sideA-2
「ただいま」
「おかえり」
必然的に、今日の夕食は俺と充月さんのふたりきりになるわけである。
「ごめん、晩飯まだ出来てない」
挨拶をするためか態々台所に顔を出した充月さんにそう言うと、彼女は俺の顔をじっと見、そして、またふいと顔を逸らした。
昨日の夜のご機嫌斜めがまだ治っていないと思われる。
「着替えてくる」
充月さんは高校のセーラー服の、プリーツスカートを翻して台所を出ていった。台所には再び、俺と、ぐつぐつとシチューが煮える音だけが残った。
それを、寂しいと思った。
今までは当たり前だったのに。人間の習慣というものは、数年来の習慣は、一か月で、かくも簡単に変わるものなのか、という感慨に浸る間もなく、部屋着に着替えた充月さんが、台所に再び入ってきた。
「何すればいい?」
「何っていうのは」
「……お茶淹れるね」
「え、いいよ、俺がやるから」
手伝おうとしているのか、この子は。なんて育ちがいいんだ。渉は手伝えと言わないと手伝わないのに。思えば、彼女とふたりきりの夜は初めてだ。
「じゃあ、何すればいい?」
彼女が訊く。えっと……。
「座ってていいよ」
そう言った瞬間の彼女は、昨晩、リビングを出た彼女と、同じ目をしていた。
彼女は唇を噛み、顔を伏せ、拳を握り締めて、そして、ダイニングテーブルの、梨恵の席に座った。
いつもの充月さんの定席の対面にあって、俺の席の対角線にあって、台所に背を向ける形になる、梨恵の席に座って、テレビを点けた。どうして彼女がその席を選んだのかは、訊いてはいけない気がした。何となく。
だからってどうすればいいのかも分からなかった。
手伝いたかったのだろうか。料理が好きだということか。俺も料理は好きな方だが、朝練に行って授業に行って放課後も部活をして暗くなってからようやく帰宅して、率先して台所に立ちたいとは流石に思わない。そんなときは人が作ってくれた食事が美味しいものだ。外食だったり、渉の気紛れだったり、この一か月は、梨恵だったり。
だいたい、今まで同じような時間に充月さんが帰ってきて、梨恵がまだ夕食の支度をしていても、充月さんが疲れてソファで寝てしまっている場面を俺は何度も見てきた。朝練が無い日でそれだ。今日は、特に疲れているんじゃないだろうか。
じゃあ、充月さんが帰ってくるまでに晩飯作り終わらなくて充月さんを待たせている俺が悪い。なぜ晩飯作りが終わらなかったかというと、打ち合わせが長引いた挙句にスーパーで時間を潰してしまったからだ。なぜ打ち合わせが伸びたかといえば俺の原稿が進まなくて結局遅刻したからで、なぜスーパーで時間を無駄にしたかといえば、充月さんの好きな食べ物を晩飯にして仲直りしようと思って、充月さんの好きな食べ物なんて分かんなくて、そんなことも分かんない自分も嫌で、どうやったら父親になれるかなんて考えていたからだ。そう。つまりは俺が悪い。
それとも。
「充月さん、もしかして俺の飯、口に合わない?」
台所からダイニングに声を掛ける。
俺は普通に食える味だと信じて今まで料理を作ってきたし、渉も文句言わずこれで育ってきてくれたが、ひょっとしたらひょっとして、俺らって親子で味音痴……なんて可能性に思い当たると急に焦りを感じ始めて俺は煮えたぎるシチューを味見した。
「あっつ」
碌に冷ましもしなければ火傷をするのは当たり前だ。
「ちょっとお父さん」
椅子に座ったまま振り返った充月さんが、俺が味見用の小皿を取り落としたのを見て慌てて駆け寄ってきた。
「いやごめん大丈夫大丈夫」
精神的に大丈夫じゃない。泣きそうだ。
格好悪い。
まともに稼いでもいないダサい子連れ男が、急に父親ですなんて同じ屋根の下に我が物顔で住みだして、欲しくもない苗字も押し付けて、クソみたいな料理を平然と食わせて、美味しいねぇなんて馬鹿を晒して、挙句、動揺して食器を落として心配される。
俺だって、充月さんの父親に、なりたかったんだ。
それなのに、醜態だけ晒して。
「お父さん大丈夫? 火傷してない?」
ああ、もう呆れられただろうな、なんて、逆に冷静な頭で考える。梨恵とは上手くいっていたのだけれど、こういう形での離婚というのも、そうか、可能性的にはあるんだな。それとも、別居ぐらいで許してくれるだろうか。充月さんが大人になって家を出るまで……いや、家を出ないかもしれないか。渉はここに残りたいだろうか。俺一人よりこっちの方が温かくて賑やかで手厚くて、料理が上手いもんな。
「お父さん」
こんな可愛い娘が、梨恵と血の繋がった娘が、お父さんって呼んでくれるなんて、やっぱ夢を見過ぎたのかなあ——
「お父さん!」
肩を大きく揺さぶられて、俺は我に返った。目の前には、充月さんが、俺の肩を鷲掴んで、そして俺の目を真っ直ぐ見ていた。
「あ、充月さん、えっと」
「取り敢えず」
充月さんはシチューの火を止め、小皿を拾い、傍にあった布巾で床に零れたシチューを拭った。幸い小皿は割れていなかったが、ひびが入ってもう使い物にならなかった。手を掛けてちょっと力を加えると、ざり、と砂のような、陶器の断面が擦れる音がした。
「私、お父さんのごはん好きだよ」
充月さんが、俺の足元に屈んだまま言った。
「ごめんなさい」
「え、何でそこで充月さんが謝るの?」
皮肉でも威圧でも何でもなく、ただ疑問で、甚だ不思議で俺は訊いただけなのに。
「ごめんなさい」
充月さんはさっきよりか細く、さっきより震える声で、繰り返した。
俺は充月さんと同じようにしゃがみこんだ。それで漸く気づいた。充月さんが泣いていることに。
「私、私、お父さんともっと上手に仲良くしたかっただけなのに、昨日も、今日も」
手では囲い切れず床に水滴を落としながら、彼女は喘いでいた。
「お母さんが好きで結婚したのに、私みたいな面倒なのがついてきてごめんなさい」
絶句した。
俺が彼女の肩に手を置くと、彼女は首を横に振りつつ、まだ続けた。
「たぶん、私が押し付けちゃってたんですね。お兄ちゃんと対等に呼び捨てされて、お兄ちゃんと同じぐらいお父さんの娘になりたいとか、お兄ちゃんに手伝えよーって言うのと同じぐらい私にも手伝えって言ってほしいとか、……困りますよね、急に馴れ馴れしくされても」
「充月さん」
まだ……それでも、まだ、俺は。
「頭撫でていい?」
許可を求めて質問をしてしまうのだった。
充月さんは何も言わなかった。仕方なく、俺は、拒否らなかったら肯定ってことにするよ、と追加文句を付け足した。彼女は何も言わなかったので、俺は彼女の頭を撫でた。
「充月さん——充月」
充月がちょっと顔を上げた。
「ごめんね」
充月は動かなかった。
「充月の好きな食べ物も知らなかったから、俺のいちばんの得意料理、これで、仲直りしてもらえないかな」
「……謝ってるのは私の方なのに、」
「謝らせてごめん」
俺は、頭を下げてそう言う。
「泣かせてごめん。充月のお父さんになれたことが嬉しくて、充月に嫌われたくなくて、充月ともっと仲良くなりたいってことが上手に伝わってなかったみたいで、本当にごめん」
「……美味しかったら許す」
食べようか、と俺は充月の腕を取って立ち上がった。
「充月、パン切ってもらっていい?」
彼女の顔に笑顔が咲いた。
戸棚からバゲットを取り出す充月の背中に、言う。
「俺だって、充月のお父さんは一年生だからね」
充月が、振り返った。
「じゃあ、私は生まれて一か月の赤ん坊でもいい?」
笑う。
「いいよ」
これまで十六年間の充月を、見てこられなかったのは残念だ。でも、充月と出逢うのが、これ以上遅くならなくてよかったとも思う。
「いっぱい喧嘩しようね」
俺がそう言うと、
「私が勝手に夜泣きするだけだから大丈夫」
充月が涙の跡のついた頬で、にっと笑った。
シチューの
もう使えない味見用の小皿は、今でも俺の文机に飾ってある。
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