出立
電車に揺られ始めて、もう合計で2時間くらいは経っただろうか。
目を開けて、時計を見た後、景色を確認する。
最初は都会だった車窓からの風景も、段々と建物と緑色の割合が変化し始め、今はついに見渡す限りの田園風景となっていた。
遠くに来てしまったことを否応なしに実感させられる風景だが、今の僕にとっては、元いた場所から離れた事実を認識できるのでちょうど良かった。
車窓から目を離し、車内に目を向けると、こちらも最初に乗った時から比べて人数に大きな変化が現れていた。
言うまでもないことだが席はガラガラで、一車両に5人も乗っていないんじゃないかと思う。
そんな中、僕の座っているボックス席は4席中3席が埋まっていたのだった。
一つは当然、僕の席。
僕の隣には、持ってきた荷物の類を置いてある。
そして、僕の斜め前―――
「………………」
僕の妹、御影が、静かに眠っていた。
吸い込まれるような黒い色の髪はだいたい肩甲骨くらいの長さまで伸びている。
あまり外出をしないためか、白すぎるくらい白い肌と黒髪のコントラストが鮮やか過ぎて目に毒だった。
当たり前だが、瞼は閉じられていて、長めの睫毛が微かに揺れていた。
薄めの唇から漏れる息がなければ、人形だと言われても信じてしまうかもしれない。
可愛らしい容姿をしていることは、身内の贔屓目を差し引いたとしても疑いようがないだろう。
しかし彼女は、異性どころか、交友関係を作っている様子を見せたことがなかった。
彼女がまともに話をしようとする相手は、僕か、今から世話になる叶枝さんくらいだろう。
コミュニケーション能力が不足しているとか、そういうことではないと思う。
彼女には、外側に繋がっていこうとする意思がなかった。
だから、彼女には直接世界を見る手段がなかったのだった。
故に、彼女は僕に盲従しようとした。
盲従することで、僕を通して正否善悪を判断しようとしたのだろうと思う。
僕は早い段階でその危険な兆候に気づけたので、何とか正しい方向に軌道修正していけるようにしようとした。
けれど、限界があったみたいだ。
いずれにせよ、僕らは近寄りすぎた。
彼女に、僕は教えてあげなければいけないのだ。
しかし、そのためにはまずは環境を変えなければいけないと思い立った。
そうして今に至る、というわけである。
「……しかし」
とりあえず、閉塞的な環境を抜け出したはいいものの、僕には見通しというものがあるわけではなかった。
少なくともあの方向性の見えない環境よりはいいだろうと、そう思い立ってこうしているわけだが……。
彼女にとっていい作用を及ぼすような状況になればいいのはもちろんだが、僕としてはそのために彼女が嫌な思いをするなら本末転倒だろうと思っていた。
そう考えながらも、今こうして彼女の意思を確かめずに来てしまっているわけで……。
「僕は少し傲慢になってしまっているのかもしれないな……」
彼女がついてきてくれることに慢心してしまっている現状に、僕はため息を吐く。
しかし、もう後戻りなどできるわけもない。
今できる最善を尽くすべきだ。
まずは叶枝さんに詳しい事情を説明するところから始めなければならないが、これはまあ、別段心配はしていない。
次にやらなければいけないのは、「僕と妹」という状態を変えることだが……。
(御影は、離れていくことはしないだろうな……)
彼女が、環境を変えたからといって容易にあるべき状態に治っていってくれるということは、考えにくかった。
それができるなら、閉塞的な環境にあっても心まで閉塞的にはなっていなかったはずだ。
かと言って、無理に引き離そうとするのが精神的に良くなさそうなことくらいは、その道を齧った程度の知識もない僕にも容易に想像がつくことだった。
じゃあ、どうすればいい?
(僕が、自然と離れていくような状態にしなければならないんだろう)
僕が「僕」という存在であること―――つまり、御影と一体化していない存在ということだけど―――を認識させていくしかないだろう。
そのためには、僕が新たな繋がりを作るしかない。
別に友達でもいい。師弟でもいいし、なんだったら、僕が誰かに依存する形でもいいのかもしれない。
彼女が、「自分は自分だ」と呼べるまでになれるのなら、その繋がりは何だっていいと、僕はそう思っている。
「……簡単に言ってはみたけど、難しいことだよなあ」
「何がですか?」
透き通るような声がした。
気づかないうちに再び車窓の方に向けていた目線をずらすと、いつの間にか御影が起きていたようだった。
「おはよう。多分まだ少しかかるから、寝ていてもいいんだぞ」
「大丈夫です、十分すぎるほど寝ましたから……それより、兄さん」
表情はほとんど動かないが、僅かに不安げな様子を見せながら、彼女は続ける。
「さきほどからずっと難しい顔をしていましたけど、どうしたんですか?」
大きな瞳をこちらに向けて心配そうに伺う。その声色にも眼差しにも、100%僕だけに対する感情が見て取れる。
まるで、自分のことはどうでもいいみたいな、そんな様相で。
―――そんなお前のことが心配なんだけれども。
そんなことを口に出してしまえば、大変なことになるのは目に見えているので、平静を装ったまま誤魔化す。
「いや、何のことはないさ。卒業まで大学をどうしようかと思ってただけで」
もっともらしいことを言いはしたけれど、恐らく方便であることくらいは見抜かれているはずだった。
しかし、御影は、
「……そうですか、それならいいのです」
とだけ言って、風景の方を見るでもなくこちらを見たまま、会話を終えてしまった。
追及はしてこない。でも、僕の方を見るのは止めない。
いつもの御影だった。そして、これが彼女を象徴する事象だった。
僕の言葉が無意識に優先されてしまっているから、それ以上に発展させようと、或いはメッキを剥がしたりしようとはしてこない。
こんな状態が、いいはずがない。
(……ごめんな、御影)
何が悪いのかもまとめることはできなかったけれど、僕は彼女に謝った。
何にしたって、もう少し上手くやれていたはずなのに。
失敗してしまった結果が、今だった。
(……今度は、間違えないからな)
そう心の中で呟くと、僕は瞼を閉じて、暗闇の中に戻ることにした。
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