【8】
赤き大蜘蛛――『樹海の王』が歓喜の雄たけびをあげた。
ソフィアはビクリと背筋を伸ばして立ちすくむ。レテもソフィアの帽子の陰に身を隠し、声をふるわせた。
「な、なんなのあれ!?」
「『樹海の王』で間違いなさそうだな」
「あれが!? 『樹海の王』ってゴリラとか狼とかの魔獣じゃないの!?」
悲鳴じみた声をあげてレテが言う。たしかに「王」と名がつく獣といえば、獅子などを連想するのが自然で、先入観を持っていたとしても仕方のないことだった。
が、実物を前にした今、現実逃避をしても何も始まらないわけで。
「とにかく今は目の前のアレを倒すことに集中しよう」
「簡単そうに言うけどさぁ! あんなバケモノどうやって倒せばいいワケ!?」
レテは情けない声をあげた。
リアンは目を細め『樹海の王』の姿をつぶさに観察してゆく。およそ十秒。それだけの時間を思考した後、レテの体をつかんで口元に引き寄せた。
「なぁっ!?」
いきなりつかまれたレテは声を荒らげ、ジタバタと手の中で暴れる。
「落ち着け」
「落ち着いてられるかっ! こんなときに何すんの!?」
「こんなときだからこそだよ」
興奮し、ふんすふんすと鼻息を漏らして暴れるレテの耳元に口を寄せ、リアンはささやいた。ピタリとレテの動きが止まる。
「その方法で……本当に倒せるの?」
「ああ。だからレテにはその場所を探してほしい。そこさえ見つければ、俺たちにも勝機がある」
「たしかに、アンタの言うこともわかるけど」
「頼む。勝つためだ」
「わかった。わかったよ! どうせ他に方法はないしね」
体を握られ、耳元で真摯にお願いされて、レテは反抗する気も失せて承諾した。
完全に納得した表情ではない。だがリアンの作戦がまったく芽のないものだとも考えていない。そんな様子だ。
「レテが見つけてくるまで、死んだらダメだからねっ」
そう言い残してレテは飛び去った。
樹上に飛び上がった小さな影に反応し、大蜘蛛の複眼がぎょろりと動く。牙の隙間から銀色の糸が勢いよく吐き出される。
しかし、その糸は小柄な精霊の体に絡みつく寸前、突如として発生した炎に焼かれた。
「さ、させませんからっ」
ソフィアが緊張に息を荒らげながらそう言った。
右の手のひらからわずかに熱気の痕跡と煙があがっている。
攻撃を邪魔された『樹海の王』は、怒り狂ったように咆哮をあげソフィアの方を向く。
「まだまだ終わりじゃありませんよ。フレイム!」
ふたたび、詠唱。
紅蓮の炎が大蜘蛛の体を覆い尽くす。
が――
「あ、あれっ?」
驚愕することになったのは、ソフィアの方だった。
炎を回避するどころか『樹海の王』は、唾液まみれの口を大きく開いて、正面から炎を受け止めた。否、受け止めただけではない。顎が小刻みな上下運動を見せている。
咀嚼しているのだ。
「炎を……食べてます……!」
「それだけじゃないぞ。あれは……」
その奇妙な変化にリアンは即座に気づいた。
『樹海の王』のまだら模様の腹部。ひょうたん状にふくらんだそこが先ほどよりも膨張しているような気がする。しかも半透明のその部分は赤々とした輝きを帯びていた。
――まずい……!
リアンの中にひとつの仮説が浮かび上がる。『樹海の王』がどのようにして炎を生み出しているのか。その秘密はあの赤いふくらみにあるのではないか。
自然界に存在する熱を体内に集め、何倍にも増幅して炎の攻撃に変換しているのだとしたら。ソフィアの強力なフレイムを吸収したことで敵は脅威的な力を手に入れてしまったのではないか。
「逃げよう、ソフィア!」
「えっ!? でも……」
「あいつは、食べた炎を自分の力に変えてるんだ。次は、とんでもないのが来るぞ!」
リアンがそう言った、次の瞬間だった。
がぱりと開けた口の奥から、凄絶な炎が吐き出された。炎は地面を舐めるように落ち葉を焼き払い木々を呑み込んでいく。
どうにか直撃は避けた。しかし熱された空気に触れるだけでも火傷しそうな熱さに、リアンは額から汗を噴き出し、顔をしかめる。
クソ。これをしのぎ続けるのは、かなり骨が折れるぞ。
――頼む、レテ。早くしてくれ……!
「アタシも加勢しようか?」
軽快な動きでリアンたちに追いついてきたイングリットが、弓を構えてそう提案した。
戦力差は絶望的。今は一人でも手が欲しいところだろう。
そう考えてのイングリットの提案だったが、意外なことにリアンは首を横に振った。
「いらない」
「本気で言ってるのかい? あのバケモノにアンタたちだけで勝てるとでも?」
「でもこれは試験なんだろ」
リアンはイングリットの目をまっすぐに見つめた。
「移動集落を譲り受けようっていうんだ。これくらいの試練、自分で切り抜けられなくてどうするんだよ」
移動集落の数は限られている。神族の遺産とも呼ばれるその生きた都市は、現代人には理解不能な技術を用いて造られており、新たに製造されることも複製されることもない。
現存する貴重な移動集落をわずかに残されたマニュアルに従い、維持管理するのが関の山だ。
ゆえに移動集落はとても貴重で、信じられないような高値で取り引きされる。
やすやすと手に入るものではない。
リアンもそれを理解しているから、そんなことを言ったのだろう。
が――
「無茶はよしな。死ぬよ?」
イングリットは声を押し殺して警告した。それは、心からの言葉だった。
しかし、ハハハ、とリアンは笑い飛ばす。
「かもしれないな。でも、大丈夫だ。あいつを倒すアイデアは、ある」
「なんだって?」
「とにかく今はひたすら時間を稼ぐ!」
イングリットから視線を外して、リアンは隣を走るソフィアに目を向ける。
「なあ、魔法で足を止められないか?」
「で、でも、フレイムは効きませんよ」
「ああ。どうやらあいつは火属性みたいだからな。水の魔法は使えないか」
「すみません、水の魔法は覚えてないんです」
ソフィアはしゅんとうなだれた。
しかしハッとして、顔をあげる。
「いえ、待ってください。あの魔物にも効く魔法……ひとつ、使えるかもしれません」
「本当か!?」
「はいっ。試してみますっ」
その場に立ち止まる。
背後からは『樹海の王』が泳ぐように木々をなぎ倒しながら迫っている。
「新しい魔法、試すときがきました――」
ソフィアは両手を合わせ目を閉じる。
唇が動く。呪文が紡がれる。彼女の全身が淡い光に包まれる。
瞬間――『樹海の王』がピタリと動きを止めた。
ギチギチ、ギチギチ、と牙を鳴らして、遠巻きにソフィアを眺めている。本能が、近づいてはいけないと警鐘を鳴らしているのかもしれない。
「これは……」
「なんだい!? なんかまがまがしい雰囲気が……」
リアンは目を見開き、イングリットも、鳥肌を浮かべてふるえあがった。
無理もない。
ソフィアが使用した魔法は、その危険さゆえに古代の魔法使いが封印した禁呪である。
価値のないガラクタ。詮無き古びた本。
そんな偽りの姿に偽装され、隠されてきた猛毒の魔法――。
「――ポイゾン!」
呪文名が高らかに発せられる。
ソフィアの周囲に満ちていた邪悪な魔力が上空へと昇っていく。
魔力は、紫色の雲となった。
紫色の雲は奇妙な脈動を見せた後、
ザアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア。
と、紫色の雨を降らせた。
粘ついた雨粒が赤き大蜘蛛の体に降りかかる。
「ギアアアアアアアアアアアアアア!!」
『樹海の王』の慟哭が轟いた。その巨体のあちこちから白い煙が噴き出ている。まるで酸をかけられたかのように体が溶け崩れ、赤き大蜘蛛は苦しげに身悶えた。
しかし、『樹海の王』の行進は止まらなかった。猛毒に身を蝕まれながらも尚、闘志をむき出しにしてリアンたちを追ってくる。
毒の致死量というものはその者の体の体積によって変わる。同じ毒でもドラゴンを殺そうと思えば、ゴブリンを殺すために必要な毒の十倍、いや、百倍の量が必要になるのだ。
ポイゾンの猛毒は『樹海の王』を完全に殺すには足りなかった。むしろ生命の危機を感じた『樹海の王』はより一層猛り、最高出力で炎を噴出した。
「うわ熱っ!」
「ご、ごめんなさい。倒しきれませんでした」
「いや、だいぶ効いてる。このままいけば……なあっ!?」
リアンは急に声をあげて立ち止まった。
後から続いてきたソフィアとイングリットの体を、慌てて手で制する。
目の前は崖になっていた。
かなりの高さだ。
眼下にはただ暗闇が広がるだけで、何も見えない。
落ちたら無事で済みそうもなかった。
背後を振り返れば、『樹海の王』が怒りの声を喚き散らしながら直進してくる。
行くも死、戻るも死。
難しい判断を迫られる中、リアンは、ふいに聞きなれた声を聞いた。
「リアン! ソフィア!」
「……レテか!?」
精霊のレテが目の前に浮いていた。
彼女は叫ぶ。
「目的の場所を見つけたよ! 湖は――この崖の下!」
「……でかした!」
リアンは宝剣を構え、振り返った。
条件は整った。
これであの『樹海の王』を倒すことができる。
リアンの顔からは恐怖は消え去っていた。
やることはもう決まっている。であればもう迷うことは何もない。
「キシャアアアアアアア!!」
樹木を押しのけて、大蜘蛛の巨体が眼前に現れた。
リアンはすぐさまその体の真下に滑り込み、剣を振るった。
「せああああっ!」
剣の重みを力に変えて強引に振り抜く。刃が蜘蛛の節足に刺さる。
ガギン! と音がして、節足がわずかに折れる。
そして、『樹海の王』はよろめいた。
普通であれば脚を攻撃されたくらいでバランスを崩したりはしなかっただろう。
だが今は、ソフィアのポイゾンを受けて弱っている。
巨体が傾き、巨大な牙のついた顔の位置が、リアンの剣が届く距離まで下がってきた。
「落ちろ!」
リアンは剣を振りかぶって、力任せにたたきつけた。
斬る、というよりも、殴打する、という感じで強烈な打撃が蜘蛛の顔面にぶちこまれる。
ただでさえ平衡感覚を失っていた『樹海の王』は顎を打ち抜かれた衝撃で、崖から足を踏み外した。
「ギイイイイイイイイイイイイイイイイイ!!」
悲鳴じみた声をあげながら巨体が崖の下へと落ちていく。
その口から四方八方に銀色の糸が飛び、炎が噴射される。
しかし、そんな最後の足掻きはどこにも届かない。
空中には糸を付着させる木もなければ、燃やすべき敵も切り拓くべき道もない。
ただただ眼下で待ち受ける湖に落下していくだけ。
仮に『樹海の王』に人間らしい理性があれば、崖の岩肌に糸を付着させたり、崖上の木を狙って糸を吐くといった機転がきいたかもしれないが、本能のままに生きる魔物にそれを求めるのは無理なことだろう。
暗闇の底に落ちた『樹海の王』は、盛大な水しぶきをあげた。
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