2-2 ふりあげられた縦笛

 中休みが終わるチャイムが鳴った。

 次の授業は音楽室だからと、縦笛と教科書持って、みんなぞろぞろとろうかへ出ていく中、夏希は教室の真ん中で、険しい顔でつっ立っていた。

 直人はそっとふり返って、もうだれも残っていないことを確認すると、思い切って夏希に声をかけた。

「どうしたの? 急がないと三時間目、始まっちゃうよ」

 夏希と話すのは、十日以上前におはようと声をかけて以来だった。

 夏希には、直人のビクビクした気持ちが伝っていたのだろう。無言でにらんでくる。

 また何かかくされたのだろうか? でも夏希の手には縦笛も教科書もちゃんとあった。

「なにか、あったの?」

 ろうかから、将平がそわそわとこちらを見ていた。もういいから早く行けよと思って手をふったのに、将平は動かない。

 直人も夏希の返事を待って動かなかった。

「……笛」

「笛? 持ってるじゃん」

「トイレに突っ込まれてた」

 なんだそれ? なんだそれっ!

 直人が、びっくりしたあまりに口を開けたまま突っ立っていると、夏希の顔がくしゃっとゆがんだ。

 泣いてるのかとはっとした瞬間、夏希は縦笛を直人に向かってふりあげた。

 直人の運動神経は、クラスでも下から数えた方が早い。それでもよけようと思えばよけられたんじゃないかと、後になって思った。

 夏希だって、直人がにげると思っていたのだろう。

 でも直人はよけなかったし、夏希もふりあげた手をそらそうとはしなかった。

 おでこにガツッと衝撃がきた。それから一瞬、目が見えなくなって、頭がガンガンと痛んだ。

「直人っ! ちょっと、おい、大丈夫か?」

 将平の声に目を開けたら、なぜか天井が見えた。

「あれ?」

「あれ、じゃないよ。保健室、行こう」

 うでを引っ張られたけど、なんだかクラクラしてまた目を閉じたくなる。

「起こしちゃダメ。頭……ぶったから。あたしが保健の先生呼んでくる」

 夏希がどこか直人から見えないところから言って、バタバタと教室を出ていく音がした。

「おまえ、血が出てるぞ」

 将平のおびえたような声がしたけど、目を開けていられない。

 縦笛をトイレに突っ込むなんてひどいよね。それなのに先生呼びに行ってくれるなんて親切だなあと、直人はその縦笛でなぐられたことを忘れてぼんやりと考えた。




 その日、直人は生まれて初めて救急車に乗った。それからCTスキャンとかいう脳のダメージを見る検査を受けた。

 夏希になぐられたのはおでこだったけど、お医者さんは頭の後ろを気にしていた。ひっくり返った時に、机の角でぶつけたのだ。

 でも最後には、しばらく家でおとなしくしているようにと言われ、おでこの傷を消毒してテープで止めただけで解放された。

 むかえに飛んできた母の美代子といっしょにタクシーで家に帰ってきた直人は、そのままベッドにねかされた。

「念のために今週はもう学校はお休みしなさいね」

 お母さんは、きっぱりと告げた。

「夕方、家にうかがいますって浜田先生から電話があったけど、その前にお母さんと話せる?」

 直人は迷った。これまでの夏希のイジメのこと、お母さんに話したらなんて思うだろうと考える。

 自分はいじめたりなんかしてない。むしろ被害者だって言ったら? そうだねと言ってくれるだろうか。

「浜田先生、なにしに来るの?」

「学校でケガしたんだもの。それに」

 お母さんはちょっと言葉を切って、直人の顔を見ながら、そっと頭のテープに手を当てた。

「園田さん……夏希ちゃんにぶたれたんだって? あの子が理由もなくそんなことするはずがないから、直人の話を聞きたいって」

「何だよ、それ」

 学校で事件が起きたら犯人探しをしなくてはならないってことだろうか? それで浜田先生は、直人と夏希のどちらが悪いかを決めるつもりなんだろうか? 事なかれ主義が通用しなくなったから?

 直人は、お母さんの手をそっとどけた。

「今は話したくない。先生にも会いたくない。それから……」

 直人は口ごもって顔をかべに向けた。

 頭はまだジンジンするけど、もうどうってことない。それよりも何かに腹が立ってしかたない。

「夏希の笛がぼくにぶつかったのは本当だけど、でも別に夏希は悪くない。保健室に先生呼びに行ってくれたし」

「ぶつかったの? ぶつけたんじゃなくて?」

「そうだよっ! ぼくがちょっと間ぬけだっただけだよ」

「そう……」

 お母さんは考えるように直人を見つめたが、それ以上は聞き出そうとはしなかった。

 代わりに冷蔵庫からプリンを持ってきて、食べたら少しねなさいと言って部屋を出ていった。

 プリンは大好きなはずなのに、あまり味がしないような気がした。それでも食べてしまうと、直人はベッドから起き上がって、机の前にすわった。

 どうしようと迷っている間に、どんどん良くない方にいってしまう。

 これは自分が悪かったのだろうか。

 ふと、机の上のノートが目にとまった。

 なんとなく開く。そして目が丸くなった。

 新しく文章が増えていた。


『気になって仕方がないので新たに記す。

 君と夏希君は上手く話せただろうか。夏希君や君の立場の改善はどうなっただろう。

 先には自分の方が年長者と断じて君に上から物を言ったが、良く考えるまでもなく、ぼく自身も時に自己をあわれみ、保身に走る事をここに告白しておこう。

 君は漱石の小説は読んだだろうか。昨年単行本で出版された『草枕』の冒頭の一節にこうある。

 智に働けば角が立つ。情に竿させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。

 まさにと、ぼくは思わずひざを打ったよ。君には少々早い小説かも知れないが。

 だからと言って、今の君達がどうすればよいという思案は浮かばないのが残念だ。』


 また難しい漢字がたくさんあったが、直人はジンジンする頭を動かさないようにしながら指で一文字ずつ確認して読んだ

「漱石って夏目漱石とかいう人だっけ?」

 口にしながらまゆを寄せる。パソコンが使えればネットで調べることもできるけど、お母さんが浜田先生を待っているリビングに降りて行く気はしない。

「えーと、夏目漱石って『坊ちゃん』とかいう本を書いた人だよね」

 教科書にのっているような人が生きている時代なんだと思うと、改めて仁吾とノートでコミュニケーションをとっていることが、不思議でならない。

 でも、今はノートの不思議より夏希のことだ。

 夏希は、なんでぼくに縦笛をぶつけたんだろう。

 ぼくが、からかうと思ったんだろうか。それとも標的が夏希だけですんで、ホッとしていたことを見ぬかれたんだろうか。それとも――。

「あぁ、わかんないなあ」

 頭をかこうとした手がテープにふれて、直人はうなだれた。

 なぐられた頭は痛い。傷もしばらくは目立つかもしれない。でも、笛をふり上げた時の夏希の、怒ったような泣いたような顔を思い出すと、やっぱり悪くは思えなかった。


『夏希のことですが、今日は縦笛がトイレに投げ込まれました。だれがやったのかわからないけど、とてもひどいことだと思いました。

 ぼくは夏希に話しかけてみました。そして縦笛でなぐられました。

 血が出て目を回してしまったので、今日から日曜日まで、ぼくは学校を休むことになりました。お医者さんにみてもらったので、傷の方はもう大丈夫です。

 でもぼくは心配です。先生は夏希が暴力をふるったと、おこったかもしれません。クラスのみんなもそう言って、夏希は今よりももっとイジメられるんじゃないかと思います。

 夏希は確かにぼくをなぐったけど、ぼくはそのことではあまり腹を立てていません。

 なぜなら、夏希はぼくのことも、みんなといっしょに無視する敵だと思っていただろうし、笛だってあんなに強くたたくつもりじゃなくて、ぼくがよけると思っていたんじゃないかと思います。

 ぼくは、夏希をイジメているのはみんなの方じゃないかと教室でどなれば良かったのかな。先生にもはっきり言えば良かったのかな。

 勇気のなかった自分がとてもくやしくて、みじめです。』


 そこまで書いたら、なみだが出てきた。

 直人はノートを閉じるとベッドに転がった。

 自分がヘタレな弱虫だってことはわかっている。でもそれを言葉にして書いたら、よけいにみじめでたまらなくなる。

 マクラに顔をおしつけて、直人はしばらくの間体を丸めてねむりに落ちた。



 目を覚ますと、もう窓の外はうす暗くなっていた。泣いたせいか、ねむったせいか、少しだけスッキリしたような気がした。

「あら、起きたの?」

 寝返りを打とうとしてギョッとする。いつの間にお母さんが、ベッドの足元に座っていたのだ。

「お母さん、なんでここにいんの?」

「久しぶりにあんたの寝顔をじっくりながめてたわ」

 ふふふと笑われて、直人はマクラで顔をかくした。小さい子どもあつかいされたみたいで恥ずかしい。

 お母さんは、よいしょと声をかけて立ち上がると、笑いながらドアに向かった。

「今晩はなにが食べたい? お腹、空いてない?」

「特に食べたい物はないよ」

「目が回るとか、はきけがするとかはない?」

「ない。それよりお腹すいた。給食も食べそこなったし」

 直人がお腹をおさえて言うとお母さんは、はいはいとうなずいた。

「それじゃあ、うんとごちそうにしましょ」

 買い物に出て行く音を確認すると、直人はほっと息をはいた。

 学校で何があったか聞かれるかと思ったのに、お母さんは何も言わなかった。

 浜田先生は、もう来たのかなと天井をにらむ。

 それならお母さんは夏希のことを悪く思ったかもしれない。せめてその誤解だけは解いておこうと思った。



 夕飯は、お母さん特製ロールキャベツのクリームシチューだった。

「おいしかったあ。ごちそうさまでしたっ」

 ぱちんと両手を合わせてから、直人は母親に呼びかけた。

「ねえ、お母さん」

 洗い物を始めていた美代子は、すぐに手をふいて直人のとなりに腰を下ろした。

 いつもなら後にしてと言われるか、台所から大声で用件を聞くのに、やっぱりケガをしたから気を使われているんだなと思ったけど、大声で話す気分じゃなかったからちょうどよかった。

「先生、来た?」

「来たわよ。謝っていらしたわ」

「何について謝ってたの?」

 お母さんは、いつも笑っているような顔を、めずらしくしかめて見せた。

「子どもが救急車で運ばれるようなケガをしたら、まあ学校してはとりあえず謝るものよね」

「なんでケガをしたかは聞いたの?」

 お母さんは、じっと直人の顔に視線を当ててうなずいた。

「夏希ちゃんがうっかりふり回した縦笛が、たまたま近くにいたあんたに当たったんだって。ちがうの?」

 なるほど、それなら夏希はわざとケガをさせたんじゃないってことになる。それにイジメのこともなかった事にできる。

 直人は、ホッとするのとガッカリする両方の感情を味わった。

 先生はずるい。

 それが大人のやり方なのかもしれないけど、元々の問題は、全然、全く、ちっとも解決されない。

 直人はくちびるをとがらせた。

「ねえ、直人。先生のお話を聞いてね、お母さん、変だなぁと思ったのよ。夏希ちゃんのこと、幼稚園のころから知ってるけど、ふざけて笛をふり回すタイプじゃないような気がしたの。これが将平くんとあんたならあり得るんだけどね」

「う、うん。いや、将ちゃんだって今はそこまではやらない、と思うよ」

 少し歯切れが悪くなったが、とりあえず一番の親友のことは弁護しておく。

「それにね。浜田先生の話では、夏希ちゃんは、あんたのケガにショックを受けたから、しばらく学校をお休みするんだって」

「え?」

「先生が帰られてから、夏希ちゃんのお母さんからも電話をもらったわよ。でも、すみませんとしかおっしゃらなかったの。夏希ちゃんはどう言ってるんですかって聞いたんだけど、家に帰ってから一言も口をきかないんだって」

 ズキンと胸が痛んだ。

 夏希は、自分がイジメられていることを自分のお母さんに言いたくなかったんだと思った。

 ぼくだってそんなこと言いたくない。巻きこまれたことも、イジメ側に立っちゃったことも。

 それでも話さなきゃと思うと、自分がみじめでまた泣きたくなってきた。だけど、今話さないと。明日になったら、きっと勇気がしぼむ。

「本当はちがうんだ。夏希は、ふざけてたんじゃなくて、ぼくを笛でなぐったんだよ。たまたまじゃなくて」

 お母さんは、かたで大きく息をしたが、続きを待つように口を閉じたまま真剣にうなずいた。

「でもそれは、夏希だけのせいじゃないんだ。夏希は……ずっと学校でイジメられてて。持ち物をかくされたり、こわされたり。今日は縦笛をトイレに投げこまれたんだって。だれがやったのか知らないけど」

「それはひどいわね」

「うん。それでね。ぼくも……最初は何が起きてるか知らないで、普通に夏希におはようって言ったら、それだけでいっしょにクツをかくされてりして。それで、ぼく、巻きこまれたくなくて……だから……」

 だんだん声が小さくなった。

「だから、ぼく……も、夏希に話しかけないようにしてて……でも、今日は音楽の授業の前で、もうみんな音楽室に行っちゃってたし。将ちゃんはいたけど。それで夏希が笛をにぎりしめて泣きそうにしてて、だから、どうしたのって……」

 鼻の奥がつんとして、のどがつまった。

 六年生にもなってお母さんの前で泣くなんて、絶対にイヤだと思うのに、視界がうるんでぼやける。

「そうだったの……そうだったのね……」

 お母さんは、直人が涙をこらえているのに気づかないふりで、何度もくり返しながら、ひざの上で固くにぎられたこぶしの上に、自分の手を重ねた。

 いっしょにイジメられそうになってかわいそうだとも、いっしょになって無視するなんてダメだとも言わない。

 同情も非難もなかった代わりに、直人が落ち着くまで手をにぎってくれて、心がどんどん柔らかくなっていく。

 やがて、直人が鼻をかんだところで、ようやくお母さんは一つだけ質問をした。

「浜田先生はイジメのこと、ご存じなのかしら?」

 直人は、浜田先生のうすいくちびるがゆがんだような笑顔を思いうかべて首をふった。

「夏希は告げ口してないし、ぼくも言わなかった。一回、教室で夏希と早苗がやりあったことはあったけど、先生はきちんと話し合いましょうしか言わなかったよ。クラスの雰囲気は最悪だけど、先生は気づかないでいるつもりなんだと思う」

 あのギクシャクした空気に気づかないはずない。でも先生は聞いてないと言うだろうと、直人は皮肉をこめて答えた。

「そうなの……。わかった。とりあえずあんたは明日は学校お休みしなさい。それから、夏希ちゃんのお母さんに、直人から聞いたことはお伝えするわよ」

 話してもいいかではなく伝えると宣言したお母さんは、直人の手をポンとたたくと立ち上がって電話に向かった。

「でも、夏希はお母さんに知られたくないんじゃないかな……」

 自信なさそうに言うと、お母さんは、くるっとふり返った。

「あんたもそう思っていたでしょ?」

「……うん」

「で、今もそう思ってる?」

「……そうでもない」

 直人は、いつもは丸いお母さんの目が、三角にとがっているのに気づいて、つばを飲み込んだ。

 うわっ、お母さん、実はめちゃくちゃおこってる?

 大声でおこることなんてめったにない母だけど、心底腹を立てると目つきが変わるのだ。

 直人は、あわてて手を上げて聞いた。

「あの……夏希にどなったりするの?」

「そんなことしないわよ」

 お母さんは、にこやかにも聞こえる口調で答える。

「そりゃ、わざとぶったんなら謝ってもらうけど」

「でも、それは」

「謝る機会をあげないと、夏希ちゃんだってつらいでしょ」

 そうなのかなと、直人は口を閉じる。

「子どもがつらい思いをしてるのに、知らないでいる親の気持ちも考えなさいな。夏希ちゃんが自分から言いたくないんだとしても、このままでいいとは思ってないでしょ? いいから、あんたはもう上に行って寝てなさい。けが人なんだから」

 それだけ言って、お母さんは断固として受話器を取り上げた。

 直人は、どうなるんだろうとドキドキしながら、その場からにげ出すように自分の部屋にもどった。



 ぜんぶ話せた安心感からかウトウトとしてると、お母さんが部屋に来て言った。

「夏希ちゃんのお母さん、泣いてたわよ。話してくれてありがとうって。それからケガをさせてごめんなさいって。これから夏希ちゃんとよくお話されるそうだけど」

 ふーんと、もごもご答えると、お母さんがくすっと笑った。

「あんたは、来週から学校に行けそう?」

 直人はちょっと考えてみた。救急車で運ばれるときは大げさだなあくらいにしか思わなかったけど、学校に行ったらクラスのみんなからいろいろ言われるんだろうなと思うと気が重い。

 夏希の悪口も、もう聞きたくなかったし、ましてやこれまでみたいに知らんぷりするのもイヤだった。

「夏希が学校に行くなら、ぼくも行く」

 考えた末に言うと、お母さんは、困ったような、安心したような、どっちつかずな顔でテープをはった頭に手をやった。

「わかった。じゃあ、あんたが安心して学校行けるようにするためにも、夏希ちゃんのお母さんとよく話し合ってみるね」

 その声も仕草もとても優しかったけど、直人は、なんだかちがう、と思った。

 きっと夏希もそう思うんじゃないかな、とも。

 ぼくは……ぼくたちは、お母さんたちに何でもやってもらいたいわけじゃないんだ。だってこれは、ぼくたちの問題なんだから。

 浜田先生のやり方には腹が立つけど、それは大人の話だ。

 でも早苗と夏希、それからクラスのみんなのことは、子どもの話なのだ。

 縮こまって知らんぷりしたあげくに、親に丸投げするのかと思うと、ますます情けない。

 だからといって、教室に入って行って、「みんな聞いて! こんなのはオカシいよね。やめようよ!」なんて言う勇気もないし、そんな言い方したってみんなシラケた顔をするのはわかっていた。

「あの、さ……。夏希のお母さんと話すのはいいんだけどさ……。夏希の気持ちとか、どうしたいかとか。なんかそういうのちゃんと聞いて? 学校のことはそれからでいい? それで、もしお母さんたちにお願いしたいことがあったら、そのときはぼくたちから言うから」

 お母さんは、びっくりしたような顔で直人を見下ろした。

 話してくれたからには、助けて欲しいのだと思っていたようだった。

「……そう、そうね。あんたたちのことだもんね」

 美代子は小さくため息をついたが、直人はだまって布団をかぶりなおした。

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