直線の崩壊した理想郷

 どれだけ歩いただろうか、道のその先に入ることを求め、ひたすら進み続けた。それでも満月は少しも傾くことなくずっと同じ位置から私を見守っていた。

ひたすら続いたけもの道に終わりが訪れた。道は一件の廃墟に続き、そこで途切れていたのだ。木々は廃墟のすぐ近くまで迫っているものの、そのあたりだけが少し開けた場所になっていた。コンクリートがむき出しになった壁には、蔦が這い、割れた窓ガラスの残る、四角い穴から廃墟の中へと侵入している。上へと目を遣ると、二階はすでに、ほとんど崩れ落ち、一部にコンクリートの壁を残すのみである。二階の壁は斜めに割れていて、とがった壁の残骸が、いびつな反比例のグラフのように切り出されていた。ちょうどその隣、元は壁であったであろう部分から、満月が見えた。裏側であるために月に照らされることのなく、真っ暗な影となったこの大きな壁は、妙な圧迫感を以て私に迫って来た。私はあの時私を誘った黒は、この廃墟へと私を連れてこようとしていたのだと思った。直線が破壊されグチャグチャの断面を晒している建物の様子を見て、私の心の中に何か温かいものが流れ込んでくるのを感じた。

私はこの廃墟の入り口を探した。しかし、少しまわりこんでみるとそんな必要は全くなかったことが、すぐにわかった。というのも、私が最初に見た壁が最も保存状態が良かったらしく、他の側面では一階でも、壁が破れ、簡単に中へ入れるほどの大きな穴が口を開いていた。その穴は、淫らな温かみを以て私を受け入れようとしているように思えた。壁にぽっかりと開いてしまったその穴からは、廃墟の中の様子がよくうかがうことができた。これまたコンクリートがむき出しになった床には、この辺りの森にあったのと同じような湿りっ気のある土が所々に散らかっている。人間からとうの昔に見放された、過去の遺物は、人間の栄華を嘲笑うかのように、森に浸食されているのだ。廃墟は、私を、人類が滅びたような錯覚に陥らせた。人間などほとんどいないこの大自然で、たった一人取り残されたような錯覚。私にとって、この感覚は、悪いものでは無かった。それどころか、安心感さえ覚えるのだ。崩れた天井からは、夜空が覗き、月の温かな光が、ベールのような薄い膜を作って、私のところまで降りてくる。ああ、やはり、ここは月の神殿だ。ここが、私の居場所なのだ。こんなにも、優しく、美しい世界がかつてあっただろうか。何の理由か知らないが、かつてこの建物を築いた人間はいなくなってしまった。そして、永遠の孤独が訪れたのだ。人間の作った道徳、そんなものからかけ離れた場所、それが孤独であり、善悪の彼岸である。私は疲れていたのだ。吐き気のするような直線ばかりでできたあの世界に。ここは、あの世界とは無関係の、理想郷。直線の崩壊は美しい。この大きな、遺跡のような廃墟。どれだけまっすぐな直線を人間が描いたところで、やはり、それすらも自然の手の内にあるのだ。そして、寛容な自然がその一時の秩序を許しているに過ぎない。それは、森の一部と化した、この人間の遺品が、よく物語っているではないか。ああ、人間なんて滅びてしまえ。そして、私を、退廃した、美しい世界で、安らかに眠らせてくれ。これこそが、至高の安らぎ。月光のベールは、愛撫する如く、私を取り囲む。私は、雄大な自然に身を任せ、この楽園を見渡した。ただれて鉄筋の見えた壁、壁と天井の交わる角にできる黒々とした陰、崩れた壁や窓の穴から覗く恐ろし気な森。そのすべてが、私を圧倒し、私を征服した。エクスタシーにも似た興奮が、私を満たした。それは、母の腕に抱かれるが如き充足と、絶対的なものに服従する官能的な悦びであった。

 しばらくして、少し歩いてみると、かつてあったらしい二階へとつながる階段があった。階段は途中でくの字に折り返した形をしていて、向かい合うような形で対になって二つある。片方は、落ちてきたコンクリート塊によって、グチャグチャになってしまった断面をそのままにしていた。また、崩れた方は、階段で登っていくはずの二階の天井も抜け落ちてしまっている為に何か変わった奇妙なオブジェのように置かれているのみであるが、その反対の左側の階段は、ボロくはなっているものの、どうにか上までつながっている。私は残った左手の階段の三段目に腰かけた。じゃりじゃりとした砂の感触や、冷えたコンクリートの感覚が、服越しにも尻に伝わる。私はそれでも構わず座り続けた。

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