3-2 時をわたるノート

 くらっと、めまいがした。頭をぶつけた時とはちがって、高速のエレベーターに乗った時みたいに体がうき上がるような感覚に、直人はひっと小さく声をもらした。

 その気持ち悪い感じが、すぅっとおさまって、おそるおそる目を開ける。

 まずゆかに座りこんだ夏希の後ろ姿が目に入った。

(あれ? ぼくたち何をしていたんだっけ?)

 確か、テーブルでプリンを食べて、ノートをいっしょに見て。

 それで……と考えて、ものすごく変な感じをおぼえた。

 直人は、しりもちをついたみたいなかっこうで、手を後ろについていた。その手にふれているのは、フローリングの床じゅない。おじいちゃんの家みたいな畳だ。

 目をぱちぱちさせて、あたりを見まわす。

 そこは知らない家だった。畳の部屋。黒ずんだ太い柱。小さな机。縁側に開かれた障子。

「あれ?」

 ようやく声が出たと思ったら、後ろからだれかに両かたをつかまれた。

「君は、だれだ?」

「ひぃっ!」

 カエルが車にひかれたみたいな悲鳴を上げて、直人はふり返った。

 若い男の人だ。高校生くらいの。坊主がりの頭で、広いおでこの下に太くて真っ直ぐなまゆ毛。切れ長の目と、びっくりしたようにぽかんと開けられた大きな口。

「え、ええと」

 何を言ったらいいのか混乱した直人のとなりで、夏希が起きあがる。

「ちょっとお、なんなのいったい」

 そして顔を上げた夏希も、周りと男の人を見て固まった。

 三人の人間が変な姿勢のまま顔を見合わせる。

「君たちは、どこから入りこんだの?」

 やがて年上の少年が口を開いた。

「えっ、ええっと。まずここはどこですか?」

 夏希が答える。

「ここはぼくの下宿先の部屋だよ。そして君たちは、机に向かっていたぼくの背中にふっと現れたように見えたけど」

 少年の言葉に、直人と夏希は改めて首をめぐらせた。

 小さな机の上には見覚えのあるノートがあった。

 直人は何度もつばを飲みこんでから、少年を見上げて聞いた。

「あのぉ、もしかして。仁吾さん?」

 少年は不思議そうにうなずく。

「そう。武井仁吾だ。で、君は?」

「ぼく、咲山直人です。あの、そのノートの」

 直人はノートに向けて指をのばした。

「この不思議なノートにメッセージを書いていたのが君だって?」

「うっ……はい」

 仁吾の細い目が夏希に向く。

「じゃあ、君は?」

「あ、あたしは園田夏希っていいます」

「君が?」

 仁吾はノートと二人をかわるがわるに見てから、どすんとあぐらをかいた。

「まいったな、いや、まいった」

 うつむいて頭をかいてる仁吾をながめながら、直人と夏希もそれぞれ座りなおした。

 何が起きたのか、わかったような気がする。なぜそうなったのかはわからないけど。

 ここは百年前の世界なんだ。ノートは、時間をこえて言葉をわたしただけじゃなくて、今度は体ごとわたしてしまったのだ。夏希もいっしょに。

 まず考えたのは、どうやったら帰ることができるのかということ。

 その後じわじわと興奮がわいてくる。

 こんなこと、もうきっと、二度とない。

 静かになった部屋に、庭からセミの声が聞こえた。

 ミンミンと鳴くその声を聞いて、直人は首をかしげた。確か、まだセミなんて鳴いてなかったはずだ。梅雨の最中なのに。

 やがて仁吾は顔を上げて、二人をまっすぐに見た。

「すまないね。ちょっとあまりにびっくりしちゃって。ええと、君がこのノートでやりとりをしていた直人君で、こちらが話題になっていた夏希君だね? どころで直人君、頭の傷は大丈夫かい?」

 直人は、ちょっと手をあげてテープをなでた。頭を激しくふらなければなんでもない。

「はい。でもなんでぼくたち、ここにいるんだろう?」

「それはぼくも聞きたいところだけど」

 仁吾は苦笑して、夏希に目を向けた。

「実は、ぼくはずっと、夏希君は男子だと思っていたんだよ。でも、君、もしかしたら女の子なのかな?」

 夏希はたちまち顔を赤くした。

 こいつ、今日は何回顔色を変えるんだろうと、ふき出しかけたけど、夏希にぎろりとにらまれて、直人はあわてて口をおさえる。

「もう! 信じられない。直人の書き方が悪いんじゃないの?」

「いや、ちがう」

 仁吾が落ち着いて間にはいる。

「あくまでもぼくの先入観というものだ。それに、男子のような服装をしているしね。君たちの世界では、それが当たり前なのかい?」

 夏希の服は、プリント柄のタンクトップの上に真っ赤な半そでの綿シャツ、下はカーキ色の七分たけのパンツだ。

 ごく当たり前のかっこうだが、大正時代の人間には女の子の服装に見えなかったらしい。

 ちなみに直人は、シンプルな白いTシャツにこげ茶のズボンだ。

「えーと。はい。みんなこんな感じで……というか、時代がちがうし!」

「時代?」

 不思議そうな仁吾の顔に、直人は目をおおった。

 ノートには、仁吾が自分のひいひいおじいちゃんにあたることも、自分たちが二十一世紀の小学生であることも書いてない。

 夏希だって読んだはずなのに。

「だって今は大正時代なんですよね? でもあたしたちは……」

「夏希」

 直人は夏希に飛びかかって口をおさえようとした。でも夏希はするりとよけて、さらっと続きを口にする。

「二〇一五年の小学生なんです」

 仁吾は、太いまゆ毛をぐいっと寄せ、うでを組む。

「百年後の未来だって?」

「そうなんですっ。それにあなたは直人の……」

「夏希っ!」

 直人は、自分でもびっくりするくらいの声でさえぎった。

 自分が子孫だと知ったら、仁吾はどう思うだろう。

 こんな弱虫の子孫なんてとガッカリされるのはいい。そんなのは慣れてるし。

 でも、おじいちゃんは、こう言ってたんだ。

 おじいちゃんのお父さん、つまり仁吾さんの子どもは戦争で亡くなって、おじいちゃんは、お母さんと、仁吾さんやそのお嫁さんに育てられたんだって。

 もし仁吾に、この先に起きることをたずねられたら、直人にはとても答えられない。

「にわかには信じがたいが、そもそもノートに文字が現れたときから不思議は始まっているんだ。君たちが未来から来たというなら、ぼくはそれを否定はしないよ」

 仁吾は考え深そうな目で直人を見下ろす。

「ノートをおじいさんにもらったって書いてたね。もしかしたら、君はぼくの子孫なのかい?」

 答えにつまった直人に、仁吾はやわらかくほほえんだ。

「そうか。うん」

「でも、ぼく、あなたのこと、何も知らなくて。名前しか」

「そりゃ、そうだろう。ぼくだって百年前のご先祖がどんな人かなんてよく知らないもんなあ」

 楽しそうに言った仁吾は、ちらりと窓の外に目を向けてから、そわそわと立ち上がった。

「このノートはどこにでもあるノートのはずなのになあ。だがまあ、ノートの不思議はともかく。せっかくなら少し外に出てみるかい? 実は出かけようと思っていたところがあってね」

 直人と夏希は顔を合わせてから、そろってうなずいた。まだ本当に、ここが百年前なのか実感がない。どうして来てしまったかわからないし、帰り方もわからないけど。

 こんなチャンスは二度とないにちがいない!

「よし。じゃあ行こう」

 その声に、二人もはじかれたように立ち上がった。

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