廃墟の中の少女と黒猫


ふと、床と壁の交わる角で濃くなった陰のところに、サッっと比較的小さな影が通り過ぎたような気がした。私は急に怖くなった。本能的な防御反応である。いつにもなく、全身の神経が緊張していた。過敏になった私の神経は、風にさえ驚く。サッ。私の後ろを例の影が通り過ぎた。普段は気にしない程度の風が、私の肝を冷やし、森の木々をざわつかぜる。人間にとっての脅威であるところの自然が、とてつもなくちっぽけな私を見下ろし、嗜虐的に、そして気味悪く、笑っているかのようにさえ感じた。サッ。ついに影は、私の目の前に、向かい合った階段に姿を現した。そいつは、黒くつやつやとして整った体毛を全身に身にまとい、抜き足差し足、音をたてぬように歩いている。背中を弓なりにまげ、顔をこちらに向けている。私に向けられたその眼は、黄色い冷たい色をしていた。そいつの後ろでは、ピンと立った黒いもさもさした棒状の物がうごめいていた。そいつは小さな口を開いた。

そして、そいつはニャーと鳴いた。「なんだ猫か」私は思わずつぶやいた。今までおびえていた自分が馬鹿馬鹿しい。影の正体はただの可愛らしい黒猫であった。しかし、人のいないこんな場所でどうしてこの猫は生きているのだろうか。あるいは、昔この辺りで飼われていた猫の子孫かもしれない。だが、たとえそうだとしても、こんな場所で生きる猫の生命力に驚かされる。私は、猫のいるところまで近づいた。黒猫は警戒して一歩後ろへと下がるが、逃げる様子はない。私は、試しに黒猫の頭を撫でてみた。眉間のあたりを親指で、頭のてっぺんは手のひらで優しく撫でる。黒猫は気持ちよさそうに喉を鳴らした。辺鄙な森の中に住んでいると言えども猫は猫であった。ところで、この黒猫一行に逃げる様子はない。人間を見た事が無いのなら、警戒して逃げるだろうし、あるいは街中に住んで人間に慣れた猫であってもやはり逃げるだろう。案外人懐っこい猫なのかもしれない。私は、何も食べ物を持ってこなかったことを後悔した。何かふさわしものがあれば、この猫にやったものを。その代りというわけではないが、私はしきりに黒猫を撫でまらした。頭の次は、耳、背中、喉、といった具合である。だいぶ懐いて来た様子でニャーニャー鳴くので、今まで隣に座っていたのを膝の上に乗せた。そしてそのまま愛撫を続けた。

「あなたも、猫が好きなの?」

 突如頭上から聞こえて来た女の声に私は驚いて飛び上がった。するとその拍子に膝に乗せていた黒猫も膝を下りて、階段を下り、向かいの階段、さっきまで私が座っていた階段、を登り始めた。くの字に折り返した階段を二階まで上がっていく。

「ふふ、私ならさっきから、ここにいたよ。気が付かなかった?」

 彼女は私が驚いて飛び上がったのを見て言った。

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