04.おおごと
新聞を食い入るよに見たのは何年ぶりだろうか。そう、小学生の頃に新聞のコラム欄を手書きで写せという面倒極まりない宿題をだす担任だった頃のことだ。週一だったから良かったものの、これが毎日だったら気が狂うほどだった。同学年の教諭の中でそのネタが流行っていたらしく、隣のクラスではコラムの一説を抜粋し意見を述べるという小学生の宿題にしては難易度の高い物となっていた。そして今日、私が新聞を覗き見しているのは見知った名前が乗っているという情報を冬子から聞いたからである。
磐梯義明容疑者。新聞にはそうあった。彼と顔を突き合わせるたのはつい四日前のことだった。明人はあのあと彼について詳しく調査した上で報告すると行っていた。短くても一週間。彼が告げた期限よりも早く事は進展しそうだった。地方新聞は彼について学校への金の動きを捏造していた疑いと語っていた。さらには叔父である浜尾代議士についても触れており身内ぐるみでの汚れた金の問題があったと報じている。
「はー」
「ニュースってのは意外と身近だろ?」
「身近にあってほしくない案件ばかりですけどね」
「それは君の行いが悪いんじゃ居ないか?電話鳴ってるぞ」
「あ、ああ。常磐さんだ」
常磐義明、喫茶アルペンで登録した名前が画面には記されていた。通話ボタンをタップして携帯電話を耳に当てるとえらく急いでいるような明人の声が耳に入ってきた。
「磐梯教諭の件はもう耳に入った?」
「今新聞を読みました。これって一体…」
「今回のことで情報が出揃ったよ。放課後、もう一度うちに来てもらえないかな?」
「分かりました」
「それじゃあ」
そう言うと明人は電話を切った。通話終了の音声を遮るように携帯電話をスリープさせる。一息つくと冬子の目線が気になった。
「あいつ、なんだって?」
「何か分かったみたいでしたよ」
「そうか、なら近からず遠からずってところじゃないかな。あいつの想像は意外と当たるんだ」
「先生が嫌味なしで他人を褒めることがあるんですね」
「そこまで性格悪いか?」
「聖人君子と比べれば極悪人ですね」
「よく言う。さ、昼休みも終わりだ、教室に戻りな」
「はい」
昼休みの終了を告げるチャイムを聴くと冬子は私屋図書室にたむろしていた生徒たちを追い返した。
ここを目的地にやって来るのは二回目だ。何度も目にしているはずの場所なのにおかしい話だ。秋葉書店を前にしてしみじみしていると、中から背広の男性が出て来る。背が高い。百八十センチはゆうに超えているだろう。学校でもここまで大きな男はそう多くない。明人と比べると身体もガッチリしているようにみえる。
「…えっと」
「アキさん、もしかしてこんな娘まで…」
「違うって、さっき言ったお客さんだよ。白坂さん、ごめんね。こいつは俺の後輩、仕事のついでに寄り道してる悪徳警官さ」
「そいつを利用してるアキさんは極悪人っすね」
「いいから帰れよもう。また上司に叱られるぞ」
「わかりましたよ。あ、名刺あげる。このひとに何かされそうになったらいつでも連絡して」
「ナンパしてんじゃねぇよ社会的に滅殺されろロリコンが!」
意外だった。後輩とは言え明人は今日、これまでに見せたことがない表情を見せている。初めてあったときも、巳城に行ったときも冬子以上に無機質な印象を覚えていたため人間的な彼を見ているのがなんだか面白くなってきていた。
「やっと帰ったよ。あ、それ破り捨てておいて」
明人が指差す先には彼が私に握らせた名刺があった。『加賀谷真司』県警の刑事のようだ。なんとなく彼がここにやってきた理由が分かったような気がした。
「あの人が来たのって磐梯さんのことですか?私達が彼を訪ねたから何か聞かれたとか、もしかして私も…」
「少なくともそれとは少し違うから安心して。えっと、これ。どうぞ」
手のひらに収まる程の厚紙。彼が切らしていると言っていた名刺だった。常盤明人、秋葉書店・遠山不動産。職業欄にはそう書いてある。遠山不動産と言うのは私も聞き覚えがある。このあたりの賃貸住宅を多く所有している不動産屋だ。
「遠山って?」
「母方の実家だよ。あそこは三姉妹でね、長女の息子である僕が跡継ぎって事になってるけど母や叔母もやる気に満ちあふれてて当分出番はなさそうだ。爺さんの厚意で幾つか不動産を預かってはいるけどね」
ああ、この男はお坊ちゃんと言うやつだったのか。アポ取りが早かったり妙に古い喫茶店と馴染みだったりと、歳不相応な能力はこのためだったのだろう。おじいさんは彼の面倒をよく見ていたようだしその関係で街中の人たちは彼のことを知っている。そういうことだったのだ。
「それ以上に、ここの仕事で僕は忙しいしね」
「ここの仕事?」
「秋葉書店は名前ばかりでね、貸主の身辺調査なんかを主にやってるんだ。細かく言うともっとあるんだけどね。時たま得た情報を警察にリークしたり」
「探偵…ってやつですか?」
「そういうこと」
探偵というやつはもっと小汚いスーツ姿だと想像していたがその実は小奇麗で妙に洒落た趣味を持っているやつだった。ルックスは…まぁ置いておこう。彼曰く探偵事務所・秋葉書店は遠山不動産との関係で身辺調査を主に請け負っている探偵事務所だそうだ。とは言えそれもひっきりなしに来るものではない。家賃の滞納であったり書類に不審な点がなければ彼の元に仕事が来ないらしい。そのため祖父のコネクションを使って内密に仕事を受けているそうだ。行った先々で人が死んだりなんてことは流石に無いらしい。
「で、今回は君からの依頼だ。と言っても別案件との関係だったけどね。浜尾さんのことは覚えてるね?」
「昨日の今日ですから」
「うん、彼の行動を不審に思った県議から依頼が来ててね。君から料金を取るまでも無いほど羽振りの良い依頼だった。重要度は君のほうが大きかったけどね。巳城に行く理由にもなったし。そこに関しては君を利用する形になってしまった。申し訳ない」
コーヒーカップを差し出して向かいに座ると明人は頭を下げた。年上の、ましてや男性から真面目に謝られるというのはとても歯がゆい。あやふやしていると明人は顔を上げて続けた。
「今回君に話す内容は浜尾さんの案件にも触れる。他言無用でお願いできるかい?」
「大丈夫です」
その程度のこと、美咲のことをあやふやにこれから数十年生きるよりよっぽどマシだ。
「よし。まずはじめに、東条美咲さんは自殺で間違いない。警察が急いだとかじゃなくこれは検死医がちゃんと診断した結果だ。屋上には争った形跡も無かった」
ドシン、とその言葉が重く心にのしかかる音がした。ような気がした。美咲が自殺だった。どう抗おうと、その結果が揺らぐことは無かったのだ。
「…大丈夫?」
「はい、続けてください」
私がコーヒーを一口飲み込むと、明人は続けた。味なんてよく分からない。
「けれどその場、と言うより彼女の死の背景にあったのは成績なんてものじゃなかった。ここは君の疑問と合致する。東条美咲は努力出来ることを投げ出して死ぬほど哀れな女性じゃ無かった」
「え」
とても冷たい、今にも凍りそうな湖から救い出されたような暖かな言葉だった。
「磐梯義明、この間会った彼が何らかの方法を使って警察を動かしたのは既にわかっている。これ以上はあちらの領分だし警察もその事情を一般人である僕に話すことは無いだろう。浜尾義景と磐梯義明は同じ嫌疑にかけられている。業務上横領、巳城宛に出された寄付金の一部を義明が水増しすることでお互いの懐に入れていた。そうだね、ちょうど半年ほど前かな。君が彼女と合わなくなった時期と合致するけど彼と親密だった彼女は急に羽振りが良くなったのを気にしていたみたいだね。
それで彼女はこの事を学校側に伝えると言ってきた。実際にそういった相談を受けている教諭も居たそうでね。けど彼は変わらなかった。終いには彼女との関係を絶って叔父が紹介したどこぞの令嬢と婚約した始末。彼女の動機は絶望でもヤケになったわけでもない。義明の近くで事件を起こすこと。内容は何でも良かったんじゃないかな窃盗でも傷害でも、けど学校でできることは限られる。その結果が、あれだ」
なんだ、なんなんだこれは。十七年近く生きてきてまだ知らない感情があることを知った。怒り、悲しみ…いや違う。哀れみ?そんな訳あるか。このヘドロのような感情の名前は…なんだ?
「あれ?」
涙が頬を伝うのがわかった。訳の分からない感情の高ぶりが涙となって現れたのだろう。拭っても拭っても拭っても止まらない。決壊したダムのようにそれは止まることが無かった。明人の表情を伺うことは出来なかったがそこから何も語らなかった。
「落ち着いた?」
「…はい」
どれくらい経っただろう。まだ日は暮れていないところを見ると数十分と言ったところか。コーヒーもぬるくなってしまっている。読書がてら放置したぬるいコーヒーを飲みなれている身としては別段気にならないものだった。
「これって…」
「アルペンのブレンドだよ。特別に分けてもらってるんだ。昔は近くに居たけど今となってはちょっと距離があるからね」
この一杯のために電車で二駅先まで行くというのは少々億劫だ。とはいえ日常的に飲んでいた味を捨てることも出来ない。その為彼はあの店主に頼み込んだのだろう。この間行ったときはその雰囲気が無かったがこの噂が広まって店頭販売し始めるのもそう遠くないのだろう。面倒でインスタント派の私でもこの味が手軽に買えるのならこちらを選んでしまうだろう。
「で、ようやく泣けた感想は?」
「あぁ…そういえばそうですね」
忘れていた。美咲が死んで以降、悲しみのどん底に居たはずなのに感情が昂ることは無かった。同様に涙を流すことも無かった。葬儀の会場でも悲しみを涙で表現する人々の中で大層浮いていたことだろう。
なんだ、簡単なことじゃないか。数十分突っ伏して泣いたらスッキリしている自分が居る。それが答え、それが全て。誰かの死を受け入れるのではなく悲しむことで人は記憶というバックパックにそれを詰める事ができる。いつまでも重い荷物を両手で抱えていたらそればかりに気が行って前を向くことが出来ない。私がほしかったのは美咲が自殺じゃないという虚実でも、美咲の代わりになる友達でも無い。ただ、涙を流すきっかけが欲しかったんだ。
――『辛いなら泣きゃ良いじゃん。あおは難しく考えすぎ』
美咲の声が聞こえた気がした。いや、祖父の葬儀の時に言われた言葉だ。教わるまでもなく知っていた。当の彼女がその答えを私に遺してくれいていたのだ。
「あ、あの!」
「何かな?」
ようやく、前にすすめる。
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