2回目
曇り空の夕方。今にもぽつぽつと雨が降り始めそうなしっとりとした雰囲気の中でも、この部屋が纏う冷たい雰囲気はそれほど変わりはしない。
白衣に身を包んだ人々が足早に廊下を通り過ぎて行った。靴が床を叩く騒がしい音が連続し、微睡んでいた少女を寝覚めさせる。
顔を覆い隠していた髪を鬱陶しそうに振り払ってから、彼女は眉を露骨に歪めた。
こんな時間に起きていても暇を持て余すだけだ。身体は普段と変わらず怠く、唇はしっとりと冷たい。夢の世界に帰ろうにも、この苛立った気持ちを静めないことにはそう上手くはいかないだろう。天井をぼんやりと見上げ、そっと溜息を吐く。
「はぁ、最悪。災難もいいところね」
布団に潜り、出来るだけきつく目を瞑る。と、その上から突然声が掛けられた。
「おいおい、折角起きたんだ。少しは俺と話でもしろ。こっちが待ったかいがない」
あの青年がいつの間にか枕元に立っていた。相変わらず仰々しい大鎌を担ぎ、服装も同じだ。ぴたりと凍り付いた少女に、にこりとして右手を軽く振る。
「二度目だな。どうだ、調子は。少しは楽しく過ごしてくれているといいのだが」
『どうだ、じゃないでしょ。突然いなくなっておいて、馬鹿にしてるの?』
少女は咄嗟に頭に浮かんだ台詞を口に出せなかった。黙り込んだまま瞬きを何度も何度も繰り返す。青年が頭をさっと掻く音が、二十秒程の空白を断ち切るまで。
「前よりも反応が悪い。喜んでもらえると期待していた俺が間抜けだった。無反応なのは辛いから、何か言ってくれないか」
「......夢だと思ってた。最近退屈だったから、そういう妙なこともあるのかと」
ぽつりと少女が零した言葉に、青年は肩を落とした。靴が床に擦れ、耳障りな甲高い音を立てる。彼は三本足の椅子を寝台の隣まで運び、疲れたように座り込んだ。
「酷いな。確かにこの姿は少々怪しいのは否めないが、それでも実際に目の前にいるのは確かだ。前にちょっとした技も披露しただろ」
「あれぐらいで調子に乗らないで。自分でも曲芸だって言ってたでしょ」
「覚えていてくれたのか。それは嬉しいな」
顔を綻ばせた青年に、少女は呆れて文句も出なかった。やりづらそうに首を振る。
「さて、何はともあれ。俺が今日どうして来たのかは分かっているだろう」
「ええ、今度こそ命を奪う為よね」
「違う。面白い話の種を教えてやると、去り際に確かに約束したろ」
「そうだったかしら。忘れてしまったわ」
嘯く少女の姿に青年は不機嫌そうに歯噛みした。その分かり易いはっきりした態度がからかわれる原因だとは気付かずに。
「捻くれ者だな。無関心を気取らなくてもいい。俺に嘘を付く必要が何処にある」
「思った通りに一字一句違わず話しているだけ。大体、まだ謝罪の言葉を聞いていないのだけど。有耶無耶のまま誤魔化そうとしないで」
「別に過ちを犯した訳じゃないからな。勝手にお前が勘違いしただけだ」
「ちょっと、悪いのは貴方でしょ。私に落ち度なんて欠片もない」
次々にテンポよく飛び出す言葉が快い。喧嘩腰の物言いとは裏腹に、少女は隠そうともせずに楽しそうに笑っていた。反比例して青年の面様は暗くなっていったが。
十分程同じようなやり取りを繰り返した後、先に折れたのは青年の方だった。
「分かった、俺の失敗を認める。認めるから、ここでこの話は終わりだ。わざわざ口論する為にずっと待っていたわけじゃないしな」
外はいつの間にか紺色に染まり、水溜りが幾つも出来ている。スーツ姿の集団が傘も差さずに駆けていく。どうやら天気が変わったらしい。
「さっさとそうすれば良かったのに。角が立つような喋り方はしないことね」
「くっ。とにかく、この話を聞け。いいか、茶々を入れるなよ」
彼は無自覚に両腕を掲げ、声を無理に作って語り始めた。
先に聞いておこう。お前は『天道虫』というものを知っているか?
何故睨む。確認をとっただけだ。どんな物か説明するのは面倒だから、省けて良かった。とはいえ念の為一応解説を……、しなくていいみたいだな。
これはそいつに関するストーリーだ。冷たい目をやめろ、ちゃんと面白いから。
大丈夫だ、向こうに着いてから『私の所に来た死神が語ってくれたんだけどね』という感じで切り出せばきっと喜んで耳を傾けてくれるだろう。多分。
これは同僚から聞いた話だ。当然だろ、他にも俺みたいなのはたくさんいる。
昔、とは言ってもたった五年ぐらい前のこと。そいつは仕事で空を延々と旋回しているんだが、その日は特に忙しい日だったらしい。何でも担当する領域でない場所に無理矢理動員されたとか。
で、太陽が沈むまで働かされて疲れ切ったあいつは、ぼんやりと宙に浮かんで休みを取っていたらしい。その時に妙な物をみたんだとさ。
ビルよりも巨大で、懐中電灯みたいに激しく光る、不気味な銀色の天道虫を。
口はトラクターでも簡単に銜えられそうなサイズで、翅は突然変異なのか六枚も生えている。四つの複眼が蠢く度、生きた心地もしなかったそうだ。
『幸いにも何事もなく通り過ぎて行ったが、もし気付かれていたらどうなっていたのか想像もしたくない』とあいつが手を震わせて語っていたのが印象に残っている。
「え、それだけ?」
少女の素直な感想に青年の口が半開きのまま停止した。しばらく目を左右に泳がせてから、慌てて付け加える。必死な態度が焦りを分かりやすく示していた。
「まだ細かい描写が残っている。緑の斑点が点滅するのが気持ち悪いとか、何本もの肢がゆらゆらと伸び縮みしているとか」
「要はただの法螺話じゃない、とても下らないわ」
「いや、最初は同じことを思ったんだが、これを貰って考えを改めた」
彼はポケットを弄り、非常に細く金属的光沢を纏った紐状の物を取り出した。
「怪物の触角らしい。な、なかなか恐ろしいだろ」
「こんな作り物が何だと言うの? スーパーでだって尤もらしい玩具ぐらい売っている。人を騙したいならもう少し話を練ってくることね」
「お前は疑い深いな。いいさ、俺は信じてるから」
青年があまりに大事そうにそれをしまい込むので、少女は些か決まりが悪かった。上辺だけでも信じたふりをするべきだったのだろうか。
「えっと、物語としては三流だけど、退屈しのぎぐらいにはなった。発想が奇抜だという他にいい所はなかったけれど、一応楽しめたし」
「褒めたいのか貶したいのかどっちなんだ? ま、賛辞として受け取っておこう。後これは実話だ。お前の意見をどうこうする気はないが」
青年は立ち上がり、椅子を丁寧に元の場所に戻した。
外はすっかり暗くなっている。星は雲と町の明りのせいで完全に隠れてしまっていたが、三日月が煌々と下界を照らしていた。
「それじゃ、今日は帰る。次こそはお前が喜びそうな題材を探し出しておこう」
「いいえ。これ以上貴方の下手なお話は聞きたくないわ」
彼女が間髪入れず否定したので、青年は若干傷ついた。確かに滅茶苦茶だとは自分も感じたが、死神の存在は受け入れられても巨大昆虫は駄目だなんていうのはおかしい。とはいえ、もし本当に自分が騙されているのかもしれない。取り敢えず次にあいつに会ったら徹底的に取り調べてやろう。
「だから、次はもっと早く来なさい」
そんな思考は、たった一言で崩れ去った。
「な、俺は死神だ。魂を得る時はともかく、用もなく訪れるべきではない」
「最初に何もせずに帰った癖に、どうして今更気にするのかしら。それに、用事はあるでしょ。この私と会うっていう、非常に重要な」
「あ、あぁ、そうかもしれないが……」
「私の残り時間は殆どない。多少配慮してくれても罰は当たらないはずよ。」
「配慮か。綺麗な言葉だが、しかしー」
「いいから。こうして頼んでいるんだから、聞いておきなさい」
少女に矢継ぎ早にまくしたてられて、青年はずりずりと後退した。
「りょ、了解」
こくりと頷き、彼は瞬時に消えさった。彼女は暫くその場所をじっと見つめ、
「うん、またずっと待たされたらたまったものじゃないもの。これで正解よ」
そうして笑顔のまま目を閉じ、安らかに眠りに付いたのだった。
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