沈まぬ月と廃墟

そこに、私の真上にいたのは崩れた二階の床の淵に腰を掛け、きっちりそろえた脚を一階の頭上へと下している可憐な少女であった。彼女の膝に座ったさっきの黒猫よりも艶の良い烏羽色の黒髪は肩に届かないぐらいのショートカットで、髪の黒、あるいは夜の黒とは、対照的な白いワンピースを着ていた。歳は十五、六と言った処であろうか。細身の長身である。肌は病的なまでに色白で、顔立ちは凛として、妖艶だ。夜の似合う少女であった。私はなぜだか少しだけ懐かしい様な気がした。

「君は誰?」

そう聞く私の声は少しだけ震えていたかもしれない。神秘的な彼女は私の心を揺さぶった。

「そんなこと私にも分からないよ。自分が誰かなんて」

そう答える彼女の声には悲観的な表情はなく、全てを悟ったかのような毅然とした声色をしていた。

「名前も分からないの?」

「ねえ、林檎はなんで林檎っていうんだと思う?」

私の質問には答えずに、彼女はそんなことを言った。彼女は私が面食らう様子を見て楽しんでいるようだった。

「知らないよ。急にどうしたんだ。変なひとだなあ」

「林檎の檎の字はね、元々鳥を表す漢字だったの。林に鳥が集まるから林檎。ちなみに『林』という言葉の語源は『生やす』を名詞化した『生やし』。でもこうやって説明しても、なんで林檎が『り』『ん』『ご』の三音で表されるのかの説明にはならない。つまりね、名前自体に意味はないんだよ。林檎でもapple でもなんでもいいの。ただ私達は何かに名前を与えて、分かった気になってるだけ。ううん、実際は与えてるのではなくて、言葉を作ることで林檎というものが存在するんだよ。言葉がなければ私たちは認識できないから。でもね、私は林檎と違って名前なんてなくても存在してる。たった数音に私という存在を要約する必要なんてないよ」

彼女は常に落ち着いた口調のまま、それでいてあどけなさの残る話し方で話し続けた。

「それなら、すでに『わ』『た』『し』の3音で自分のことを言い表してると思うよ」

「あはは、本当だ。君は頭がいいね。でもまあ、要するに私に名前なんていらないの。名前をつけられるなんて、定規で引っ張られた線で囲まれるようなものだよ。それ以上でも以下でもなくなってしまうでしょ」

「そうかもしれないね。それなら納得できるよ」

定規で引っ張られた線。そんなものに囲まれてしまうのはさぞかし息苦しいだろう。

「でもさ、名前がなかったら自分を失ったりしない?」

「見失うも何も、自分がどんな存在かなんて元から知らないよ。鏡も見たことないしね」

それでは彼女は自分の顔も見たこともないのだろうか。

「綺麗だよ」

「え?」

「君の顔」

「どうしたの急に」

「鏡を見たとこがないって言ったから」

「そんなの嘘だよ。どうやって髪の毛を整えたりするのよ」

「それもそうか」

二人は声を出して笑った。私達の笑い声が澄んだ夜空を通って満月まで届くのが分かった。

「ねえ、こっち来なよ」

少女は自分の隣の床をぽんぽんと二回叩いて言った。そこは、ほとんど崩れてなくなってしまっている二階の床の淵だった。

「危なくてそんな所いけないよ」

「大丈夫だよ。ほら私も座ってるんだから」

少女に言われるがまま、私はくの字の階段を上り二階へと上がった。

 二階の床には、割れた窓ガラスや、ボロボロに崩れたコンクリート塊が散乱していた。壊れた天井からは一階よりも夜空が近く見え、崩れた壁、割れた窓からは、黒々とした森の木々のちょうど葉のあたりが目線と並ぶ。私は彼女の隣に腰かけた。床が崩れて抜けてしまった場所からは、先ほどまで私がいた一階が良く見渡される。普段ならばこんな視点からフロアを眺めるということはありえないので、なんだか天上から地上を見ているような浮ついた気分だった。

空いた大きな穴から夜空を見上げると私達を見守る満月は二人を同じ光の中に包み込んだ。

「月が綺麗だな」

 私は誰に言うでもなくそう呟いた。

「I love you.の訳語だったかしら」

「そんなつもりじゃあ、なかったんだけどなあ」

 ここで、例の夏目漱石の逸話を持ち出されるとは思わなかった。しかし、そう言われてしまうと、元々の意図が忘れられて、本当にI love you.の訳語として使ったように思われるから、変な気分だ。

「冗談よ」

 少女はいたずらっぽく笑った。

すると、この会話を聞いていたのか、黒猫はむっくりと起き上がり彼女膝を離れると月に向かって伸びをした。そのとき黒猫が発した声は、狼のように力強い咆哮ではなく、途切れそうに思えるほど細いか弱い鳴き声だった。

黒猫の毛並みは月の光に照らされ、より艶を増した。月を仰ぐ黒猫の姿は、どことなく感傷的で、夜の精神そのものに見えた。

「そう言えば、この子は君の猫なの?」

「違うよ、ただの野良猫。でも、いつも私が世話をしてやってるの」

「こんな、山奥まで来て?」

 彼女は、きょとんとした顔で、首を傾げた。不思議な少女だった。

「ねえ、あなたはここで何してるの?」

少女は本当にどうでもよさそうに私に聞いた。彼女にとって、私が何をしているかよりも満月の美しさの方がよほど重大なことのようであった。

「同じ質問を君にもしたかったんだ。君こそ何をしてしてるの?」

「私はここに住んでるから、ずっとここにいるよ」

確かに、少女はこの廃墟の住人として、あまりにふさわしいように思われた。

「人間がいないところが好きなの。鬱陶しくないから。こんな、人間が滅びてしまったような廃墟なんて、一番いいわ」

彼女の声は芳醇な、それでいて刺激のあるツンとした、百合の花のような匂いがした。

「いつからここに住んでいるの?」

「忘れた。一万年ぐらい前からかな」

先ほどこの階段の続く先を見上げたときに、この二階には誰もいなかった。彼女は、私が廃墟に来たときから、ここにいたと言っていたが、それは明らかな嘘である。でも、私がこの廃墟に入った後に、階段を上ったのだとすれば、個人宅程度の大きさのこの廃墟の中では気がつかないはずはなかった。

彼女は天から舞い降りて来たのかもしれない。一万年とは言わず、この世界ができたときから、彼女はここでずっと満月を見上げていたのかもしれない。彼女の神秘的な雰囲気は、私にそんな突拍子もない妄想でさえ、疑うべくもない事実のように認識させる。

私は月を見上げた。今晩は何度だって見上げよう。

「ねえ、あの月はなんで、時間が経っても傾きもせず、同じ場所にずっといるんだい?」

今晩、初めて満月を見上げたときから、その位置は少しも変わっていなかった。

「それじゃあ、そもそもなんで月は、くるくる動いて、昇ったり沈んだりしなければいけないんだと思う?」

「地球が自転してるからだよね」

「地球は回ってなんかないよ」

「今時、天動説かい?」

「確かに、地球の外から見れば1日1回地球が回ってるように見えるかもしれない。でもね、私達はこの地球上にいるのよ。地球から見れば月の方が地球の周りを回ってる。地球が回っているのも月が回っているのも、どっちも同じことだよ。私達には関係ない」

「じゃあなんで、月は回るんだい?」

「完全な球体は、空で同時に輝いてはいけないからだよ。だから太陽と満月とで契約して交代で空に現れるの。たとえ、夏の日に満月が日の沈む前に出て来たとしても、出来るだけ輝かないようにして太陽が去っていくまでじっと待ってる。でもね、満月は月に一度しか出て来ることを許されない。なのに太陽は毎日空に現れては地上を焼き尽くそうとする。太陽はとても傲慢な生き物よ。だからわたしが殺してあげたの。もう、満月は沈む必要はなくなった、だからこうして永遠に輝き続けることができるんだよ」

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