鹿の王

 森の木々は、騒めいていた。まるで魔女と鹿の民の心を表しているかの様に。

 有象無象と化した彼らの前に、シンリは勇ましく、顔にいつもの奇怪な笑みを貼り付けながら仁王立ちしていた。


「やあやあ、諸君。少し落ち着こうじゃないか。君たちはお互いに、大きな勘違いをしているんだ。ちゃんと論理的に話をして、理解を深めよう!」


 そして、けっけっけっと、奇怪で不快な笑い声をあげる。

 そんなシンリの様子を、鹿の民たちは冷え切った目で見つめた。


「何故、お前のような、ちぐはぐで歪なヤツと話をせねばならんのだ」


 鹿の民の群衆を代表して、先程まで先頭を切っていたリーダー格の鹿の民が声を上げる。『ちぐはぐで歪なヤツ』という表現はきっと、シンリの『魂の形』について語っているのだろう。だが、シンリの顔には相変わらず、いつもの笑みが離れない。


「うん、だろうと思ったよ。ということで、君たちの『王様』と会わせてもらえるかな?」


 シンリのこの言葉に、先程までシンリを睨みつけてた鹿の民たちは、目を見開き、お互いに顔を見合わせ、混乱した様子だった。

 突如な現れた奇妙な不審者が、高貴な位に位置し、敬愛する『王』と会おうとしているのだ。騒つかないほうが、無理があると言えよう。

 そして、ざわざわと囁きを増す群衆を沈めるように、シンリは声を張り上げ、陳じた。


「君たちの王────鹿の王と、会わせてほしい。ほんの少し、話をするだけだ。彼なら、きっと、こちらの話を理解してくれる」


 顔は笑ってはいるが、その瞳には力強い光が宿っていた。薄気味悪い笑みを浮かべていた、先程までの道化じみた雰囲気とは打って変わり、凛とした芯のあるもの風格へと様変わりしている。

 あまりの急な変わり様に、鹿の民は驚いた。それで余計、混乱が増した様にも見える。

 時雄には、シンリの今の行動が滑稽に見えたが、同時にそれがの様にも見えた。わざとその場を混乱させ、何かを起こそうとしてる───と考えてしまうのだ。

 時雄は冷えた拳を握りしめ、この場がシンリの発言によって、どう変わるのか、きちんと見届ける決心を固める。


「何を騒いでおるんじゃ……?」


 森の奥の、更に奥の方から、嗄れた老人の声が喧騒の中心にいる者の耳まで届いた。声がした途端、鹿の民は一様に声がした方向へと体を向け、低く跪く。

 彼らの一連の行動から、声の主ははっきりとしていた。この世界の理や文化に関して、全くの無知である時雄にすら、その声が誰のものであるのか理解できたのだ。

 がさり、がさりと、森の草木をゆっくりと搔きわける音が森中に響く。その音が終わった頃には、一同の前に一人───或いは一匹の、年老いた【鹿の民】が立っていた。


 彼の豊かな腰まで伸びた白髪と髭は、他の若い鹿の民の黒髪に比べ、強いうねりを持っていた。腰の下にある鹿の肢体は、若い者に比べて、やはり色素が薄く、艶も失われている。身体中の骨は弱々しく、肌は皺だらけで痩けており、人間の老人と変わらぬ容姿をしていた。

 だが、どうやらこのヨボヨボの老人は、間違いなく『鹿の王』の様で、先刻まで騒いでいた鹿の民は皆、跪いたまま黙りこくっている。

 鹿の王は自分の足元に跪く民を一望してから、ゆっくりシンリの方へと顔を向けた。そして嗄れた声で、慎重に言葉を紡ぐ。


「久しいのぉ、友よ。一体、どこへ行っておったんじゃ?」

「鹿の王。確かに君と最後にあったのは、だいぶ前の事だが、今はそんな呑気に話し合ってる時間がないんだ。許しておくれ」


 まるで古くからの友人かの様に話し始める、鹿の王とシンリを見て、その場にいた誰もが驚いた。だが、とても声をあげたり、横にいる者と囁ける様な雰囲気ではなかった。

 そこには、鹿の王とシンリの二人しか存在しない。


「鹿の王。頼みがあるんだ。ここにいる君の民の何人かを、貸して欲しい。『サイクロプスの心臓』を破壊せねばならないんだ」


 シンリの言葉に、鹿の王は少しばかり右眉を上げて、答えた。


「貸すのは構わんが、しかし、何故『心臓』を破壊するんじゃ? そうすれば、最初の魔女は本当に死んでしまうぞ? 世界の均衡が崩れてしまうのではないか?」


 左右にゆっくりと、シンリは頭を振る。その顔には、いつもと変わらぬ笑みが浮かべられていた。


「世界の均衡は崩れない。むしろ良くなるよ。世界は救われる。君ならきっと、事さ」


 そして、けっけっけっと、奇怪で不快な笑い声をあげる。

 つられる様に、鹿の王も笑う。


「友よ、お主はいつも奇妙な笑い方をするのぉ。ああ、お主は変わらぬ。この老いぼれとは違ってな」


 年老いた鹿の王は、跪く自分の民の中から、一番信頼の置ける腹心を二名、シンリと最後の魔女に貸した。

 時雄と最後の魔女を除いた魔女たち、そして大勢の鹿の民だけが、状況を理解できぬまま、互いの顔を無言で見つめ合っていた。


「さあ、行こうか。『心臓』を倒しに」


 いつの間にか、例の古書を手に抱えた最後の魔女の周りに、二名の使者とシンリが立っていた。どうやら、この【鹿の民】が住む森に用はないらしい。

 時雄は、なんだか置いてけぼりにされた気分になり、今頃になって、急に家が恋しくなった。だが、この『心臓』の討伐が終われば、きっと家に帰れるはずだと、自らを奮い立たせる。

 そんな時雄の心中を知ってか知らずか、シンリは時雄の肩に───最後の魔女の弟子だった、今は亡き少年の肩に───手を乗せ、言葉を掛けた。


「まだ、戦いは始まったばかりだよ、少年」

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