【3】
ガリア大陸は中央を通る険しい大山脈に東西を二分されている。
強国グルディア帝国が支配する東の地は、精霊に嫌われた土地と呼ばれる痩せた大地だ。作物は少量しか採れず、魔物も闊歩し、民は苦しい生活を強いられていた。
グルディア帝国は他国に対する競争力を高めるために軍事力を強化。さらには精霊の恵みに頼らない、科学の魔法――魔導の研究を推し進めてきた。
しかしそんなグルディア帝国の国境、険しい山の中に、わずかに精霊の恵みを残す村が存在した。
魔なる者たちの秘境――神代から続くとされる、魔術師たちの棲む村である。
物心ついたとき、ソフィアはその村で生ける伝説とまで呼ばれた大魔女の家で暮らしていた。
大魔女は血のつながった家族ではなかった。本当の家族について訊ねても、彼女は曖昧な言葉でうまく躱してしまい、絶対に答えてくれなかった。
いつしかソフィアも訊ねるのをやめていた。幼心に大魔女が自分に気を遣っているのだと理解できたし、今の生活には何の不満もなかったからだ。
いや、もしかしたら年頃の少女ならばもっと不満を訴えていい境遇だったかもしれない。
何せ自由がなかった。
朝から夕方まで魔法の勉強と実習。許された娯楽といえば書斎にある本を読むことだけ。物語の中に出てくる少年少女のように友達同士で外を駆け回ったり、大冒険をしたりといった経験はしたことがなかった。
にもかかわらず不満を感じなかったのは、おそらくそれが本の中だけの夢物語だと認識していたからだろう。
友達と外で遊ぶなんて現実にはありえないことだと思っていた。
何故なら、この村には同年代の子どもが一人もいないから。
遊ぼうにも友達がいない。
周りには年老いた魔法使いや農民ばかりだ。
ある日、大魔女はこう言った。
「この村は、呪われて以来、子が生まれなくなった」
「呪いって、誰に?」
「かつてこの大地を支配していた、神々に等しき者達に」
「どうして?」
「それは……」
大魔女は言い淀んだ。
この厳格な祖母が言葉を濁すのは珍しかった。いつも物事はハッキリと述べよと厳しく言っていた人とは思えない。
「遥か昔――村の男が禁じられた恋をしたが故に、けっして交わってはならぬ二つの血が一つになってしまったからじゃ」
「……よくわからないです」
「ソフィアにはまだ難しい話じゃろうて。要するに禁忌を破ったということじゃな」
「決まり事は、大切なんですね」
「うむ。だからお主もけっして禁を破ってはならぬぞ。この村を出ることは――」
「大丈夫です」
ソフィアは笑顔で大魔女の言葉を遮った。
「村の皆さんには感謝してるんです。お父さんもお母さんもいない私を大事に育ててくれて。お祖母ちゃんにも、もちろん」
「こら」
大魔女は眉を吊り上げ少女の額を小突いた。
「儂のことは大魔女さまと呼びなさい。何度言ったらわかるんだい」
「そうでした。えへへ」
叩かれた頭を押さえながら、ソフィアは嬉しそうに笑っていた。
大魔女はふと暗い表情を見せ、
「……すまないね。本当はもっと年頃の娘らしいことをさせてやりたいんだが。時間がないのじゃよ……」
「えっ。何か言いましたか?」
「今は真面目に修行なされと言ったんじゃ。心配せずともいずれ旅立つべき日は来る」
聞き漏らした言葉はとても悲しい響きだったような気がしたけれど、大魔女はもう一度その言葉を聞かせるつもりはないようだった。
そして数年後――旅立つべき日は、唐突に凄惨にやってきた。
鋼鉄の足音。大地の鳴動。
大陸最大の強国が旗を掲げた移動集落の巨影は、山の悪魔のように見えた。
最初、それが何なのかわからずに漠然とした怯えに震えていたソフィアの腕を引き、大魔女は村外れの社に連れて行った。そこは遥か東方の国より伝わった、山神の怒りを鎮める魔法を込めた聖なる社である。村が魔物に襲われたときは、この場所に避難するように言われていた。
「よいか。儂がふたたび戻るまで絶対にこの戸を開けてはならぬぞ。そしてこの紐が切れたときは、迷わず逃げよ」
「……どういうことですか?」
この紐、とは社に来る道中、大魔女がソフィアの手首にまいた麻紐のことだろう。しかし、それに何の意味があるのか彼女は知らなかった。
「儂の魔力で結ばれた紐じゃ。つまり、その紐が切れたとき、儂はこの世におらん」
「えっ」
「そこの祭壇の裏には地下への階段がある。地下の洞窟をまっすぐ進めば西の国に出られる。精霊に愛された実り豊かな土地じゃ。きっと心優しき者に出会える」
「ま、待ってください! 大魔女さまが死んでしまうなんて、そんな!」
そのとき、どこからか悲鳴が聞こえ、空が茜色に染まった。
炎が上がっているのだ。
見慣れた風景が炎に包まれ、聞き慣れた声が悲痛な叫びを上げるのを前にして、ついにソフィアは理解した。
――もう住み慣れた故郷は失われるんだ。理由もわからず。脈絡もなく。意味なんてあるかないかもわからないまま。故郷と大切な人を奪われる。
その事実に思考がまったく追いつかない。私も村のみんなと一緒に戦う。魔法で、敵を排除するように頑張る。そんな言葉は何度も頭に浮かんでは、泡のようにあっさりと消えてしまう。
大魔女をはじめ秘境に暮らす人々は強い魔力を秘めた魔術師ばかりだ。彼らが手も足も出ない相手を、未熟な魔法使いに過ぎない自分が倒せるわけがない。
「ええい、覚悟を決めんか。馬鹿娘が! いつまでも震えてるんじゃないよ!」
「で、でも……みんなが……。それに、私ひとりじゃ何も……」
「大事な娘を丸腰で放り出すわけがなかろう!」
震えるソフィアの手を強くつかみ、大魔女はその手に硬い物を握らせる。こぶしで握りきれるくらいの大きさのそれは、橙色に輝く石だった。
「これは……?」
「我々秘境の民がまだ神に祝福されていた頃、友好の証に送られた宝玉。国に二つとない貴重な品じゃ。必ずやお前の行く末を示してくれるじゃろう」
「私、嫌です。みんなの顔、まだ見ていたい」
「感傷など一時のもの。死に行く者達に囚われてはならん。――レテ!」
大魔女がその名前を叫ぶと、社の祭壇の中から光が浮かび上がった。
翅の生えた小さな少女――。
「レテ!? どうしてここに」
「んー。言ってなかったっけ。レテ、ここに住んでるんだよ。この村、ここ以外はどこもエネルギーがなくて、お昼寝できないからねー」
幼い頃から遊んできた、親友とも呼ぶべき精霊の言葉にソフィアは納得した。言われてみれば、レテはいつも何の前触れもなく現れて、帰るときは村外れの方向へと飛んで行っていた。
「レテよ。ソフィアを支えてやっとくれ。グルディア帝国の奴ら……汚らわしい力に手を染めおった。奴らにこの子を渡すわけにはいかないんだよ」
「おばさん……うん、オッケー。レテが責任持ってソフィアを守るよ」
「頼もしい返事だ。これで安心して行ける」
「そんな……お祖母ちゃん! 待ってください! お祖母ちゃん!」
表に出て後ろ手に社の戸を閉めた大魔女の背中に、ソフィアは必死で手を伸ばした。しかしその手は届かない。訴えも、届かない。
「魔法の力と石がきっとお前を守ってくれる。生きるんだよ、ソフィア」
これまで見たことがないほどの優しげな声と表情でそう言い残し、大魔女は炎の上がる方向へ走っていった。
お祖母ちゃん――その呼び方に、お叱りの言葉が飛ばなかったのは、これが初めてだった。
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