とある夫婦のお茶漬けの話(できるだけ会話無しで)
2016年7月23日14時16分。
絨毯の販路展開に関しては、ひとつの闇がある。布団を扱う場合ほどではないが、高齢者を中心とした、情報弱者に売りつける商法が、ひとつの「ビジネスモデル」として持て囃されているのだ。まず、TVやインターネットで俳優や女優を起用したCMを打ち、会社の知名度をかさ上げする。その名前を使い、各地方でセミナー兼販売会を行い、言葉巧みに勧誘し、通常の価格とはかけ離れた値で商品を販売するのだ。販売を行うのは、しかし、CMを打った大手の会社ではない。彼らは「知名度」を貸すだけで手は汚さない。実際の販売は、資金繰りに困った各地の業者に委託する。もちろん、絨毯の仕入れ先は大手の会社だ。通常では、やりたがらないスタイルの営業ではあるが、背に腹は代えられない。心を鬼にして、地元の弱者に地元の弱者が笑顔で絨毯を売りつけるのだ。
これが、困った事に中々儲かる。明夫が独立前に属していた会社も、代替わり後に資金繰りが悪化し、この商売に手を染めていた。弁の立つ明夫は、販売会でのエースとして八面六臂の大活躍を見せていた。
だが、明夫は、そのやり口に心をすり減らされていった。職を辞そうかと何度も考えたが、先代には、就職先にあぶれた所を拾い上げて貰った恩がある。代替わりしたとはいえ、その恩に報いずに職を辞すというのにはためらいがあった。それに、今更転職先を探したとして、妻と2人の子供を養っていけるのかという不安もあった。しかし、遂に耐え切れなくなったある日、明夫は先代を訪ね、心情を吐露した。認知症の妻の介護に専念していた先代は、黙って明夫の話を聞くと、今までの礼を述べ、すぐに会社に退職の手続きに入るように働きかけてくれた。さらに、かつての取引先へと連絡し、転職先の世話までしてくれようとした。明夫は感謝の気持ちを伝え、その話だけは断った。そして職を辞すと、一念発起して独立し、新規の仕入れ先を開拓し、商品を置いてくれる店舗を一軒ずつ訪ねては交渉を積み重ねてきたのだ。
――あれから2年か。明夫はふとそんな事を思いながらドアを開けた。妻の
美佳が台所に消えると、明夫はゴルフバッグを玄関の脇に置いたまま、リビングへと向かった。ゴルフのスコアは散々な一日ではあったが、相手とは良好な関係を築けた。そう思い返すと、安心感からか、急に疲れが出てくる。部屋着に着替え、心地よい疲労の中、リビングのソファに身を預け軽く目を閉じると、台所で美佳が何やらトントンを刻むリズミカルな音が聞こえる。思わずウトウトと
目を開けると、向かいの席でにっこりと微笑む美佳と、そして、お茶漬けが眼に飛び込んできた。椀に盛られたご飯には、小さく切り分けられた鰻の蒲焼きが乗っている。ねぎを散らし、白だしを注がれた椀の脇には、粉山椒の小瓶が添えられていた。丑の日には少し早いが、暑気払いも兼ねて、と美佳と子供たちが昼食に食べてたものを、少しずつ残しておいてくれた物だという。しかし、分量を見るとそうは思えない。多すぎるのだ。恐らくは、最初から明夫の分まで用意しておいてくれたのだろう。ことによると、新規取引先開拓のお祝いのために。
明夫は、まじまじと鰻茶漬けを眺めた。好物の鰻を、こうしてまた、少し贅沢に食べられる所までやってこれた。しかも、家族と共に。何の後ろめたさもないお金を使って、好きな物を買える所までやってこれた。そう思うと、粉山椒をかけずとも、鼻の奥が少しつんとした。
慌てて明夫はお茶漬けを掻きこむ。美佳は、その姿を嬉しそうに見つめていた。そのお茶漬けは、およそ5分後、7月23日14時30分に、世間を騒がすB-ウィルスによる感染者1号となる男が、人として最後に食べた食事であった。
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