【2】


「楽しみだなぁ、どれくらい大きいんだろう」


 夜。

 月の光が照らすだけの薄暗い道を、リアンは移動集落『ワンダーキャメル』の中央区画へ向かって歩いていた。

 小脇には木桶を抱え、手ぬぐいと着替えの寝間着も携えている。

 これらはすべてレテが新たに生成した品物だ。

 移動集落の精霊はその力で生態系を維持し、生活に必要な品物を生み出すことができる。エネルギーは無限ではないため、貴重な品や大きな物を生成しようと思えばソフィアの魔力を注いだり自然界で落ちるマナ等を使う必要があるが、日用品程度であれば造作もないという。


 ――おかげで長い旅の道中にも、風呂にありつける。


 リアンの目的地は、大浴場だった。

 以前『ワンダーキャメル』を操っていた精霊が造り、今はレテの魔力で湯を沸かしている精霊温泉。田舎村に育ちけっして裕福とは呼べない生活を送ってきたリアンにとって、泳げる程の広さの公衆浴場は見るのも初めての体験だ。胸の高鳴りが止まらない。

 半ば跳ねるような足取りで、リアンは大浴場の建物へ向かう。

 大理石で造られた豪奢な建物が見えてきた。

 壁と屋根の間にわずかに隙間の空いた建物で、そこから白い湯気が漏れ出ている。

 鼻を撫でる特徴的な硫黄臭は、まさしく噂に聞く温泉の香りだ。


「ゆっくり体を癒やさないとな!」


 すこしテンションが上がるのを自覚しつつ、リアンは上機嫌に入口から中に足を踏み入れる。

 正面は温泉。真っ白な湯気に覆われていて、いまいち様子がうかがえないが、天然の岩に囲まれた空間がそこにあるらしいことはぼんやりとわかった。

 左右の壁にはずらりと棚と籠が並んでいた。おそらく脱衣所だ。まずはここで服を脱ぎ、湯に浸かれということだろう。

 リアンはそのうちのひとつの籠を適当に選び、迷いなく脱ぎ捨てた服を詰め込んだ。

 太陽石の装飾品だけは首から下げておく。どんなときでも宝物は肌身離さず持ち歩いておくものだ。

 準備万端。リアンは、温泉へと足を踏み入れる。

 つま先から湯の中に入った瞬間、体の芯まで温まるような感覚に身を震わせた。

 背骨がふやけるような錯覚に襲われて、思わず口から感動の声が漏れる。


「おおおっ……これはすごい」


「ふえ!?」


「……………………………………えっ?」


 そのとき、時間が凍りついた。

 思いがけず白い湯気の向こうから聞こえてきたのが、女の子の声だったがために。

 目が湯気に慣れ始め、白一面の光景の中に人型のシルエットが浮かび上がる。

 それは適度な丸みを帯びた正真正銘どこから見ても女の子のもので。

 髪を留めるリボンも、体をまとう服もないが、リアンにとっても見慣れた少女――。


「ど、ど、ど……どうして、リアンが……?」


「ソフィア!?」


 岩場に腰かけて体に湯をかける仕草のまま、ソフィアは呆然とリアンを見つめていた。

 一糸まとわぬ姿は、美しい女神に似ていた。

 ほんのりと上気した白い肌。

 濡れた長い髪。

 年頃の娘らしい胸のふくらみと、かすかに色づくその先端は、


「み、みみ――見ないでくださいっ!!」


 慌てた彼女の片腕によって素早く隠される。


「ごご、ごめん見てない! いや見たけど! 見ないようにするから!」


 リアンは慌てて顔をそむける。

 まだ湯に浸かったばかりだというのに、もうすでに体の芯まで熱くなっていた。

 胸に手を当て深呼吸。心拍数を正常化せんとリアンが努力していると、背後でざぶんと音がした。


「……も、もういい……ですよ」


「や、良くないだろ」


「お湯の中に入りましたから。見えない……と、思います」


「そ、そうか。それなら」


 かすれ声で言うソフィアに、リアンはぎくしゃくしながらも振り向いた。

 首が錆びた歯車のようだった。


「ぶくぶくぶくぶく」


「いや、なんだその、いるとは思わなくて……ごめん」


 慌てて飛び込んだのだろう、ソフィアは口まで湯の中に沈めながら顔を真っ赤にしている。そんな姿を見せられて、リアンは謝罪の言葉を口にせずにはいられなかった。


「いえ……わたしもうかつでした」


「宿に泊まってた頃は自然と入浴時間を分けてたから、うまくやれてたけど。今度からはちゃんとルールを決めなくちゃ駄目だな……」


 この『ワンダーキャメル』内には民家がいくつも建っているため、リアンとソフィアはそれぞれ別の民家で眠ることにしていた。

 いつまでも同年代の男子とひとつ屋根の下は居心地が悪かろうと気を遣ったのだが、その結果に丸裸の姿を目撃してしまうことになるとは。

 もちろんリアンとて思春期の男である。異性の裸に興味がないと言えば嘘になる。

 しかし今回ばかりは申し訳なさと罪悪感が勝り、リアンはきゅっと肩をすぼめた。


「…………」


「…………」


 沈黙が場を支配する。

 あまりの気まずさにリアンは裏返った声でこう言った。


「お、俺、出ようか?」


「えっ。どうしてですか?」


 意外な言葉が返ってきて、リアンはきょとんとした。


「どうしてって……そりゃ、気まずいし」


「そんな。私に気を遣う必要はありません。リアンも体を清めるためにここに来ただけですし。その……恥ずかしいですけど、嫌、とかではありませんし」


「うぐ……」


 そう言われてしまうと出るに出られない。どちらかというとリアンの方が気まずさに耐えられないから逃げ出したいのだが、今出たら、まるでソフィアと一緒にいるのが嫌だと宣言しているみたいになる。


「……静かですね」


 沈黙に耐えかねたのか、ソフィアが口をひらいた。


「そうだな」


「今こうしてる間も、『ワンダーキャメル』は歩いてるんですよね」


「まあ、そうなるな」


「不思議……街が歩くなんて。村を出てから、知らないことだらけで、頭の中が一杯になっちゃいそうです」


「故郷が恋しくなった?」


 声に寂しげな雰囲気を感じて、リアンはそう訊ねた。

 ソフィアは、ふるふると首を振る。


「まったく寂しくないと言えば嘘になりますけど……でも今は、リアンやレテ、イングリットさんがいてくれますから。毎日があの頃になかった刺激の連続で、ドキドキが止まりません」


「まあ今回みたいに刺激的すぎる展開は困りものだけどな……」


「…………」


 無言になった。

 ソフィアはひと言も声を発さぬまま、じーっとリアンの方を見つめている。


 ――しまった。口を滑らせたか?


 今更ながらに恥ずかしさを再認識したソフィアが悲鳴をあげて怒り狂う姿を想像し、リアンは身構えた。

 ……しかし予想していた展開にはならなかった。

 むしろソフィアはどこか興味深そうな目でリアンの胸元を見つめている。


「それ、お風呂でもつけてるんですね」


「それ? ……ああ、これのことか」


 太陽石のアクセサリを掴み、ソフィアの目にも見えやすいよう顔の前に掲げた。橙色の輝きを帯びたその石は半分に割れている。父の贈り物として村に届いたときから欠けていたので気にしたことがなかったけれど、あらためて見ると、あまりにも不完全で不格好な代物に見えた。


「あれ? すみません。ちょっと、よく見せてください」


「えっ。わわっ、ソフィア!?」


 ソフィアが唐突に立ち上がり、ばしゃばしゃと音を立てながらリアンに近づいた。な、何だいきなり!? 目と鼻の先に真っ白な裸身が迫り、リアンは目のやり場に困ってしまう。

 そんな彼に構うことなく、ソフィアは大胆に顔を近づけた。その目はリアンの肉体――ではなく、胸元の太陽石に釘づけになっている。


「普段は服の中に隠れていて、気づきませんでした。まさか、こんなことが……」


「お、おい。どうしたんだよ、ソフィア」


「私も持ってるんです」


「え?」


 ソフィアが片腕をリアンの目前に掲げてみせた。その手首には紐で袋がくくりつけられている。

 彼女が紐を解き、袋の中から取り出したのは、橙色に輝く石だった。


「それって、もしかして太陽石!? なんでソフィアも!?」


「私が聞きたいです! これは村から逃げるとき、お祖母ちゃんに渡されたものなんですよ。私の行くべき道を示してくれる大切な物だって」


「しかもこれ、割れてる」


 リアンが持つ太陽石と同じく、ソフィアの手の中にある太陽石もまた、半分に欠けた不完全な代物であった。


「どうしてソフィアがセレスにしかないはずの石を……まさか親父は嘘をついてたのか」


「そ、そうとは言い切れないと思います」


 ソフィアは慌ててフォローする。


「お祖母ちゃんも『この石は国に二つとない貴重な石』と言ってました。あれは、セレスにしかない石だという意味かも」


「でもそれなら、そのお祖母ちゃんとやらは、セレスの実在を知ってたってことになるよな」


「……あり得るかも、しれません。お祖母ちゃん、不思議な人でしたから……」


「なあ、聞かせてくれないか」


 リアンはソフィアの肩をつかんで、真剣な表情でそう言った。

 過去を必要以上に追及して辛い記憶を掘り返すのは酷だと思い、これまでは訊かないできた。しかしソフィアの祖母とやらが理想郷セレスへ行くためのヒントを握っているのであれば、話は別だ。

 もしそうじゃなかったとしても、ソフィアが太陽石を持っているのは事実。それには何か深い意味があるような気がしてならなかった。


「ソフィアのことを、聞かせてくれ。この太陽石のことも」


「……わかりました」


 ソフィアはうなずいた。彼女としても祖母の形見として大切に抱えてきた石と、まったく同じ物をリアンが持っていたことに、ただならぬ縁を感じていた。

 この偶然には、ただの偶然に留まらない、何かがあるような気がしていた。


「お話します。私のこと。そして、私のいた村のことを――」

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