03.その城
「そんで、半ドンだって気づいたのは今朝だったと…」
「しかも家を出てから。一日分の教材持って出たの後悔しましたよ」
今日は午後から職員会議、と言っても各学年ごとのものだから晶子は呼ばれていない。五月に入った頃には新入生のデータ作成は終わり、図書室のしごとといえば毎日増える新聞のチェックと学校に関する記事のピックアップ作業だった。毎度やってくる書店の営業さんの相手などもあるが彼らは毎度サンプル本を持ってくるからありがたい。特にハードカバーの本は学生のお小遣いじゃ早々買えないし。重いからあまり持ち歩きたく無いのだ。
「水島さん来るんでしたっけ?」
「んー?連休明けまで忙しいでしょあの人達、教科書の搬入とかウチみたいな効率は一括でやれちゃうけど専門系の書籍を扱う私立とかだとまだかかるんじゃない?」
「あー、福原雅人の新刊読みて―。晶子さん、入れない?」
福原雅人、私が小学生の頃にデビューした作家で。図書館に入った本もなかなか借りれずようやく読めたのは初版発行から一年経った時だった。新刊が出るということで文庫版が再販されていたのも昨日読み終わった。そんな彼がこの春、満を持して出した新刊に世の中の注目が集まっている。もちろんお小遣い制の私には手が届かないしバスの中では広げられない。よりにも寄ってハードカバーで三巻構成なんて学生殺しにも程がある。
「同時発売とはいえ人気作は取り合いになるからねぇ。書店にもあまり無いんじゃない?一応水島さん来た時に聞いてみるけど」
「あー、気になる。今度のはSFなんでしょ?処女作がファンタジーで二作目がSFってあの人の頭どうなって…」
「作家はだいたい変態集団よ。福原ってこの辺に住んでるんじゃなかったっけ」
「え!」
「住所までは知らないわよ。あまり顔出ししないし街であっても気づかないんじゃない?」
「うぇー。…あ」
ぐるるるるる。と鈍い音が聞こえた。今日はお弁当がお休みの日、購買も今日は食品を扱っていなかった。そう、飯抜きというやつである。
「ホントどうしよ…」
「明人は何時頃来るって?」
「迎えに来るとだけ。多分今日が午前授業だってことは知らないと思います」
「あらあら」
にこやかな表情が鼻につく。彼女は時々こうやっていたずら小僧のような顔をすることがある。決まって誰かがしんどい思いをしてる時ではあるが。性格の悪さで言ったら確かに他人に愛想をふりまく仕事は向いていないだろう。
それから数十分経った。相変わらず腹の虫はその声を上げ続けている。時計とにらめっこしているだけで暇すぎる。
「コーヒーは?」
「要らない。胃が痛くなっちゃう」
「サンドイッチは?」
「え?」
「ほれ、どうぞ」
天変地異だ。こんなことありえない。彼女が食料を恵んでくれるなんて。まぁ、普通学校職員が生徒に何かをあげると言うのはそうあることじゃないが彼女の性格上ありえない。
「サンドイッチ用のパンって多くない?一人用で売っててもいいものを…」
「そういうのも売ってるんじゃ…」
「無かったの!でも今日はお昼自分で用意しないとだし」
「そんで沢山作ったと」
「そう」
年上の女性に「かわいい」と言ったら怒られるだろう。ここは言葉を押しとどめておくが、いつか話す機会があれば彼女をいじるネタにしてやると自分の心に刻み込んだ。
「ん、ふつうに美味しい」
「たまごサラダなんて間違えようが無いでしょ。キュウリって少し塩もみするけどほぼ切っただけだし…」
言われて見ればそうだが普段インスタントコーヒーしか出てこないここでちゃんとした食べ物が出された事時代に違和感がある。
「ほら、コーヒー」
「あれ、今日のはインスタントじゃないんですね?しかもこの薫り…」
「明人のよ。アイツ変な趣味ばっかでコーヒーの焙煎もその一つ。生豆を買ってきては自分で炒ってるの。変でしょ?安いコーヒーメーカ買って使って無かったし調度良かったけど」
「へぇ…」
コーヒーを啜る。確かに既存品にはない味だ。ブラックコーヒーにこういう表現が合うかわからないがどこかまろやかに感じる。
四切れ程サンドイッチを胃の中へと流しこむと腹の虫もなんとか治まってくれたらしい。ゆっくりとコーヒーを飲んでいると後ろのドアが開く音がした。
「うわ、本当にくつろいでる」
「『うわ』とはなんだ。依頼人の連絡先すら聞かないとは…抜かったな?」
「突如現れた女子高生の来訪にこっちも動揺したんですよ。それ以前に毎回くれる情報が少ないんですよ、晶子さんは『この後うちの生徒が行くから。図書委員らしい成りをしてるからすぐ分かる』ってぶち―っだもん」
常磐明人、その人だった。
「それにしても、連絡してから早かったな。スピード違反か?」
「出先だったんですよ。その帰り際府城第二の生徒を見かけて晶子さんに連絡したんです」
なるほど、午後になれば街には学業から開放された府城第二の学生があふれていたことだろう。
「そうだ、明人。腹減らないか?」
「そうですね、昼食も取らずに来たのでそれなりに」
「よし、これを食え。余って仕方が無いんだ」
おかしい、私にはまるで神の施しのように寄越したサンドイッチを彼にはあまりものとして渡した。この対応の差は何なのだろうか。
「コーヒーもあるぞ?味はそれなりだが…」
「それ僕があげたのでしょ?プレゼントした相手に対してそういうのは…」
「そうだったか?あまり飲まないというのに押し付けた男が居るくらいにしか覚えていなかったよ…」
「相変わらずの悪女ですね。晶子さんは」
「ほお?男でも侍らすか?」
「やめてください、簡単に詐欺くらいやっちゃいそうで怖いです」
「まぁ食え。アポでも取って来たんだろう?」
アポ…アポイントメントの略称。面会の約束や予約と言った意味の単語だ。彼の出かける用事と言うのは誰かしらと会う約束をつけるといったものだったのだろう。
「私立巳城学園高等部。磐梯義明教諭だよ。心当たりあるでしょ?」
突如二人の目線が此方に動いた。
「え?巳城って事は美咲の?」
「そう、彼が彼女の担任だ。まさか了承してもらえると思わなかったけどね」
既に廃れたとは言え一時期ニュースを賑わせた案件だ。学校側もあまりいい顔はしなかったことだろう。二つのカップが空になったところで出発となった。
巳城学園は府城市から二駅いった町にある。近所に駅も新設されて通いやすくなったイメージこそあったが電車通学というのがネックになって私は割りと近い府城第二に決めた。制服のデザインも複数ありそこも女子生徒から人気を集める要因たりえた。推薦をもらえた生徒はこぞって巳城に進路を決めていた程だ。スポーツ系部活動だけでなく外国語に強い傾向にある。
「それ以上によく部外者が入れましたね。向こう一年は学校側もナーバスでしょう?」
私立と言うのは企業的側面を持つ。法人への出資者を失えば学校として立ちゆかなくなる。来年の入学希望者の減少は避けたいことだろう。
「やり方は色々あるよ。うちは何かとコネクションがね」
「は、はあ…」
含みのある表現だったが、それ以上追求するのは野暮な気がした。何かと考えているうちに学内に入っていた。午後の授業中なのだろう、当たりは閑散としていて人の気配を感じない。
「先程連絡した常磐です。磐梯教諭はご在学ですか?」
「少々お待ち下さい」
事務員に話すと、彼女は受話器をとった。西洋風の建物に相反してここは無気質で事務的な雰囲気にはすこし違和感を覚える。街の中にこつ然と存在する校舎もそうだが私立と言うのはお金の使い所がよくわからない。公立の不格好な校舎よりはマシなのかも知れないが個人的には機能性さえ取れていれば問題ない派なのでそこまで言及しないでおこう。
「着替えたほうが良かったかな…」
「ん?」
「いや、他校の制服で居るのはちょっとなぁと」
よく考えなくても一人だけ違う制服で、更には見かけない大人と共に歩いている女子生徒というのは悪目立ちしてならない。ここからどうなるかと想像すると冷や汗が出てきそうになる。
「いいんじゃないか?制服なんてそう長く着られるものじゃない。できるだけ長く袖を通しておくといい。三年は長く感じるかもしれないけど君が過ごしてきた十六、七年からすると五分の一にもならない。短すぎるくらいだ、それとの思い出はたくさん残しておきなさい」
「はぁ…」
突然のことに仰天してしまう。自分が想像していた返事じゃなかったのもあるが、彼自身和解というのに人生観をいともたやすく語った。何かあったのだろうと推測するのは簡単だがそれを決め打つには常磐明人という人間を知らなすぎる。ただの制服好きだとも取れる。そうなら危険極まりない人物だ。距離を置かねば。
「ご案内します。こちらをお下げください」
事務員が出てくるとゲストパスを手渡した。ドラマとかで見るICカードタイプではなくただ私達が不審人物では無いということの証明。カードケースに入れられたこれもコピー用紙か厚紙にプリントアウトされただけのものだろう。ストラップに首を通すと事務員は私達の前を進んだ。
「こちらでお待ち下さい」
ミーティングルーム。プレートにはそう書かれている。開かれたその内には長机と椅子が三つ。部屋の隅にはまだ幾つか折りたたみ椅子が立てかけられている。おそらく十人以下のディベートや面談用に使われる部屋の一室だろう。蛍光灯を点け、ドアから見て左側に座るよう促すと、事務員は仕事があると戻っていった。知らない場所の知らない部屋で、私達は取り残されたような形になった。
世界中にふたりだけのようだ。なんてロマンあふれる状況ではなく、そう知らない大人と密室に取り置かれた状況というのはとてもまずいんじゃないか。これから会う人物が男性である。男二人相手にたかだか十六歳の女子高生が太刀打ち出来るはずもなかろう。
「なんか変な事考えてる?」
「い、いや。知らない大人を待つ状況って緊張するなって」
「彼自身はいたって普通。一般人だよ」
『彼自身』というところを強調した。言い方の問題だろうと思った。虎の威を借る人物と言うのはどのコミュニティにも一定数居るものだ。彼もその一人だろうと言いたいのだろう。少し身辺を洗えばその手の噂はゴロゴロ出てくる。有る事無いことを話たがる手合も、悲しいことに世の中に溢れている。
「失礼、少し別件で時間を取られました」
ノック音の直後にドアが開かれ、短髪の男性が入ってきた。いかにも高そうなスーツを身にまとい、手首には腕時計がひかる。『普通』というにはちょっとブルジョワの香りがキツイ印象をうける男性だった。磐梯義明、巳城学園高等部の教諭である。ほのかに香水の香りも漂わせながら私達の向かいに腰掛けた。
「磐梯義明と言います。えっと…」
「常磐明人。彼女は白坂葵さん、東条さんとは旧知の仲だそうです」
「そうですか…」
大人同士で会話が進む。磐梯義明という人、年齢は明人よりも上だろう。三十くらいだろうか?身長はふたりとも同じくらい。身なりの差以上に顔面偏差値は明人よりも上回っているだろう。学園の女子生徒からは色んな意味で注目されるタイプだと見える。
「府城第二高校の方から話が来まして。他校との関係に教師やそれに近い人間が立ち入るのは何かと問題になるということで僕が代理として行動しています。現時点で言えば彼女の保護者であると思っていただいて結構です。あ、名刺は切らしてるので後日ということでよろしいですか?連絡先は事務の方に伝えてありますので」
「…かまいません。それでどういったお話を?」
「彼女、白坂さんは東条さんの死から精神的に不安定な状況が続いていまして。それに気づいた職員が目をかけていたそうなんです。そこで東条美咲さんの学園生活や事件直前の様子などを伺えればと」
とても嘘くさい。と言うのは当事者である私だから思うことだろう。たしかに精神が安定している状況かどうかといえば否である。だが学業をおろそかにするほどではなかった。晶子さんは私の様子を近くで見ていた。その為気がついてくれたに過ぎない。事件直後は担任も定期的に声をかけ気にしていた。
私のクラス担任というのはマメな人間で、三者面談や家庭訪問の際に両親以外の家族や親しい交友関係についてある程度把握しようとしていた。はた迷惑に感じる事があったが「こういう時に無神経なことを言わなくて済む」と彼が泣きそうに言ったときには正直救われた。ここまで優しい人間がよく教師という職を続けられるというのはある意味奇跡だろう。おかげでそれからはシコリを残したままではあったが学校生活を不自由なく過ごすことが出来た。
「…辛い思いをするかもしれませんよ?」
「大丈夫です」
これからの一生を知らずに過ごすよりは知った上で背負った方がよっぽどマシだ。
「警察や関係者に説明した内容とほぼおなじになります。東条美咲さんはとても明るく、クラスでも中心的な人物の一人でした。けれど二学期を過ぎたあたりから彼女の成績があまり伸びなくて、何度か相談も受けたのですが解決してあげることができませんでした。冬休みに個人的に補習をして、三学期は乗り切ることが出来て二年時はもっと頑張ろうと言ってた矢先…」
教諭は言葉をつまらせる。表情こそ豊かに動く人だが言葉にリアリティが少ない。事件から時間が経っているせいか記憶も曖昧になりつつあるのだろう。これも何があったかを必死に思い出そうとしているように思える。
「そんなに成績が悪かったんですか?」
「いえ、留年とかは全く関係ないところでした。ですが夏休みの開けの面談で進路希望を県外の国立大学としたのでその為には努力が必要だと」
「具体的には?」
「学年でもトップクラスではないとウチでも厳しいと」
声が出そうになるのを抑える。美咲が背伸びをするタイプじゃないことはよく知っていた。だが進学以降の彼女を私は知らない。この状況で彼を否定するには情報が少なすぎた。
「それで死ぬほど思い詰めていたと…」
「…ええ」
彼の表情が暗くなる。ここに来てリアルな辛さをこちらに訴えかけてくる表情を浮かべた。その真意こそわからないが、彼は美咲の死に関して何か抱えている。それが個人的なものなのか教師としてのものなのか。それを知るにはもっと彼を知る必要がある。
「状況はわかりました。東条さんと仲が良かった生徒さんはいらっしゃいますか?」
「ええ、連れてきましょうか?」
「放課後で構いませんよ。そろそろ終業でしょう?」
時計を見上げるともう十六時を過ぎていた。ここに着いたのが十五時前だった為もう一時間この部屋に居たことになる。
「…そうですね。ホームルームが終わり次第、案内します」
「ありがとうございます。…最後に、良いですか?」
「どうぞ」
「‘磐梯’というのはあの磐梯さんですか?」
「え…」
教諭の表情が凍りつく。ここに来て美咲のことでなく彼の名前についての質問をしたことに違和感を覚えたがそれ以上に彼の態度が豹変したことに気が行ってしまう。
「父とは何かご関係が?」
「単純に巳城に磐梯さんと言うとピンと来まして。ご子息でしたか。興味本位に他所の事情に踏み入る趣味も無いのでここまでにしておきましょう」
「そうですか」
明らかにそちらが本命のような言い口だ。とはいえ教諭はこの話題に触れてほしくなかったようで、露骨にこわばっていた表情は落ち着いているように見えた。
「東条さんと仲の良かった生徒さんはいらっしゃいますか?」
「仲の良い…ですか。誰とも仲良くしていたように思えますが…」
社交性の高さは中学以前からだった。家族ぐるみの付き合いだったため学校外でも一緒に行動していたが苦にはならなかった。他人に合わせるのが得意だったがそのため苦労することも多かったはずだ。
「そういえば、芦屋美希とは意外と仲良くやっていました。最初の面談をした時はあまり仲良くなれそうにないなと感じていたので意外でした」
「…紹介していただけますか?もう少し先生の話を聞くのもいいですが」
「で、では彼女の現担任に話を通しておきます。もうすぐホームルームだと思うので」
十六時過ぎ、特進や特殊クラス意外では六時限目終了間近、学業からの一時解放のカウントダウンが始まる頃だ。巳城では二年でコースや専攻科目ごとにクラスが再編される。これも美咲からの受け売りだが夏休み明けに第一次募集があるとかで頭を抱えていたのをよく覚えている。たった数ヶ月で決めろというのも酷だな。と傍目に思ったものだ。
「お願いします」
「では、少々お待ちいただけますか?」
そう言うと磐梯教諭は首から下げた端末を取り出した。内線用のPHSのようだ。病院などで運用されているのを見るが私立はこういうところまでお金をかけているのか。とはいえ幼稚園から専門学校まである巳城のキャンパス内どこにいるかわからない人物を探し回るコストを考えたら安いのだろう。公立だと「学内で教員が携帯電話など風紀がー」とか言われる未来が見える。
「あ、今大丈夫ですか?…ええ、生徒からも事情を聞きたいとかで…はい。芦屋さんをと…お願いします。…担任クラスの授業だったようです。授業を早めに切り上げてホームルームを開始しようとしていた所なのですぐ向かわせると」
「ありがとうございます」
教諭はPHSを再び胸ポケットに収めるとこちらに向き直って言った。容姿こそ想像出来ないが美咲が踏み込んで付き合える人と言うのはそう多くない。自分がその中の一人であったと言ってしまうのは傲りかも知れないがそうであったと信じたい。
「っと、私も担任クラスのHRがありますので彼女と入れ替わりになりますがよろしいでしょうか?」
「私の方は特に…君は大丈夫?」
「あー、大丈夫です」
咄嗟に了承してしまったが、小娘ごときで大人に対して核心をついたことを言えるはずもなかった。むしろ同年代の子の方が話しやすいだろう。
「芦屋です。磐梯先生いらっしゃいますか?」
「お、来たようですね。どうぞ、彼女が芦屋美希です。私はこれで」
ドアを開け、芦屋さんと入れ替わるように磐梯教諭は部屋を後にした。沈黙が続くにつれ、初対面の空間に名前だけ言って取り残された気まずさが部屋の中を充満していった。
「芦屋美希です。えっと…」
「僕は常磐明人、彼女は白坂葵さん。東条さんのことで幾つか聞きたい事があったんだけど良いかな?」
「構いませんけど…」
会釈しながら伺えた表情は複雑そうだった。どこか戸惑っているような。見知らぬ人間の前に放り出されたとなれば当然だがそれは明人の言葉に対するものだとなんとなく察しがついた。
「場所を変えたい?」
「…はい」
「そっか…」
喫茶店だった。喫茶アルペンは初老の男性が営む店のようだ。西洋風というよりも山小屋のような内装から店名の意味がよくわかった。店主のガタイもかなりよろしい方で、ピッケルやブーツが飾ってあるところを見ると登山経験者か今でもやっているのだろう。遠目だがなじみ客と言ったであろう登山会の集合写真が目についた。立て看板を挟むように数名の男女が笑顔を振りまいている。意外だったがここの店主と明人は知り合いだったようで彼はそのまま店の奥にある個室スペースに入っていく。客用ではなく従業員用の休憩スペースのようだったが隠れ家風で普通に客を呼べそうな雰囲気だった。
「このあたりでこういう場所知らなくてね。今は二階を更衣室にしてるからこの部屋は常連さんや古い従業員がたまに使う秘密基地みたいなもんだから安心して。カウンターから直結してるから店主も伺えるし」
実際巳城から駅にかけて数店飲食店があるがこういった喫茶はここくらいだった。通りをもう少し言ったところにファミレスもある。この店が閑散としていながら経営して行けているのは常連さんたちのおかげといったところだろうか。
「それで、東条さんについてですよね。やっぱりそうなんですか?」
「やっぱりと言うと?」
先走るように芦屋さんは語り始めた。私も明人同様『やっぱり』という彼女の発言が気になった。学生の中では美咲について噂が立っているようだ。それも伏せて語るような。
「私達生徒にも詳しい状況は説明されていないんです。知ってる情報といえば報道されてる程度のことです。学校が始まった頃には規制線も取り払われていて、現場が何処であったかさえわからない状況でした。それが先週になってある噂が立ち始めたんです」
「噂?」
「はい、磐梯先生が彼女の自殺に関わっていたとかなんとか。警察の撤収が早かったのも理事の身内である先生の関与があったからじゃないかって。それも先日先生の結婚が発表されてデマだっただろうって。学内でする話でも無いと思ったけど余り関係なさそうですね」
照れ笑いのような仕草を見せる。彼女も眼鏡をかけているが、私と比べて印象が異なる。どこか愛嬌があるというか、制服の差ではなく素材の差だろう。都会にでも行けばスナップを撮られそうだ。
「警察の動きはともかく生徒が自殺した後に結婚を発表するって、不思議だねぇ」
「先生の中にもタイミングが悪いと思ってる人も多いようですけど以前から決まってたとかで」
「前後、いや遅らせる事が出来ないって感じなのかな?あ、それ冷める前に飲んじゃって。ケーキも僕のおごりだから」
「詳しいところはなんとも。頂きます」
店オススメのケーキと飲み物はそれぞれ頼んだ。彼女はミルクティーだ。手元にある黒い液体を見るとこういうチョイスの差が自身のイメージに繋がるのだろうと考えてしまう。
「…白坂さん、だよね?お葬式では見かけなかったけど」
「葵でいいよ。親族の方にいたからね。知らない人ばかりであまり覚えてないけど」
東条家の近縁とはある程度顔なじみだったが遠縁ともなると知らない顔ばかりだった。彼女の叔父、父親の弟に当たる彼とは小さい頃から何かと付き合いがあったがその程度だった。
「そっか、私も美希でいいよ。事件以降学校もなんか変な雰囲気で学外に知り合いが出来てよかった」
「半年もすればまともになるんじゃない?ウチじゃもう話題にすら登らないし」
事実、テレビや新聞でも美咲の話題が出ることは無くなった。東条家としてもメディアから粘着される生活は避けたいだろう。というよりも私もあの手合がどうも好きになれない。
「そういうんじゃなくてこの話題を避けよとしているというか、先生たちも如実に彼女のことを語ろうとしないんです」
「そりゃぁ教育上良い物じゃ無いからね」
「はぐらかしている訳じゃないの?」
「ええ、だから先生が関わってるんじゃって噂がたったのかなぁと」
「そう言えば磐梯先生が理事の身内だって話だったけどそれってもしかして浜尾先生のこと?」
「そうです、浜尾義景さん。学校で何度か見かけた事があります。ご存知だったんですか?」
「別件でね。そうか、やっぱり…」
「誰ですか?忍者みたいな名前ですね」
「浜尾義景、県議会議員だよ。最近なにかと話題のね。浜尾議員は婿養子として浜尾明議員の後を継いで県議になった。旧姓は磐梯、明氏の秘書だったらしい。そして磐梯先生の叔父でもある」
「最近話題って、ニュースとかで言ってる?」
世情に疎いとは言え毎朝ニュースくらいは小耳に挟む。今朝も小難しい顔でキャスターが語って居るのを見かけた。県議の集団汚職事件、全国ニュースでも何かと話題をよんでいる一件らしい。これのお陰で美咲の事件は息を潜める結果となったのだ。
「それが美咲と関係あるんですか?」
「調べてみないことにはなんとも。おじさんが関係してる学校にいるからって交友してるとは限らないしね」
「そう…ですね」
彼女からはそれ以上話を伺うことができなかった。というよりもそれ以上彼女が事情を知らなかったと言ったほうが正しいかもしれない。その後はお互いの学校の話など、明人の仲介のもとで他愛のない話をしていた。その後明人の連絡先を聞いたついでに何故か芦屋さんとも連絡先を交換してその場はお開きとなった。
「二人は反対方面ですよね」
「そうなるね。ここでお別れだ」
「そうですね。あ、帰ったら連絡するね」
「う、うん」
屈託のない笑顔と言うのはこういうことを言うのだ。なんて天の声が聞こえそうな程の微笑みを私達に向けながら彼女は向かい側のホームへと向かっていった。
「ああいうのを魔性って言うんですかね」
「うーん、君はもうちょっと愛想よくしても…いや、ごめん」
「…ところでなんで電車だったんです?」
「あぁ、なんか巳城は外部の車両に厳しくてさ。事前に申請してないと駄目らしいんだよ。午前中に行ったら怒られてさ、事務的にすぐ出せないって言われちゃって致し方なくね」
お役所仕事というのはどこにでもあるものだ。図ったかのように電車はすぐやってきた。北道を遡るように、私達は帰路についた。夕方でも日は暮れず、夏の足音を感じる陽気だった。
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