【7】


 イングリットの暮らす小屋がある場所は樹海の入口に過ぎなかったと、リアン達はすぐに思い知らされることになった。

 人の通る道どころかけもの道さえ消え、足場という足場の見当たらない道が続く。

 突き出た木の根で地面は凹凸が激しく、不規則に伸びた枝葉が行く手を阻む。

 日の光もうっすらと葉の隙間から差すのみで、ひんやりとした冷気が体にまとわりついてくる。


「……で、どうしてアンタもついてくるんだ?」


 リアンは背後を振り返って言った。

 そこにはさっきから一定の距離を保って後ろをついてくる、銀色の髪の女性――イングリットの姿がある。


「ほっときな。アタシにはアタシの狩りがあるんだよ。それに、アンタ達がインチキをしないように見張っておかなきゃだしね」


「インチキなんてするわけないだろ」


「うっさい。アタシのことはいいからさっさと冒険を進めな!」


「まあべつにいいけど」


 いまいち釈然としないリアンである。

 ソフィアが肩越しにこっそり振り返り、リアンの耳元でささやいた。


「もしかしてイングリットさん、私たちが危なくなったら助けてくれるつもりなのでは」


「まさか。あの人すごく厳しそうだぞ」


「そうでしょうか。私には優しい人に見えますけど」


「ないない。駄目な奴が意外と良い人なんて迷信だよ。人はだいたい見た目通りの性格だってば」


「それはドライすぎるような……」


 と言いつつも、ソフィアの声に自信はない。なんとなく直感のようなものはあるのだが、世間知らずの自覚がある彼女は、自分の方が間違っているかもしれないという気持ちを拭えない。


「気にしててもしかたない。俺達は俺達のやることをやるだけだ」


「そう……ですね」


 ソフィアは喉元でわだかまる感情をぐっと飲み下した。

 そうしてリアンたちは樹海を冒険していく。

 途中、何度か魔物に遭遇した。

 スライムと戦った西の森に比べて強い魔物が多くいたが、その頃に比べて格段に力をつけた二人の剣と魔法が驚くほどあっさりと敵を追い払った。

 息もぴったり合ってきている。

 リアンが魔法を使う小型悪魔インプを真っ先に倒す間、ソフィアが呪文を詠唱し、大量のスライムに対してポイゾンを使う。

 最早、戦闘においては二人のコンビネーションに敵う魔物はこの辺りにはいないだろう。


「……ふぅん」


 そんな戦闘の数々を五十歩ぶん離れた後方で見つめていたイングリットは、腕組みをしたまま目を細めていた。

 だいぶ奥深くまで進んできた。

 が、問題の『樹海の王』とやらにはまだ出会えていない。

 強大な魔物が潜む気配すらなかった。

 葉の隙間から差していた光が黄昏色に染まり、冷たい空気が流れ込んでくる。

 もう夜が近い。


「だいぶ暗くなってきましたね。かなり奥まで来たと思うんですけど、『樹海の王』の棲み処はまだでしょうか」


「そうだなぁ……なあイングリット。『樹海の王』ってどれくらいの大きさなんだ?」


「ちょっと立派な家くらいの大きさだよ」


「なるほどね」


 リアンはそう言ってきょろきょろと周囲を見回した。確信をもってうなずき、ソフィアを振り返る。


「まだまだ目的地は遠そうだ」


「そうなんですか? ……でも、どうしてそんなことがわかるんです?」


「木の密集具合と足元の草の状態を見れば大体わかるんだ」


 リアンは足元を指さした。

 ソフィアが驚いて目を丸くする。


「えっ。そんなことで?」


「森の中でけものが通ると道ができるだろ。それと同じで、巨大な魔物が棲んでたら幅の広い道ができてるはずなんだよ」


 周囲には木々が密集しており、大きな魔物が通った痕跡がない。ゆえに『樹海の王』が近くに棲んでいる可能性も低いという理屈だ。


「ふえー……」


 ソフィアの果実みたいに大きな瞳がきらきらと輝いている。


「すごいですね。まるで学者さんみたいです!」


「ふっふっふ。冒険者だからな」


「ではもうちょっと先まで進まないとダメですね。もうひとふんばりっ」


「ところがそうはいかないんだ」


 両手のこぶしを握りしめて気合い充分なソフィアに、リアンは軽く首を振って諌めた。


「やめだ。ここまでにしよう」


「へ? どうして」


「かなり暗くなってきた。今『樹海の王』と会ったら大変だ。これ以上は進めない」


「諦めちゃうんですか!? せっかくここまで来たのに……」


 ソフィアはしゅんと肩を落とした。

 リアンが首を横に振って、その肩に手を置いた。


「誰も諦めるとは言ってないだろ。野営だよ、や・え・い」


「やえい……?」


「つまりここにテントを張って、ひと晩を明かすってことだ」


 足元を指さしてにやりと笑う。

 この場所は木々や草の状態から近くに大型の魔物がおらず、野営には最適の場所だ。

 下手に進むよりもここで休んだ方がいい。

 リアンは基本的に命知らずで強引で直情的に行動する冒険者だが、決定的なところでは引き際をわきまえている。

 その判断は冒険者である父親から教わり、独学でも学んできた冒険の基礎知識に裏打ちされている。

 当然、快適な野営の仕方も知っているのだが――


「ええっ……外で寝るんですか!?」


 ソフィアの口から不満の声が漏れる。

 ……やっぱり女の子だし、不衛生な野宿は嫌なんだろうか?

 と、リアンが思っていると、


「うう……ま、またですか。木のうろの中や草の上で眠るのは、もうイヤです……」


「経験あるのか?」


 彼女の口から出た意外な言葉に、リアンは驚いて訊き返した。

 ソフィアはこくりとうなずく。


「帝国に追われている間は、ずっと外で寝てました……思い出すだけでも憂鬱です」


 どんよりと顔を曇らせるソフィア。

 彼女の頭の上でレテがぱたぱた足を動かして笑っている。


「あはは! あれは散々だったねー。ソフィアってば、虫にたかられて大泣きしてたもんね」


「そ、そんなには泣いてない! ……と、思いますけど……ごにょごにょ……」


 とっさに否定しかけた後、ソフィアの顔がかっと紅潮した。そのときのことを思い出して気恥ずかしかったのか、言い訳する声がかすれて消えていく。


「苦労してきたんだなぁ」


 リアンは同情の眼差しを向ける。

 だが、それなら――


「でも心配しなくていいぞ。そんなたくましい経験をしてきたんなら、今回の野宿は天国みたいなもんだ。テントの中は虫が入りにくいし、寝袋もふかふかだからな」


「本当ですかっ」


「ああ。だから安心して眠れるぞ」


 期待と安堵に声を明るくしたソフィアに、リアンはぐいと突き出した胸をたたいた。

 リアンは待ってろと言い、てきぱきとテントの設営を始める。

 その間、レテとソフィアは薪を集め、フレイムの魔法で火をつけた。暗い森の中、赤々とした炎が彼らを照らす。その神秘的な光景に、ソフィアは好奇心を隠せないように目を輝かせる。

 こんなにワクワクする野宿は初めてだ……と彼女は思う。

 今までは帝国兵に追われ、常に神経をとがらせてきた。

 たとえ寒い夜だとしても、居場所を悟られてはいけないからと、火を起こすことさえできなかった。

 心と体を満たす温かさにソフィアは自然と表情が緩む。

 それを横目で見ていたレテも、ふっと笑う。


(魔物がわんさかいる森の中で野宿するってのに、この落ち着きよう……。独りじゃないってだけで、こんなに心強いものなんだね)


 自分の存在だけではここまでソフィアを安心させることはできなかった。あらためて、レテは心の中でリアンに感謝する。


(……ま、声には出さないけどね。調子に乗られるとウザいから)


 ――そんな三者三様の姿を、すこし離れた場所から見ていたイングリットは、「へえ」とつぶやいた。


(適切な状況判断、野営に相応しい場所の選定、テントを張る手際もいい。あの年齢で、なかなか大した奴じゃないか)


 冒険には厳しいイングリットだが、けっして鬼ではない。まだ年若き少年少女を、魔物の餌にするつもりはなかった。困っているなら手を貸してやろうと思い、ここまでついてきたのだが。


(どうやらその必要はなさそうだね。やれやれ、本気でアタシの移動集落が欲しいってわけかい。……っ!)


 ずきん、と。ふいに胸の奥に鈍い痛みが走る。

 かつて冒険に胸躍らせていた若き日の自分の姿が、一瞬、視界のすみに見えた気がした。青臭い未来予想図を描いていた銀色の少女のことを思うと、胸が痛い。いつか未知の土地や生物を発見するんだと目を輝かせていた自分を、数年後の自分が裏切ってしまった……そんな罪悪感がイングリットにはあった。

 心の奥底にくすぶっていた激情が、二人の若き冒険者の姿に、煽り立てられる。


(何を馬鹿な……アタシは、やめたんだ)


 しかし湧きあがる感情をイングリットは拒絶した。

 もう、二度と。


(冒険なんてするもんか。こんな夢のない世界で、冒険なんか何の意味もない)


 そう思い、イングリットは寝袋の中に顔をうずめた。

 背中を丸めて、ごろりと寝返りを打つ。

 リアンたちの方を向いていたら、眩しくて、とても眠れる気がしなかったから。


「えっ……」


 が、そのとき。イングリットの眠気は、まったく別の理由で吹き飛んだ。

 視線の先で何かがきらりと輝いたのだ。目を凝らして見ずともイングリットにはその光の正体に心当たりがある。

 それは、細くて強靭な銀色の糸。それを見た途端イングリットは血相を変えて飛び起きた。


(しまっ……近づきすぎてた!?)


 あの銀色の糸は『樹海の王』の縄張りが近いというサイン。『樹海の王』の生態について熟知しているつもりだったが、イングリットが思っていたよりも『樹海の王』は縄張りを広げていたようだ。

 リアンはけっして誤った判断で野営を始めたわけではない。ただ『樹海の王』の性質を知らなかっただけだ。

 たしかに『樹海の王』はこの近くに棲んでいない。リアンの読みは正しい。だが、その縄張りは異様に広い。たとえ遠くからでも、縄張りに敵が入ったと察知すれば、たちまち怒り狂って襲いかかる……!

 銀色の糸――何百何千もの仔蜘蛛に張らせた糸のすべてが『樹海の王』の感覚器官だ。そこに一定以上の質量の生物が触れれば、王は即座に動き出す。

 イングリットはとっさにリアンたちを振り返った。

 すると、


「きゃっ……何かが髪に……。これ、蜘蛛の糸……ですか?」


「まあ森の中だしねー」


 などとソフィアとレテが微笑ましい会話を展開していて。

 彼女たちの弛緩した空気とは正反対に、イングリットは顔面蒼白となった。


「リアン! ソフィア! 気をつけな!」


 叫ぶ。

 リアンとソフィアが、「え?」と振り返る。

 そのとき。


 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザッ!!


 森が、騒ぎだした。

 葉擦れの音が激しく、力強く、森の静寂を掻き乱す。


「二人とも、武器を取りな!」


 イングリットの声にただならぬ雰囲気を察したのか、リアンはすぐに剣を手にして音の方向を睨みつけた。ソフィアも表情を引き締め、胸元にぐっと杖を引き寄せた。

 自らも構えた弓に矢をつがえ、イングリットは木々の隙間の向こう、暗闇のその先へと意識を集中させる。


 ガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサッ!!


 異音が響き渡り、


「伏せな! 焼き殺されたくなかったらね!」


「えっ?」


 およそ森に棲む魔物を相手取るときに出てくるのに相応しいとは思えない単語が出て、リアンは困惑顔となった。しかし次の瞬間、空間全体を覆う蒸し暑さを感じるに至り、すぐにその意味を悟ってソフィアの頭を押さえつけ一緒に地面に伏せた。

 一秒でも遅れていたら即死だっただろう。

 炎だ。

 河川の氾濫のように、炎の濁流が木々を飲み尽くしながら迫っている。

 炎は木々を焼き払うとリアンたちの頭上を通過して反対側の木々までも燃やし尽くした。


「冗談じゃない。こんなんアリかよ」


「あ、あわ……わ……」


 その光景を前に舌を打つリアンと、ただただ唇をふるわせるだけのソフィア。

 二人の眼前には、炎に焼き尽くされ焦げ朽ちた木々が、まっすぐどこまでも続いていた。

 それを見て、リアンたちは知る。

『樹海の王』とは樹海を傍若無人に踏み荒らす暴君――圧倒的な力を振るう覇王なのだと。


 その、威容は。

 怒りに狂える炎の如く猛々しい色。

 ガチガチと鳴る大きな牙。

 一本一本がまるで木の幹かのように太い脚が、八本。

 それはひと言で表現するなら、赤い蜘蛛だった。

 見上げんばかりの大きな赤い蜘蛛が、ぎょろりと複眼を不気味に蠢かせる。

 ガチガチガチガチ。牙が小刻みに何度も音を立てる。牙の隙間から、どろり、と白い粘液のようなものがこぼれた。

 唾液だ。

『樹海の王』は、質量ある獲物を前にして、


「キシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」


 歓喜の声をあげた。

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