第10話
スミレは、この機会に彼の素性をもっと聞きたいと思った。自社で印刷した自分の名刺を、食事が運ばれてくる前に彼の前に置いた。
「私、藤野スミレと申します。遅くなりましたけれど、どうぞ、お受け取り下さい」
「はあ、僕はこんな者です」
と言って、彼もポケットから名刺を取り出して、スミレの前に置いた。
スミレは彼の名刺を取り上げてじっと見た。
「星野順二様…」
「はい、その通りです」
「M電機にお勤めですのね。だから、あそこに住んでいらっしゃるのね。M電機なら自転車で通勤できる距離ですものね」
「実は、それを狙ってあそこのマンションを選んだのです。ラッシュアワーの通勤は田舎者には耐えがたいですからね」
「田舎者とおっしゃると福井のことで…」
「ええそうです。実は単身赴任二年目なんです」
「まあ、単身赴任?と申しますと、福井に、奥様とお子さんが?」
「ええ、三年生の男の子が一人います」
「まあ、お父さんが必要なお年ですのに、一緒に皆さんでいらっしゃればよかったですのに」
「いや、家内はついて来ないのです。僕より、実家のじいさんばあさんの世話の方が大事ならしいです」
「まあ、そうですの…。私にも、年寄りの父が実家にいますが、兄と兄嫁が見てくれているので、自由にできていますの」
「それはいいですね。今はお一人であそこに住んでいるのですか?」
「ええ、いつまでも小姑がいると、兄夫婦によくないので、思い切って越しました」
「それは英断だったかも知れませんね」
「それに兄夫婦はすごく仲睦まじくて、当てられっぱなしで、独り身には耐えられなくて…」と言って、笑い飛ばそうと思っていたのに、彼に妻子がいるとわかって、頭を殴られたようになっていたので、意に反して思わず涙ぐんでしまったのである。
彼はそれに気づいて、ばつ悪そうにスミレの名刺を拾い上げて見、
「スミレさん、スミレさんはこれからの人じゃありませんか。まだ、僕の半分ぐらいの年じゃないですか、これからですよ」と強く力を込めて言った。
「いいえ、私は運悪く夫に若くして先立たれたのです」
「そのような事情がありましても、まだお若いのには変わりないないのですから」
「いいえ、もう、来年になれば四十ですもの、若くありませんわ」
「ええ?本当ですか?まだ、二十代に見えますよ」
そう言って彼はスミレをまじまじと見た。
「あら、そんなにご覧にならないで。私、顔を隠してしまいたいわ」と言ってスミレは両手で顔を覆った。
「お若い、いくら言われても、お若い」
と、彼は自分に言い聞かせるように言った。
その時、ウエイターがタコライスセットを運んできた。
「いただきましょう」と彼は言い、「それにしても、どう見たって、二十四、五にしか見えませんよ」と、順二は言った。
スミレはその言葉で、順二の年齢を計っていた。自分の半分に見えると言ったので、二十四の倍なら四十八歳かなと思った。順二のことも若く見える。スミレは四十歳くらいと思っていた。
順二にはっきりと妻がいて子供がいると判明して、多分そうだと思っていたのだけれども、頭に血が上ってしまった。順二が今日の試合は、世界の強豪レアルマドリッドと、鹿島アントラーズの試合であると、ご飯を食べながら教えてくれているのに相槌を打ちながら、心の中は、今夜こそこの人を家に招待しようと考えていたのに、どうしたらいいのかと、その事ばかりを考えていた。
順二は、サッカーの説明の合い間に、
「ご主人は、病気で亡くなられたの?」と聞いて来た。
「ええ、すい臓がんで、気が付いたときはもう手遅れでした」
「それから、ずーと一人でいられるのですか?」
「ええ」
「お付き合いした人もいない?」
「はい」
「それは、もったいない」と、順二は軽い調子で言った。
「いいえ」とスミレは答えていた。そう答えたものの、スミレ自身、何が「いいえ」なのか、自分でもわからなかった。
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