sideB-2
「母さん、ここにあったイヤホン知らない?」
「あ、ごめんテレビの前に動かしちゃった」
「ん、了解」
イヤホンを回収し、そして、そのまま自室に帰っていく。
リビングに、渉くんの私物は少ない。渉くん自身が、リビングにいる時間も少ない。テレビも積極的に見る方じゃないし、ごはんのとき以外は、自分の部屋に居る。
もとからそういう人なのか、それとも、私たちと同居し始めてからそうなったのだろうか。
気を遣っていないだろうか。急に同じ家に、女がふたりも転がり込んで、窮屈しているんじゃないだろうか。
渉くんだって年頃だ。そして、私の娘のみっちゃんも。遠慮をして、自分の部屋から出られないなんてことにはなっていないだろうか。
「渉くん」
思わず引き留めた。
リビングを出るドアで、彼が無言で振り返る。
「えっと……今、忙しい?」
「別に。何か手伝う?」
そして夕食を作っている私のところへ、やってくる。
「お願いしてもいい?」
「手伝えって言っていいんだよ」
あ。
「充月ちゃんには言うくせに」
小さく呟く彼の声は、戸棚に向き直り私に背を向けていても、しっかり届いていた。
本人は、聞かせる気はなかったらしい。素知らぬ顔で、私を振り返る。
「この皿でいい?」
「うん、ありがとう」
涼しい顔をして。
彼はそれを調理台に並べる。
「あ、二枚でいいよ」
「二枚?」
「みっちゃん友達と食べてくるって。お父さんは出版社のパーティーとかで」
渉くんが二枚のお皿を残し、二枚のお皿を戸棚に戻した。
「冷蔵庫に煮物残ってるから、温めて、分けて」
後ろで渉くんが動く音を聞きながら、炒め物をする。
「最近、大学どう?」
何気なく会話の糸口を見つけようとして、私がそう訊くと、渉くんは急に笑い出した。
「最近、って、昨日もそれ訊かれたんだけど」
「えっ」
そうだっけ。昨日……うん、訊いた。記憶にある。
「じゃ、じゃあ、今日は大学どうだった?」
「昨日とそんな変わんないよ」
彼はころころと笑い、私は恥ずかしくなった。
「あ、でも今日は五限がお気に入りの授業でね」
彼はごはんの支度が整うまで、その授業と先生について面白おかしく語ってくれた。
優しくて、社交力があって、話し上手で。
「でも急に来週までにレポート書いて来いって言われてさー。急すぎるだろっていう」
気遣いができて。
「じゃあ、ごはん手伝ってる場合じゃなかったねぇ」
私がそう言うと、彼はしまったというような顔をした。
「い、や、別に」
さっきまでは話しながらもてきぱきと要領よく働いていた彼が、動揺して手を止める。
「レポートやる気しなかったから……、夕飯手伝いたい気分だったし、えっと、あ、図書館で本借りてこないとどうせ進まないっていうか」
嘘を吐くのが下手なところまで、航平さんにそっくりだ。
「渉くん」
「……はい」
「気を遣わなくていいのよ」
彼は手をとめたまま、俯いていた。が、ちょっと経ってまた口を開いた。
「勘違いされたくないから、言うけど」
私は首を傾げ、続きを促す。
「レポートより、母さんと喋る時間の方が今は大事だって判断しただけ」
判断、なんて機械的な言葉を選んだのは、本心か、照れ隠しか。
「母さんと、もっと仲良くならないと」
「渉くん、いいんだよ」
そう思ってくれていたんだ、嬉しい。
親が、勝手に知らない女とその娘を家に連れ込んで。人生の決まる大切な時期に、安定した環境で、信頼できるお父さんと、変わらない日々を過ごしたかっただろうに。それでも私たちと、家族として成立しようと思って。私たちと、家族になろうと思ってくれて。でも。
「私は、渉くんともっと仲良くなりたいよ」
それは、誰のため?
「……私『も』じゃなくて、私『は』?」
「ならないといけないとかじゃなくて、仲良くなりたいよ」
今になってみれば、ちょっと子供っぽかったかもしれない。
「俺だってなりたいよ」
渉くんは、焦ったように口調を速めてそう言った。
「俺、今、なりたくないけどならないといけないみたいな言い方した? ごめん、そういうつもりじゃなくて、えっと」
言い訳を並べる渉くんに、私は上手に笑えていただろうか。
「いいのよ、別に。ならないと、って思ってくれてるだけで嬉しいんだから。でも、渉くん、無理してないかってちょっと心配だったんだ。渉くんは」
上手に笑えないと。
渉くんにまた気を遣わせてしまう。どうか、笑えていますように。
「私を『お母さん』にしなくてもいいんだからね」
「母さん!」
私はそのとき、渉くんが怒るところを、初めて見た。
調理台をばんっと叩くと思ったより大きな音がして、渉くん自身が慄いたようだった。この子は成人男子なんだと、改めて実感した。
「母さん」
静かに言い直す。
「充月ちゃんの前では自分のこと『お母さん』って呼ぶのに、俺の前では『私』って言うんだよね」
ああ……本当にこの子は、よく見えている。気付いている。
「俺の母さんには、なってくれないの」
彼の声はちょっと掠れていた。
「俺を充月ちゃんと同じように、自分の子だと思ってもらおうなんて、やっぱ、無理だったかな。二十年知らないところで勝手に育った知らない男が、急にあなたの息子ですなんて無理があるよな。そうだよな」
顔を伏せて、だんだん独り言に収束していく渉くんに思わず手を伸ばした。
「ごめんね」
私は彼の背に手を置き、ゆっくりとさすった。
「あなたの二十年を私は知らない」
それは否定できない事実だ。
「一番大変なときに、思春期で、悩みが多くて、不安定なときに、傍にいてあげられなくてごめん。でも、二十一年目を一緒にいさせてくれてありがとう」
あなたに出逢うのが二十二年目にならなくてよかった。
「母さん」
「何?」
「もう子供なんて呼べない年齢になっちゃって、可愛げもなくて、それなのに自立もせずに家の金だけ貪ってのうのうと暮らして」
それは——彼自身のことだった。
「そんなこと思ってないよ」
「思ってない?」
「思ってないよ」
彼の、声変わりなどとうに済ませた低声は、泣きそうに歪んでいて、でも泣くまいと力んでいて、それでも紡がれる言葉は、幼い、居場所を欲して泣く乳児のような、愛されることを求めて悪戯をはたらく幼児のような。
「じゃあ」
怒ったような声色を無理に捻り出して、彼は言う。
「お母さんになってよ」
「分かった。今までごめんね」
彼はまだまだ子供だった。
頭が良くても、気配りができても、周りに合わせる社交力が必要以上に溢れていても、甘えることを欠いた彼は、たっぷり甘える人生のステップをもう一度やり直すことになるだろう。少なくとも私の前では、生まれて一か月の赤ん坊だ。
渉くんが恥ずかしそうに私から体を離した。目は赤くなっていたけれど、涙の跡は無かった。
「ちゃんと渉くんのお母さんになるから、渉くんもちゃんと私の息子になってね?」
忙しいときはちゃんと断れるぐらい。
「母さん」
「何?」
渉くんは少し迷うような素振りを見せたが、言った。
「ママのことは気にしないでね」
言葉が出なかった。
「ママと母さんは、違うから……俺は、ちゃんと分かってるから。比べたりしないし、ママが消えたり、母さんがいつまでも他人だったりも、しないから。そこは、ちゃんとしてるから」
「……お父さんから、何か聞いた?」
そう訊いてから気付いたが、私は航平さんにもまだこの話はしていない。渉くんの前の実の母親は、癌で亡くなった航平さんの妻は、航平さんにとっても大事なひとだから。
誰にも話せないでいた。
「何も聞いてないけど。母さんと、改めてこの話したことなかったから。言っておきたくて」
「実はね、ちょっと気にしてた」
言葉が口を突いて出た。
「仲の良い同居人にはなれても、私は、渉くんの母親にはなれないんじゃないかって」
「母親はひとりじゃなくていいんだよ」
渉くんは、私より二十も年下の男子学生は、私よりずっと大人で、そして、小さな小さな私の息子だった。
喧嘩だっていっぱいしたいよ。安心して反抗期も青年期もしてもらえるぐらい、ちゃんと『お母さん』になりたいよ。
「ごはん食べようか」
彼は笑った。私も笑った。
そそくさと食事を終え、パソコンを自室から持ってきてソファを陣取った渉くんを微笑ましく思いながら、私はお皿を洗い、ふたり分のコーヒーを淹れた。
四人で晩餐を 森音藍斗 @shiori2B
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます