私だけ敬称を使っているの、前から嫌だったの」

 欠伸を噛み殺しながら少女が提案する。爽やかな朝顔のカーテンに気を取られかけていた青年は、慌てて向き直り軽く頷いてみせた。

「確かに悪くない意見だ。しかし、残念なことに俺は名無しなんだよ。ま、死神に名前があっても仕方ないが。相手に教えたところで親近感を抱かれはしない」

 少女は数秒驚いた様子だったが、やがて意地の悪そうな笑みを浮かべた。

「じゃあ私が付けてあげるわ。そうね、貴方は死神だから『グリムリーパー』とか『セト』とか……。単純に『デスマン』というのも悪くないわね」

「『人間』という名前の人間はいない。自己紹介にでも使えそうな無難な物にしてくれ。同僚に俺はハデスだなんて言ったらどう思われるか」

「ちょっと、ただでさえ蝉が喧しいんだから声を張らないでよ」

心なしか弱々しい青年の声は、更に激しくなった騒音に塗り潰された。気温が相乗的に上昇していくような感覚に襲われ、少女は何度も寝返りを打つ。

「これじゃ考えも纏まりようがないわ。あぁ、これだから夏は嫌い」

 普段は静謐な空気で満たされているこの部屋も、今日はそうはいかなかった。締め切られているはずの扉の隙間から猛烈な熱波が流れ込んでいるかの様だ。

「ほう、それは勿体ないな。今だからこそ楽しめることもあるというのに」

「ふぅん、例えば?」

 何処からか取り出した団扇を千切れんばかりの速度で振る青年に若干気圧されつつ、少女は首を傾けた。大方適当に反論してみただけだろう。

「まず外を見てみろ。話はそれからだ」

 しかし予想に反して、考え込む様子もなく彼は即答した。よっぽど自信があるのだろうか。病院から出られない少女にとっては何であれ大した意味はないが。

 少女は視線を体ごと動かした。窓ガラスに張り付いていたアゲハ蝶が不器用にふわふわと飛んでいく。日光の眩しさに彼女は思わず目を細めた。

 沢山の人々がてんでんばらばらに歩いている。帽子を深く被ったりタオルを首に巻いたりして少しでも凌ごうとする者や、手を繋いで笑いながら歩く親子。ペットボトルを勢いよく飲み干す学生服の集団に、日陰で汗を拭き安らぐ老人。

「皆今年もご苦労ですこと。で、彼らがどうしたって訳?」

「俺たちは涼しい部屋にいるという優越感を味わえる。ここでかき氷や西瓜なんかが有るとなお一層楽しめるんだが、少し贅沢か」

「私よりもよっぽど歪んだ考え方してるじゃない、貴方」

「そうかもしれないが、取り敢えず俺は遥かにこの季節を堪能している。うだうだと愚痴を垂れ流しているお前よりはな」

 非常に荒唐無稽な道理をしてやったという体で語る青年を、少女が刺さるぐらいに鋭い目線で睨んだ。思わず怯めば、間髪入れずに捲くし立てられる。

「貴方は時々そうやって無理に自分を棚に上げて人を貶めるけど、苛々させるだけなのにいつまでも自分は賢いって顔で語るのは馬鹿みたいだとしか表現しようがないわ。そんなに小学生みたくちっぽけな優越感に浸りたいなら独りでやって。傍らで気持ちを抑えている私のことも考えてよ」

「邪な気持ちで発言しているわけではない。ただちょっとした冗談を」

「その『ちょっと』が良くないの。大体これで笑えるのって貴方だけよ」

 青年は瞬時に口を噤んだ。これ以上何を言っても火に油を注ぐだけだ。実際少女の指摘は間違っていない。今後はこうならないようせいぜい気を付けるとしよう。

 しかし彼がどれだけ深く反省しようが、少女の激情が収まるわけではない。

「この際だから不満に思っていた事を全部教えてあげる。最初に会った時からだけど、謎めいた言い方をしていちいち戸惑わせないで。質問しなくても分かるように言いなさい。それぐらいの配慮は出来るでしょ」

 外では花壇に植えられたヒマワリがそよそよと揺れている。黄に茶、緑といったコントラストがはっきりした佇まいは、絵に描きたくなるぐらい雄大だった。

「都合が悪いことを言われた時、黙ってやり過ごそうとするのをやめて。毎回そこで話が止まって面倒よ。仕切り直すならさっさとそうすればいいじゃない」

 飛行機が青空に白線を引いた。時間が立つにつれ徐々に薄くなっていく。

「ちゃんと聞いてる? 返事をして」

「あぁ、これからは善処する。二度と同じ過ちはしないと約束しよう」

 話を殆ど聞かずに外を眺めていたにも関わらず、青年は白々しく了承してみせた。

「ふーん、どうだか」

 対して少女は半信半疑といった様子。これまでの彼の態度を考えれば当然だろう。

「さて、そろそろ俺の名前の件に戻ってもいいはずだ」

「最初に話題を逸らしたのは貴方でしょう。えっと、普通の名前がいいのよね」

「そうだ。凝ったものでなくてもいいから気軽に使える奴がいい」

 少女はしばらく考えたが、大していい物は思いつかなかった。

 時は着々と進む。気付いた頃には、外は既に茜色に染め上げられていた。

「今度来る時までに考えておくわ。数時間もあれば似合うものが浮かぶはずよ」

「出来れば今日中が良かったが、仕方ない。今度に取っておくとしよう」

 やれやれ、といった調子で肩を竦める青年。彼の手には来た時と同じ本が握られている。挟まれた栞の位置から判断するに、漸く半分読み終えた所だ。

『貴方はずっと本を読んでいただけでしょう。だったら一緒に考えてよ』

 少女はこう食ってかかろうとして、あることを伝え忘れていたのを思い出した。

「そうだ。貴方、今日何時になったら帰るつもり?」

「仕事があるからな。そろそろ行かないと不味い」

「ふぅん。じゃあ、夜になってからもう一度来て。いい物が見られるから」

「構わないが、『いい物』とはなんだ」

 青年は本を置いて去ろうとしつつ、左手で額を強く押さえた。可能ならずっとここで涼しさに浸っていたいのだろう。

「来れば分かるわ。ふふ、楽しみに待ってなさい」

「ほう、後でな」

 怪訝な顔をした青年は、唐突に空間から消失した。




 日が沈み、代わりに人造の明かりが辺りを照らすようになった頃。

 看護師に本を読んでもらってからぼんやりしていた少女は、時計の針が九時を指しているのを目にして、一気に覚醒した。

「やっとか。俺を呼び出しておいて、自分が寝ているというのはおかしい。お前は」

 説教を始めようとする青年を右手で制し、窓の外を指さす。彼女にとって夏の風物詩を挙げるとすれば、蝉の声を除けばこれぐらいしかない。だからこそこのイベントへの思い入れは、人を上回って余りある物があった。

「間に合って良かった。ほら、すぐ始まるから、しっかり注目して」

 そう言い終わるか終わらないかの内に、紅色の大輪が暗闇に弾けた。

 更に緑、白銀。遅れて金色の光が激しく飛び散る。

「成程、花火か。なかなかに美しいな」

「ええ、でしょう。毎年これを心待ちにしてるの」

 自分の事のように喜ぶ少女に、青年は一瞬目をやって微笑んだ。少女が花火に夢中になっていたお陰で、彼は怒鳴られずに済んだ。

 病室からの花火はやや小さく見えたが、夜景と合わさって綺麗に夜を彩っていた。

 そのまましばらく二人は黙って夜空の興業を眺めた。だから少女が口火を切ったのは、全てが終わってしまった後になってからだ。

「そうだ。貴方の名前、決まったわ」

「本当か。早速教えてくれ」

 待ちきれないとでも言いたげに身を乗り出す青年の耳に、そっと囁く。

「そう急がなくてもいいでしょ、


 



 

 



 

 

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