【6】


 夜。獣の遠吠えと悪魔の羽音が不気味に鳴り響く、魔物たちの時間。

 屍族と呼ばれし民が大陸を支配していた暗黒の時代よりも弱体化したとはいえ、魔物は今もまだ多くの人にとっての脅威である。

 だが移動集落に護られた者たちのもとには身を震わせるような雄たけびは届かない。

『ワンダーキャメル』居住区画――。

 静寂に包まれたこの場所に、一軒の家屋がある。窓から覗ける中は真っ暗。だが留守というわけではなさそうだ。中からは人の息遣いがする。

 そんな家屋の様子をうかがうように、ぽうっと輝く発光体がうろうろと飛んでいる。

 窓にひっついては離れ、また近づいては離れを繰り返している。

 発光体は、翅の生えた小さな女の子――精霊のレテだった。


(絶対まだ起きてるよね、リアン。うー、どう声をかければいいのかなぁ)


 リアンが部屋にこもっている理由は明らかだ。

 帝国にソフィアが連れ去られたことを悔やみ思い悩んでいるのだろう。

 その気持ちは、レテにもわかる。

 そもそも自分がフォルティナの怪しげな術に囚われなければ守護契約が解かれることも、ソフィアが連れ去られることもなかったのだ。

 あの魔法に抗えなかった自分の無力さは、後悔してもしきれない。


(でも……このままただ悔やんでる場合じゃない! 早くソフィアを助ける方法を考えないと! なんだけど……)


 ショックを受けているであろうリアンに、かけるべき言葉が見つからないのもまた事実だった。

 そのとき、街灯に照らされた道の先から、一人の女が歩いてくる。

 イングリットだ。


「おやレテちゃん。こんなところで何をやってるんだい?」


「イングリット! いやまあ、複雑な乙女心というか微妙な男心というか、どうしたもんかな~って」


「ここ、たしかリアンが泊まってる家だったね?」


「うん。そう。だから――」


「オラ、リアン! 起きてんだろ! うだうだしてないで、さっさとソフィアちゃんを助ける方法を考えるんだよ!」


 ――会話を途中でぶった切って、イングリットは家の扉を蹴り破った。


 えええええ、とレテがあごが抜けそうな顔になる。


「レテが一時間近く悩んでた時間は何だったの!?」


「なんだい、リアンに気を遣ってたのかい? こういうのは一人で考えれば考えるほど病んでいく。荒療治ぐらいで丁度いいんだよ」


 豪快に言い放ったイングリットがずかずかと家の中に入っていく。

 あまりにも強引すぎる気がしたが、まあそれも一理あるかも、と思いレテもそれに続いた。


「リアンー? どこー?」


「ふさぎこんでないでさっさと出ておいで!」


 ずかずかと上がり込みながらのふたりの声かけに、反応する声はない。

 木の床、暖炉、台所、食卓、つぎつぎと視線を動かしていくが誰の姿もなかった。

 ふとレテは、隣室に続く扉が半分だけ開いていることに気づいた。

 かろうじて橙色とわかる程度のぼんやりとした光が、隙間から漏れている。


「なんだいそこにいるんじゃないか。おい、リア……ンんっ!?」


 扉を開けて中を覗き込んだ瞬間、イングリットの声が派手に裏返った。

 なになに? とレテがその後ろから続き、


「ええっ!?」


 そこに展開されていた光景に驚愕の声を上げずにいられなかった。


「…………」


 ふたりが入室してもリアンは頭をピクリとも動かさず、机に向かって一心に何かをしている。

 ランタンの頼りない灯りが机の上に広げられた赤茶けた紙面を照らし出す。


「本を読んでるの?」


「……ん? ああ、レテか。それにイングリットも。ふたりともいつの間に」


「今まで全然気づかなかったのっ。結構派手に音を立てたよ!?」


 今更のように言うリアンに、レテはつっこんだ。

 リアンはすまなそうに顔の前で手を合わせ、照れくさそうに笑ってみせる。


「悪い。ちょっと集中しててさ」


「有名な兵法の本じゃないか。そういえば昔の仲間がそういうの好きだったねえ」


「この家の本棚にあったのを勝手に拝借したんだ。勝手に使って大丈夫だったか?」


「もちろんさ。どうせあいつらが戻ってくることはないだろうしね。本も読まれた方が幸せだよ」


「よかった……。そうだ、ふたりともちょうどいいところに来てくれた!」


 ホッと胸を撫で下ろしたリアンが、勢いよく顔を上げてこう続ける。


「この本に移動集落同士の戦争のノウハウが書かれてるんだ。こいつを試してみたらいいんじゃないかと思うんだけど、どう思う?」


「へ?」


 突然の言葉にレテは面食らった。まさかそんな質問をされるとは思っていなかった。


「ずいぶん元気じゃない。ソフィアがさらわれて落ち込んでると思ったのに」


「え? ああ……ごめん。心配させてたんだな」


 リアンはばつが悪そうに頬を掻いた。

 わずかに目を細めて続ける。


「まあ、つい何時間か前まではすごく沈んでたよ。でもま、後悔してたって、状況はひとつも良くならないし、せいぜい足掻いてみようかなと」


「メンタルの回復速度ハンパないわね……」


「俺の数少ない取り柄のひとつだからな!」


「あはは! 少ないとか自分で言うかねえ。まったく面白いんだか情けないんだか」


 イングリットが愉快げに笑う。

 そしてリアンの前に置かれた本を手に取り、興味深そうに顎を撫でさすった。


「暗黒時代の頃の本、か。へえ……屍族に奪われた移動集落との戦争が記録されてるじゃないか」


「そうなんだよ。これ、やり方によっては今の俺達にも利用できないか?」


「……ハッ。なかなか大胆なことを考えるね。さすがアタシの見込んだ男だよ」


「え? ちょっ何ふたりで通じ合ってんの? レテ超高速で置いてかれてるんだけどっ」


「だから吹っかけるんだよ、――移動集落同士の戦争、ってやつをさ」


「え……………………えっ?」


 白い歯を見せニカリと自信満々に告げられたリアンの言葉に、レテはしばし固まって、


「えええええええええ!?」


 夜空に突き抜けるほどの絶叫を上げた。


 戦力を整えた上で『ワンダーキャメル』を駆り、帝国の『ストロングレイヴン』に直接戦闘を仕掛ける――言葉にすれば簡単だが、その作戦は常軌を逸していた。

 何故ならグルディア帝国の中でも移動集落を与えられた遊撃部隊は屈指の実力を誇り、一師団で大国を落とすに足る力を有すると囁かれているのだ。

 たかだか冒険者の一団が牙を立てていい相手ではない。

 そんな懸念を口にするレテに、リアンは真顔のままこんな提案を投げかけた。


「召喚――、って、やれないかな」


 移動集落同士の戦闘ノウハウを記載した本を掲げながら、彼の目は大真面目だった。


「精霊珠があればやれないこともないけど、アンタ本気?」


「もちろん。媒介にした人間と魂の質が近い人間をこの場に召喚できるんだろ? 協力を仰げば、条件次第で手を貸してくれるかもしれない」


「や、それはそうなんだけど、そうじゃなくて。ひとりやふたり仲間を増やしたぐらいで帝国と渡り合えるわけないでしょ!?」


「そこはとびっきりの実力者をお願いする感じで!」


「無茶言わないでよ、もー」


 ぷんぷんとふくれ面で不満を述べるレテの横で、イングリットが楽しげに言う。


「ちなみに精霊珠なら『ワンダーキャメル』の中にあるよ」


「うそっ。あれめっちゃ貴重な石なのに!」


「長年冒険する中で集まったんだが、アタシらは召喚魔法なんざ使わなかったからねえ。宝の持ち腐れってやつだがまさか役立つ時が来るとは……兵法の本の持ち主といい、奴らきっと喜ぶよ」


 姉御と呼ぶに相応しい大人の女性の顔に、一瞬だけ童女めいた悪戯心が宿る。

 そんな無邪気さにあてられたのか、レテもふくらませた頬から空気を抜き、呆れたようにこう言った。


「オーケー、了解、わかったよ。こうなったらとびっきり強い人を召喚してあげる!」


「おおっ! さすがレテ!」


「まったくこんな時ばっかり褒めて調子良いんだから!」


「いやいやホント感謝してるって! 万歳! 万歳!」


 ヤケクソのように胸を叩いたレテの体をつかみ胴上げせんばかりの勢いで振るリアン。


「ちょ~っとぉ!? 目が回るんだけど!? 実は滅茶苦茶からかってるでしょ!?」


「いやいや、だからそんなことないってば」


 息を荒らげるレテを解放し、リアンは、


「――じゃあ、頼むよ」


 急に声を真面目なトーンに落として、頭を下げた。


「ったく……」


 その落差ある真摯な対応にほだされたレテは、ひらりと身を翻して部屋を出ていく。


「どこに行くんだ?」


「魔力が集まるところ。英雄クラスの強い奴を呼びたいなら、尚更、場所を選ばないとだからね。――この都市の中で一番霊的に恵まれた場所に行くよ」


「霊的に恵まれた場所ってーと……」


「イングリットも心当たりないワケ? まったく、人間は物を知らないなー」


「もったいぶってないでどこ行くかくらい教えろよ」


 じれったそうに言うリアンに、レテはパチンとウインクしながら答えた。


「――大聖堂、だよ」


 中央広場の先に荘厳な威容をもって佇む煌びやかな建物があった。

 色とりどりのステンドグラスが壁のみならず天井にも張り巡らされており、青い月の光が幾重もの光線となって燦然と降り注いでいる。

 奥に慈愛を湛えた笑みとともに立ち聖なる雰囲気をまとっているのは一体の女神像だ。

 ここまではどこにでもある普通の修道院と何も変わりがない。

 しかし、この建物は中央部にやたらと広い空間があった。

 まるで、何かをここに置くことを前提に造られているかのように。


「やっぱりね。召喚門を出すためのスペースもある」


「ここに門を出現させるんだな。召喚には時間がかかるのか?」


「ううん。すぐだよ。えーっと、精霊珠は……」


「はいよ」


 移動途中で倉庫に寄って取ってきた革袋をイングリットは放り投げた。レテの足元に落ちると同時に口を結ぶ紐がほどけ、中に詰め込まれた無数の青い石が覗く。

 これこれ♪ と声を弾ませてレテが飛びついた。そのうちのひとつを大事そうに抱えて、ひらりと高く飛び上がる。

 ステンドグラス越しの月光を反射し翅が煌めいた。


「――其は悠久の友。月が導く可憐の蝶。天に吼えし勇猛の獅子。三つの橋を越えた先、魂の門を越え、楽園で踊るは翅の使者、絆を結ぶ者也――」


 一言一言、歌うように、踊るように。

 レテの口が詠唱の文句を紡いでいく。

 高く高く放り上げられた精霊珠が月の光に触れた瞬間、バシッ、と音がして――。

 青い石がその内側から眩いばかりの光を放ち始めた。


「――来たれ、友よ蝶よ獅子よ! その気高き威容を我が前に晒したまえ――……!!」


 発光する精霊珠が輝きを増しながら落下してくる。

 そして、それが地面に落ちた瞬間――更なる変化が大聖堂の中に生じ、リアンは大きく目を見開いた。

 門、だ。

 不自然に空いた大聖堂内のスペース、その床を突き破るようにして、巨大な門が出現したのである。生えてきた、という表現が最も近いだろう。何もなかった場所に突如として門が現れていた。

 まるで王家の財宝を散りばめたかのような黄金色に輝く門である。それは月光など比較にならない圧倒的な輝きで以ってこの場の視線を一身に集めた。

 そして――、

 ぎぃ………………と。

 厳格な重みとともにその扉がゆっくりと開いていく。

 扉の隙間に、人影が覗く。

 逆光のためたしかなことは言えないが、その輪郭はほっそりとしていて、しなやかな体つきの女性であるように思えた。

 門から一歩を踏み出すと、栗色の長い髪がさらりと揺れる。


「門の先はこのようになっているんですね」


 女性の、声。


「不思議な声に導かれ馳せ参じました。いきなり目の前に門が現れ、招く声が聞こえました。とても信じがたいことであるのに、不思議とこの門の先に行かねばならないと思え、やってきたのですが――」


 困惑するような。何かに期待するような。

 そんな声とともに逆光の中から踏み出し、その全身をリアン達の前に晒した彼女は――


「し、システィーナ!?」


「え?」


 思いがけず名前を呼ばれた女性は、長い睫毛をたたえた瞳をパチパチと瞬かせて、声をあげたリアンの方へ視線を向けた。

 間違いない。

 白百合のように端正な顔立ち、猫のようにしなやかな体つき、一流の騎士のように威風堂々たる立ち居振る舞い。

 門の向こうから現れた、英雄の正体は――。

 パトリアの街の酒場で一度だけ顔を合わせた冒険者、女だけの傭兵団『黄昏の白百合』団長、システィーナその人だった。

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